車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

カミソリ文化伝承館・フェザーミュージアム in 岐阜県関市日ノ出町

2020年02月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

2010年の美濃市訪問の旅、最期の立ち寄り地は、関市日ノ出町にある「カミソリ文化伝承館・フェザーミュージアム」

閉館時間16:00、現在15:時56分・・・これは流石に無理ではないかと思いつつも、閉館の札が出ていなかったので思い切って受付に。優しい声で「大丈夫ですよ。」とおっしゃって頂き、ご厚意に甘えさせていただきました。

私たちを出迎えてくれたのは巨大な電気シェーバーに、二枚刃の頭を持つロボット。これ絶対に子供たちに受けるよね😄

2000年5月に開館し、2002年に増築されたという館内には古今に渡って製造された様々なカミソリ関連の展示があり、髭剃りとは無縁の私と友人J🐣さんも興味津々。

特に昭和37年7月製造の「サービスホルダー自動販売機」。10円と言うのはおそらく替え刃一枚の価格でしょうね。で、当時のモノの価格を調べてみると、牛乳15円、ラーメン50円、喫茶店のコーヒーが60円でした。何と言うか・・