車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

木曽路を行く・奈良井宿~特別編~ in 長野県塩尻市楢川

2022年05月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

木曽路の宿場歩きはこの奈良井宿がラストですが、ここでは特別に忘れ難い経験をしました。私の好きな言葉の一つ「一期一会」。この時の思い出はまさにその言葉そのものでした。

宿場歩きの途次に何気なく見かけた風景・・・その方は秋の日差しの下で何やら熱心に作業をされていました。

モノ作りを見るのが大好きなご亭主殿、作業をされるその方の手元にある不思議な形に魅せられてずっと眺めていたのですが、ふいに「興味がありますか?」と声をかけられ、作業の終わった不思議な品を手に取らせてくれました。

その後は「どこから来たの?」「はい、京都からです」とよくある会話が続き、「京都からですか、では一力はご存知ですか?」と聞かれ、「一力は「万」の字を二つに分けて一力としたんですよ」と・・

そこから話が弾み、書の話になりお店の看板文字の話になり、熱心に耳を傾ける観光客との会話が楽しいと思ってくださったのか、「では記念に一枚、何か書いて差し上げましょうね」と、店内に案内され・・

松坂屋さんの店内には、着物好きならずとも思わず手に取りたくなる和装小物や、漆器のグラスなどがお行儀よく並べられています。

さっき作っていたものの完成品ですよと見せて頂いた漆塗りの「たぼがき」。日本髪を結う時に使われる櫛の一種だと思うも、自分で使ったことが無いので名前に関しても確証はありません。お聞きすれば良かったなと後で後悔。

その後、何枚かの半紙に書をしたため、落款を押し、そのうちの一枚を選んでご亭主殿に手渡してくださいました。

そして「これは貴方にあげましょうね」と言って書いて下さった・・

【軒先に 山法師実る なら井宿】

御主人が作業をしていた腰掛の後ろに、不思議な身を付けた植物があり、何かと尋ねた私に、ニコニコと笑いながら「これは山法師の実だが、見たこと無いかね」

乾ききっていない半紙を大事に下げたまま宿場歩きを続けた二人。軽く二つ折りが大丈夫になるまで、意外と時間を要しましたが無事に自宅の額に収まりました。

訪問日:2010年10月3日

2014年、私たちは再び奈良井宿を訪れました。今回はj🐣さんが一緒だったので、前回のような特別なエピソードは無い筈だったのですが・・懐かしい真っ赤な櫛看板を見て、思わず店内に・・・。

四年前の事を話し、懐かしさについお声をかけてしまいましたと詫びる私を店内に招き入れ、お客様がおいでだったにもかかわらず、友人共々、思いがけないおもてなしをいただきました。御主人はあれから暫くして難病を患われたと奥様から聞かされました。書を頂いたこと、今も大切に額に飾ってある事を話すと、当時を思い出されたのでしょうか。「ではまた一つ書きましょうかね」と、四年前とちっとも変わらない優しい声で・・

お店を辞す時思わず涙をこぼしてしまった私の肩を抱き寄せて下さった奥様。多分これが最後になるかもしれないと思いながら、それでも再会を約束せずにはいられなかった・・・・結局・・果たせる望みが無くなってしまった事が悔しくてならない

あれから随分と歳月が流れて・・・最初に貰った山法師の書は2018年6月の大地震で吹き飛んだ屋根の雨漏りでダメにしてしまったけれど、お地蔵様の絵は今もにこやかに壁で笑っておいでになります。

訪問日:2014年6月20日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木曽路を行く・馬籠宿~其の二 in 岐阜県中津川市(旧山口村)

2022年04月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

昨日に続いての馬籠宿場歩き、まずは「明治天皇御小憩紀念」の碑から。明治13年(1880)、山梨・信 州・三重・京都方面に御巡幸された明治天皇が、この地で御小休されたのを記念して建てられたものです。

碑の後方、黒板壁と冠木門の建物は「藤村記念館(島崎藤村生家跡)」。藤村の生家は馬籠宿の本陣でしたが明治28年の大火で焼失。昭和22年、「この地に地元出身の文豪を記念するものを」と考えた地元住民の勤労奉仕により「藤村記念堂」が建築。昭和30年には「島崎藤村宅跡」として県の史跡に指定されました。

記念館の近くに建つ「大黒屋」。かっては造り酒屋だったそうで杉玉が下げられています。この大黒屋の十代目が書いた「大黒屋日記」が、藤村の「夜明け前」執筆のきっかけになったとか。

【木曾路はすべて山の中である】で始まる「夜明け前」は、馬籠宿を舞台にした歴史小説。幕末・明治維新の激動期を背景に、主人公・青山半蔵を巡る人間群像が描かれています。この作品を文庫本で読んだのは、はるか昔の中学生の頃だった筈。木曽路は山の中・・の序文が心に残っています。

馬籠宿の脇本陣は屋号を「八幡屋」といい、馬籠宿の年寄役も兼ねていたといいます。その建物も明治28年の大火で消失。当時の脇本陣の上段の間を復元した「馬籠脇本陣史料館」の前に建立された『山口誓子』の句碑。

【街道の  坂に熟柿  灯を点す】

長い長い石畳の坂道を登り続けると、唐突に平坦な道路に出ます。道路を挟んだ向い、北口距離標が立つ坂道が陣馬展望台への登り口。近くには木曽代官からの布達そのままに高札が復元されています。

石畳が敷き詰められた細い坂道を登りながら見た景色は、私には全くの非日常。山深いイメージの馬籠宿なのに、はるか彼方まで見渡せる展望所。広い平面に耕された畑・・しばらく立ち止まってこの景色を堪能。

展望所入口、満開のコスモスに包まれるように、ひっそりと置かれた「双体同祖神」。

ところが、このつましい道祖神様、2014年の再訪では整備された上陣場跡展望台の入口近くに新たな場所を得て移設されていました。日差しをさえぎるものなど何も無い広々とした特等席で、静に佇む「双体同祖神」。あのコスモスの中の姿があまりにも慎ましく印象的だっただけに、何とも微妙・・・。

この上陣場跡は、小牧・長久手の合戦の際、徳川勢の武将が馬籠城攻めの陣を敷いた場所。当時の城主は島崎藤村の先祖に当たる木曽氏家臣『島崎重通』。展望広場には、藤村の父『島崎正樹』自筆の掛物を刻んだ碑が建てられています。

【 みすず刈る 信濃の国の 眞木立つ 木曽の谷の外 名に負へる 神坂の邑は 山並の 宜しき里 川の瀬の 清やけき里ぞ 春去れば 霞たなびき 開く花に 鳥は数鳴き 秋立てば 霧たちわたる 往く水を 月こそ照らせ 四つの時 環り來へつつ 山河の 眺めは絶えず 尽き せざるらし  恵那の山 高く聳えて 溪川の 清く流るる 里しよろしも 】

もう一つの碑は、島崎藤村の筆で【心を起さうとおもはば  先づ身を起せ ニィチェの言葉より】

青い空の向こう、重なる雲間の間に、中央アルプスの最南端に位置する恵那山が見えます。その昔、恵那は胞衣(えな-胎児を包んだ膜と胎盤)とも呼ばれていました。「天照大神がここで降誕され、その胞衣がこの山に埋められた」と言うのが山名の由来とか。日本百名山にも選ばれた標高2191メートルの美しい山は、古よりの信仰の山でもありました。

どれほど見ても見飽きる事の無い美しい自然の中にいると、本当に時間はゆっくり流れます。時々、展望台の上に続く道を登るハイカーさんの、腰に下げた鈴の音が聞こえるだけで・・私たちの声以外は、耳障りな嬌声も、街の雑多な騒音も・・・何も聞こえません。

美しい自然に触れると何故かお腹がすくというご亭主殿。空腹感をあまり感じない私には理解できない事ですが😔❓、今回は同行のJ🐣さんを味方につけての希望とあって無下に却下もできません。そんなこんなで二人は「道中おやき本舗・馬籠宿店」で美味しいお漬物をアテに二種類ずつのおやきを堪能。

「おやき」が苦手な私は、内装が素敵な「槌馬屋」さんで、くるみ味噌の五平餅を頂きました。これが想定外の美味しさで、すっかりくるみ味噌の虜に・・と話したら、J🐣さん、さっそく五平餅を注文😅

名残は尽きない馬籠宿散策、どこもかしこも記憶に留めておきたい美しい景色。木の色も空の色も、この時からひと昔以上の歳月が流れて過ぎたというのに、今も目を閉じれば鮮やかに浮かんでくる坂道の石畳。

水路の傍らに祀られる「水神」の碑

稲刈りが終わった後の爽やかな田んぼの風景

名も知らぬ紅の花に羽を休める、名も知らぬ蝶。

中央自動車道恵那峡SA記念スタンプ「馬籠峠」

天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」によれば、馬籠宿の宿内家数は69軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠18軒で宿内人口は717人と記されています。

訪問日:2010年10月2日&2014年6月19日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木曽路を行く・馬籠宿~其の一 in 岐阜県中津川市(旧山口村)

2022年04月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

江戸日本橋から京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ中山道、その距離132里(約530km)。太平洋沿岸経由の東海道に比べて距離は10里以上も長く、また和田峠越えや「木曽のかけはし」など、命に係わるような難所があったにもかかわらず、この山岳を突っ切る街道は、別名「木曽街道」「木曽路」とも呼ばれ、旅人の重要な道となっていました。

日本橋から板橋宿、高崎宿、軽井沢宿、下諏訪宿、木曽路、関ヶ原を経て近江・草津まで六十七次。「馬籠宿(まごめじゅく)」は四十三次、木曽十一宿では一番南に位置した宿場町です。

石畳の敷かれた坂に沿う町並みは、馬籠峠を越えた妻籠宿と共に、観光客に人気のスポット。かく言う私も、随分と長い事「馬籠&妻籠」の地名に憧れを抱いて来ました。

語呂の加減からか「馬籠・妻籠」と対で呼ばれる宿場町ですが、妻籠は「国重要伝統建造物保存地区」。対して馬籠にはそうした歴史的建造物は存在していないのです。明治28年(1895)と大正4年(1915)の火災により、古い町並みは石畳と枡形以外はすべて消失。この事実を知ったのは実際に馬籠行を計画したときで、それゆえ過度の期待を持つのは止めておこうと思っていたのですが・・

けれど、馬籠宿に足を踏み入れた時点で、歴史的がどうこうなんてどうでも良いと思えるほど、心が震えるような感動に目を見張りました。そこに在るのは確かに夢見ていた馬籠宿の佇まい。

坂道に敷き詰められた石畳、いつの時代のものなのか、辻に祀られる阿弥陀堂下の三体の地蔵板碑。

見上げた先に見える佇まいは、馬籠宿に辿りついた旅人たちが目にしたものと、きっと、とても良く似た光景。

宿場を流れる清らかな水路、水路に似合うのは静かに回る水車の音。

いま、私の前に広がる馬籠宿の町並みは、観光資源としての史蹟の保全と、今の生活を共存させる試みの中で、現在の形に復元されたと言います。初めて馬籠・妻籠を訪れたのは2010年の秋、それから4年後の2014年の初夏にJ🐣さんが同行で再訪。行きたい場所で埋め尽くされている私の地図。なのに同じ景色を又見たくなる・・それほどに馬籠宿は心を鷲掴みにしたスポットだったのです。

「清水屋資料館」は、代々馬籠宿役人を勤め、島崎家と親交が深かった『清水屋:原一平』宅。藤村の作品「嵐」の作中で「森さん」の家として登場します。館内には『島崎藤村』直筆の書簡や資料が保管展示されているそうですが・・きっとすごく時間を食うと思うのでパス😓。

四季を通して多くの観光客が訪れる馬籠宿、石畳の両側に並ぶ土産物屋はいかにもな雰囲気。商いをしていない一般の家も当時の屋号を架けたりするなどの工夫が凝らされており、それがまた一段と好奇心を掻き立てます。

だらだらと歩くだけでは心折れそうな坂道ですが、両側に並ぶ土産物の暖簾を見ているだけでも十分に興味深く、 もちろん、全部が全部食べられるわけでも買える訳でもありませんが、のぞき見するのも楽しく、先へ先へと歩が進み・・

知らず知らずのうちにご亭主殿を置いてけぼりにして、勝手に先に進む私😐 ふと気が付いて振り返れば、付かず離れずの位置にいてくれるご亭主殿。何というか・・・いつもより男前度がアップして見える💕

馬籠宿の郵便局。最近はメールばかりだけど、大好きな義姉にハガキを出してみようかな。

独特の木の香りに誘われて近寄れば、木曽五木で作られた「曲げわっぱ弁当箱 」が、使う当てのない私を誘惑します。使う当ての有るJ🐣さん、しこたま悩んでお買い上げ😆

坂道の途中に作られた防火水槽、時ならぬ水音に覗き込めば大きな鯉がゆらりと背びれをゆらし、のったりと顔を持ち上げる。

かと思えば、壁に藤村童話「歌の好きな石臼」の話が貼られていて、でもその下にある臼は木製😅。

坂道の横に延びる細い路地。何気なく立ち入ったその瞬間に目に入るこの景色、遥かにかすむのは恵那の山並みか。

と・・・こんな具合にまだまだ続く馬籠の宿場歩き、長くなるので明日に続きます🌸

訪問日:2010年10月2日&2014年6月19日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふらり寄り道:中津川宿 in 岐阜県中津川市

2022年04月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

「左 苗木道」「右 中山道」と刻まれた道標。旧中津川市では唯一の立ち寄り先となった中津川市駒場。ここは中山道から苗木道(飛騨街道)への分岐点となる地です。

この一画に、通称「こでの木」といわれる「双頭一身道祖神」があるという情報を得てやって来たのですが・・・駐車スペースが無くてご亭主殿は車で待機。

津島神社の常夜灯・・これじゃない😓

有るらしいという情報だけを頼りに来たので、探し当てるのに少々の時間を擁しましたが、沢山の板碑や石塔がある中に、お目当ての道祖神を発見。

中津川市指定文化財 双頭一身同祖神

【石像の左上に「是より苗木道」と彫られたこの同祖神は、中山道の通称「こでの木坂」の頂きにあり、「道しるべ」にもなっていて、中山道から分かれる苗木道との分岐点に置かれている。文化13年(1816)に建立され、男女別々の頭部をもち、肩から足元にかけて一体となっている珍しい形態の石造物である。】現地案内より

見る時々によって、二人の姿は年若くも、年を重ねた夫婦のようにも見える・・その姿は・・とても優しくて穏やか。初めてこの同祖神を見てから既にひと昔以上の歳月が流れた今でも、こうありたいと思わせるような優しさと穏やかさに満ちています。

色を添える曼殊沙華の赤

さて、実は中津川は「栗きんとん発祥の地」の一つ。駅前には発祥の地碑があり、そしてあの甘い匂いがお店の外まで漂ってきます。

同じく駅前の一画には「木曽五木」が植えられており、ささやかな木陰を作っています。

「木曽五木」は、江戸時代に尾張藩により伐採が禁止された木曽谷の五種類の常緑針葉樹林木。「ヒノキ・アスナロ(アスヒ)・ネズコ(クロベ)・サワラ」、そして中津川市の木「コウヤマキ」を指します。自分たちの目と鼻の先にある木材を切る事が出来ない・・切り出して売れば糧が得られるのにできない・・随分と酷い制度です。

落合宿から馬籠に至る県道7号線の一画に広葉杉の大木があり、その根元に「法華塔」と彫った石塔があります。傍らの駒札には「道路下の河原は「賽の河原」と呼ばれ、「桧一本、首ひとつ」といわれた江戸時代の頃の刑場の跡と言われ、その刑場の露と消えた人々の供養のため建てられたともいわれている。」

🙏🙏

中央自動車道・恵那SAの壁画は、浮世絵師『歌川広重』により描かれた浮世絵木版画「木曽海道六十九次の内:中津川」

「木曽海道六拾九次之内:落合」

中津川市山口、美濃路と木曽路の国境にある「道の駅・賤母」。記念スタンプは、道の駅に併設された「東山魁夷・心の旅路館」に因んだ版画作品と「ごへーもち」

地元の特産品や手作りの「杵つき大福餅」、「地元産そば粉のそばまんじゅう井」・・・そして、思わず手に取ってしまう「ごへーもちのたれ」😅

亀さんの口からあふれる水は、かって木曽路を歩く旅人の喉を潤したものと同じでしょうか?水の美味しい土地は美味しいものの宝庫というのが私の持論。さてさて、何から買おうかな😊 

訪問日:2010年10月2日&2014年6月19日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧名鉄・谷汲駅(たにぐみえき) in 岐阜県揖斐川町谷汲

2020年06月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

谷汲村の中心部、谷汲昆虫館に寄り添うように隣接する「旧名鉄谷汲駅」の鳥居を模した入り口。

入り口の柱には旧名鉄谷汲駅が「推薦産業遺産」に認定された経緯が記されたプレートが飾られています。「旧谷汲駅のホームは1926(大正15)年の谷汲鉄道開業当時の貴重なもので、車両は、1926(大正15)年製のモ514、1928(昭和8)年製のモ750が保存されております。また、旧谷汲駅には1911(明治44)年のアメリカ・カーネギー製レールや、谷汲鉄道開業当時から残された1925(大正14)年のフランス・プロヴィダンス製のレールなど貴重なものが多数残されています。~後略」

二人とも、いわゆる「鉄道オタク」ではありませんが、歴史を重ねてきたモノには何故か愛着が湧きます。そんな二人がこれだけの文章を読んだら、それはもう何が何でも見学していかねば、他の名所旧跡はそれからでもきっと間に合うはず。・・・・・結果、「華厳寺」の参拝を😱、コロッと忘れてしまった 😭

改札口の向こうにが見える「赤い電車」。右上に750の文字があるので「モ750形755号車」。 谷汲鉄道の黒野駅から谷汲駅まで路線が延びたのは大正15年(1926)4月6日。「墨野」と書かれた行先票に、当時の勇姿が蘇ってくるようです。

ホームに並んだベンチは、その当時の物かしら?だとすれば相当数の乗客がこの駅を利用していたのでしょうね。名にしおう結願寺である「華厳寺」を有するこの村。季節の賑わいは如何ほどだったのかと、想像するだけで気持ちが華やぎます。

反対側のホームには「モ510形514号車」。赤と白の車体の正面には、終着駅である「谷汲」の行先標。

大方が砂利に埋もれたこのレールが、アメリカ・カーネギー製レールなのか、フランス・プロヴィダンス製レールなのか・・説明の文字が小さくて判読できないのが残念。

鉄道路線の開業は、決して簡単に出来ることでは有りません。国の許可は勿論、多くの年月と莫大な投資のもとでやっと実現できるのです。それでも利用者が少なくなれば存続は不可能になり、そうして廃止を余儀なくされます。

けれど、廃止された後も駅舎に留まる赤い車体は、訪れる多くファンの心に、その長く輝かしい歴史を語りかけてくるのです。

ここからホンの少し足を伸ばせば「華厳寺」の参道があるのに、二人ともその事を完璧に忘れていました😱

訪問日:2012年5月22日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

根尾の淡墨桜(うすずみざくら) in 岐阜県本巣市根尾

2020年05月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

本巣市の根尾谷・淡墨公園にある「淡墨桜」。樹齢1500年以上のエドヒガンの古木で、国の特別天然記念物。日本五大桜または三大巨桜のひとつとされています。珍しく満開の桜ですが、もちろん、某所で見かけたポスターからお借りしたもの😅

私達が延々車を走らせて見に行ったのは、例によって例の如く、岐阜県三大桜「臥龍桜・荘川桜」につぐ、見事な根尾薄墨桜:葉桜バージョン!😠😄

何かすっかり開き直ってますが、これでも意外と真面目に、薄墨桜を目指してここまで来たんですよ。で、見る位置を変えてみても、当然ですが見事な葉桜😊

蕾のときは薄いピンク、満開のときは白色、そして散りぎわには独特の淡い墨色になり、「淡墨桜」の名はこの散りぎわの花びらの色にちなんで名づけられた・・・第26代『継体天皇』お手植えという伝承の薄墨桜。

雄略天皇11年(467)頃、尾張一宮の「眞清田(ますみだ)神社」に生まれた『男大迹王(おおとのみこ)』は、皇位継承に絡み根尾村に逃れた。 生長して29歳となった『男大迹王(後の継体天皇)』が、都からの招きで根尾谷を去る時、『檜隈(ひのくま)高田皇子(後の宣化天皇)』の産殿を焼き払い、その跡に1本の桜の苗木を御手植えされ、身代の形見にしたと根尾谷に伝わっている。【身の代と 遺す桜は薄住よ 千代にその名を 栄盛(さかえ)へ止むる】

由来書の横に建立されていた歌碑。作者は、枯死寸前の淡墨桜に精魂を傾けて、根接術を施し回生させた七十八歳の『前田翁』。その言葉の激しさに胸を打たれました。

【我が命 ゆずるもなどか 厭うまじ 三千歳までも いきよ淡墨】

満開の桜が咲き誇る「根尾西谷川:歩道橋」、桜が見ごろの頃にはこんな写真なんて絶対に取れないだろうなと言うと、「いや、みなさん本物の桜を写すでしょう」とご亭主殿😣。

とりあえず・・綺麗な遊歩道を独り占め😅

薄墨公園の駐車場で見かけた「NEO桜交流ランド」の案内板には、写真と共に幾つかの施設が紹介されています。でもいくら素晴らしくても「花」のない桜には魅力が無いのか(当たり前)、公園内には私たち以外、猫の子一匹居ません😔

ここまで閑散としていると、いっそ清々しい気分になってしまうのが、いかにも私達らしい😄。で、ここでも後になって「薄墨観音」とか「薄墨大師」とかがあったと知って😱・・・こんな😭 泣きっ面になるのです。

訪問日:2012年5月21日

------------------------00----------------------

「一言メモ」

日本三大巨桜・・「三春滝桜(福島県田村郡三春町)」「山高神代桜(山梨県北杜市)」「根尾谷の淡墨桜」

日本五大桜・・上記に「石戸蒲ザクラ(埼玉県北本市)」・「狩宿の下馬ザクラ(静岡県富士宮市)」を加えたもの。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美並あちこちウォッチ in 岐阜県郡上市美並町

2020年05月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

 円空街道の途次で見かけた「基幹集落センター」の案内板。「ここは、大正3年に創立され昭和45年まで使われた「高山小学校」があった場所」とあります。「石造りの門や石垣」、『二宮金次郎』の像が、今も当時の歴史を伝えています。

川千谷の入り口、岩盤をくり抜いた祠に祀られる「鯖大師:石像」。大正十三年三月に建てられたと記されています。この頃に、郡上新四国八十八カ所の石仏作りが盛んになったとか・・お大師様の縁とあれば、ここはきちんとお参りせねば🙏🙏

【大坂や 八坂 坂なか鯖一つ  大師にくれて馬の腹痛 くれて腹止む】右手に鯖をぶら下げた大師さんのお顔、なんだか笑っているように見えて、つい釣られ笑い😊 日本昔話の題材にそのまま使えそうな「鯖大師の逸話」、全国各地に残されています。

「菊間御殿跡(高光屋敷跡)」の看板を発見したので、ちょっと寄り道。「屋敷跡は粥川右岸に位置したと云い、『藤原高光』の長子『高森』が、『粥川』と姓を改めてここに住み、その子孫が代々受け継いできたと伝えられます」・・多分この石橋の向こうに見える広い場所が、その屋敷跡でしょうね。

『藤原高光』と言えば「猿虎蛇」。で、その妖怪退治に一役買ったのが「粥川のウナギ」。高光橋の柵にはこんなに立派なウナギのレリーフがあります。何しろ神様のお使いとされる「粥川のウナギ」。地域の方にとっては大切な大切な存在なのです。

郡上市美並町三戸山の中に鎮座される「鹿島神社」。御祭神は『武甕槌命』。境内案内に「養老年間(717~724)泰澄大師創建四九社の一社と伝えられる。」と記されています。

本殿へ上がる石段途中から神域を守護される狛犬さん。残念ながら私が行けるのはそこまで。ご本殿へと続く石段はとても急で、ご亭主殿からストップがかかってしまいました😔

最後の美並町一押し名所は「日本人口重心地」・・・はて?「人口重心(じんこうじゅうしん)」とは何ぞや?という事でWikiさんにお伺い。簡単に言うと、その地域に住んでいる全ての人が同じ体重を持つと仮定して、その地域を支えることができる重心となる場所・・だそうで、別名「日本のヘソ」とも呼ばれます。

20世紀最後の「人口重心地の記念碑」が建つのは、美並町大原に鎮座される「子安神社」の境内。もちろん、きちんと参拝もさせていただきました🙏🙏。ちなみに訪問はしていませんが、美並町白山には、1995年国勢調査の人口重心を記念して建てられた「日本まん真ん中センター」なるものも存在するそうです。

訪問日:2012年5月21日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

円空のふるさと in 岐阜県郡上市美並町

2020年05月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

江戸時代前期の修験僧・仏師・歌人として知られた『円空(えんくう)』。寛永9年(1632)に瓢ヶ岳山麓の木地師の子に生まれたと云われています。(別説に美濃の国(現:羽島市竹鼻町)の生まれ説も有り)。各地に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで知られ、64年の生涯に約12万体の仏像を彫ったと伝えられています。彼の残した円空仏は全国各地にその所在が確認されており、現在までに約5,300体以上の像が発見されています。

「円空のふるさと」として有名な郡上市美並町。円空仏との出会いは2010年に立ち寄った「道の駅:美並」のお土産コーナー、一段高く目立つ棚の上に並べられた、いわゆるレプリカの木彫りの仏たちでした。

「円空仏」と言うのか・・何だろう?とても不思議な雰囲気の仏像だな・・記憶の片隅に留まったそれは、意外な場所に現れ、折々にその存在を思い出させてくれたものです。それもあって、2012年の岐阜県の旅では、目的地に円空仏との出会いを盛り込んでみました。おだやかに優しく・・・円空仏たちは、旧知の老いた知り合いのような、あるいは、はるか昔に出会った幼子のような笑みを浮かべて出迎えてくれました。

私達の旅の目的は沢山あるのですが、まず第一に車中泊を楽しむ!その為に旅をするといっても過言ではありません😄 もちろん、名所旧跡巡りは必須。その上で ①ご当地マンホールを捜す。 ②神社仏閣でお気に入りの狛犬さんと対面する。 ③各自治体の一押しの色々に触れる。 2017年から④マンホールカードの収集が新たに加わり、忙しい事この上なし😅

美並町に鎮座される「星宮神社」に隣接する「円空ふるさと館」。ここでは初期から晩年期にかけて彫られた円空仏約95体が展示されており、言葉にし難い本物の迫力に魅入られて、つい時間を忘れてしまいます。

館内は撮影禁止なので紹介できませんが、建物の前に置かれていた「合掌仏:護法神」を。

「円空仏」が見られると言う事で、長良川鉄道越美南線の幾つかの駅舎も立ち寄りました。もちろん本物ではなく、円空仏をこよなく愛する人たちによって生み出された仏像たちですが・・まずは郡上市美並町三戸にある「深戸駅」。並んだ三体の仏像は、いずれも不思議な魅力に満ちています。

郡上市美並町白山の「美並狩安駅」に並べられていた円空仏、こちらはいかにも仏像らしい姿をされており、多分それぞれのお名前は私でも知っているんじゃないかと思います。

 郡上市美並町大原にある「大矢駅」に、小豆色の一両電車が入って来ました。緑の山々を背景に遠ざかる電車は、無意識の内に時を止め甘酸っぱい郷愁を誘います。そしてもちろん、ここにも三体の円空仏が、駅を利用する全ての人たちを見守っています。

町の随所に、円空仏を愛する人たちによって奉納された円空仏たち。長良川に架かる郡南歩道橋には、円空水飲み場と題された「円空仏:竜王」。少し先には、お念仏姿の「安全を祈る円空仏」が、ゆるやかな笑みを湛えています。

「円空街道を歩こう」と題された案内板。これでみると結構広範囲に広がっているようですが、とりあえず道々に出会えればラッキーという感じで先に進みます。

「円空街道」と刻まれた碑の傍らには【ひたすらに 日本修行歩きつぐ 円空のたび 此処に始まる】の歌碑。

「円空旅立」の像。

鹿島神社への参拝途中に見かけた円空仏さん。足元に刻まれているのは三猿のようですが、とすればこの仏様は「青面金剛像」でしょうか?なんと穏やかなお顔。

「川千谷:高光橋」。欄干の上の貴人は「猿蛇虎」を退治したと言う『藤原高光』? それともいわゆる「神像」と呼ばれる円空仏?さて、どっち?😅

行く先々に出迎えてくれる「円空仏」、その何ともいえない優しい笑みが、見知らぬ土地にいる楽しさを更に増してくれるようで、郡上市美並町の車散策はもう少し続きます。

訪問日:2012年5月21日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

星宮(ほしのみや)神社 in 岐阜県郡上市美並町

2020年05月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

郡上市美並町高砂に鎮座される「星宮(ほしのみや)神社」。御祭神は『明星天子(虚空蔵菩薩)』
『明星天子』は金星を指し、「明けの明星」とも呼ばれ、『虚空蔵菩薩』の化身・象徴とされています。まさに「星宮」に相応しい御祭神といえます。

「高賀山を囲む高賀六社の一社。粥川谷(長良川支流)にある。社伝によると、天暦年間(947年 - 957年)、この地に妖怪さるとらへびが住み付き、村人に危害を加えているのを聞いた朝廷は、藤原高光をこの地に遣わせ、妖怪を退治した。この時、高賀山大本神宮大行事神社(現・高賀神社)を再建し、七昼夜妖怪退治の祈願をした。その後、高賀山麓の六ヶ所に神社を建立、星宮神社はこの高賀六社の一つとして創建された。藤原高光に善貴星という神が粥を施した地とされる。高賀六社とは、高賀山を主峰とした山(瓢ケ岳、今渕ケ岳、片知山など)の山麓にあり、高賀山を囲む六つの神社をさす。」境内案内

「虚空蔵菩薩は、幸福や知恵を授け、人々の願いをかなえてくれる菩薩である。この信仰は白山を開いた泰澄大師が虚空蔵菩薩求聞持法を修したことによるもので、石微白(いとしろ)・中居(ちゅうきょ)神社の信仰が広がり、平安時代末期に虚空蔵菩薩を本地仏としてまつるようになった。そして虚空蔵菩薩を明星天子としてまつることから星宮と称するようになり、その別当寺が粥川寺であった」。境内由緒書

 木の香りも新しい拝殿は2001年の造営。拝殿正面には『虚空蔵菩薩』の御真言が貼られていたので、いつものニ拝二拍手一拝ではなく、御真言を唱えての仏式参拝としました🙏🙏。

参道から神域を守護されるのは、昭和2年(1928)1月建立の狛犬さん一対。 近江地方に良く見られるお顔立ちで、阿は鞠を、吽は仔狛を手に遊ばせています。

境内には『不動明王』を本尊として祀る「不動堂」があり、また「星宮神社」の御神体そのものが『虚空蔵菩薩像』である事、社宝として平安時代 ~鎌倉時代の懸仏を有するなど、廃仏毀釈以前の神仏習合の形が見事に残されています。

「不動堂」の前に建立されている「宝篋印塔」。二段に作られた「塔身(とうしん)」の上部には「仏坐像」が、下段には「種子(しゅじ)」が刻まれています。(「種子」は、密教において仏尊を象徴する一音節の真言で、種子真言とも言います)

境内に奉納されている祈願絵馬には「星宮神社」「虚空蔵菩薩」の文字が並び、中央に「左鎌」が打ち付けられています。案内によれば、双生児が生まれた時、一方が左遣いとされており、双生児の大碓命と小碓命のうち大碓命が左遣いであったことに由来する。その為、所願の成就を祈る時に左鎌を奉納していた。」・・・という事ですが、説明文の真意が今一つ理解できない😔❓

境内の何処かにあった筈の「亀の背に乗った円空仏」の湧き水。近くを流れる「粥川谷」の水は、岐阜県の名水50選に指定され、ほんのりと口中に優しい冷たさです。

参拝日:2012年5月21日

------------------------00----------------------

御神名一口メモ

『大碓命(おおうすのみこと)』、第12代景行天皇の皇子で「小碓尊(おうすのみこと)=日本武尊」の双子の兄で左利き。東征を嫌がり隠れた為、美濃国に封じられ「身毛津君」「守君」の祖となった。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧白鳥町あちこちウォッチ in 岐阜県郡上市白鳥町

2020年05月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

 美濃加茂市の美濃太田駅から、郡上市の北濃駅に至る長良川鉄道「越美南線(えつみなんせん)」。ワインレッドの美しい一両車両は、線路の上に存在するだけでステキに見えてしまいます😃 長滝白山神社からの帰途に出会った「ナガラ300形気動車」、各駅停車の旅なんて無理とわかっていても、時折無性に乗ってみたくなる😅

旧国鉄時代からの駅舎が今も現役の「美濃白鳥駅」。白鳥町の中心地らしく周辺には町歩きのマップをはじめ、つい足を止めてみたくなるものが点在しています。

駅前にある「白鳥おどり像」は、郡上市白鳥町で開催される伝統的な盆踊りを表したもの。中でも「白鳥の拝殿踊り」は、江戸時代の中頃からお盆の時期に神社の境内で踊られていたもので、国選択無形民俗文化財に指定されています。

夕刻、神社の拝殿には大きな切子灯籠が吊るされ、その明かりの下に踊り子たちが集まり、即興で唄を紡ぎながら踊り続ける・・・白山の自然の恵みと信仰文化に培われた美しい盆踊りの風景です。

 駅の順序で言うと「美濃白鳥駅 - 白鳥高原駅 - 白山長滝駅」と続いて、郡上市白鳥町歩岐島にある長良川鉄道越美南線の終着駅「北濃駅」

駅構内の北側には、2005年3月に国登録有形文化財の指定を受けた「転車台」が残っており、ここに立ち寄ったのはこれが目当て。「転車台」とは機関車の向きを変えるための設備で、これは蒸気機関車が現役だった1960年代終わり頃まで使われていました。

こちらの転車台は明治35年(1902)にアメリカン・ブリッジで製造されたもので、当初岐阜駅に設置され、越美南線が当駅まで延伸開業した昭和9年(1934)に移設されました。直径15.4mの円形をしており、機関車の載った橋桁を2人で押して回転させる手動式。大井川鐵道にある明治30年(1897)製のものに次ぐ日本最古級のものだそうです。

郡上市白鳥町大島にある「日本土鈴館 」。館長の『遠山一男氏』が全国各地から集めた土鈴約1万6000点余りと、郷土玩具や世界のおもちゃ民芸品などが収蔵されています。2010年には、土鈴の数世界一としてギネス認定されたとかで、入り口近くにも大きく「ギネス認定 世界一」の文字があります。

一時期、土鈴を収集したこともあって興味はありましたが、かといって入館料を払ってまで見たいかというとさほどでもなく、結局外観と道路に面したケースの中を見ただけで先に進みました。

訪問日:2012年5月20日&2018年10月13日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする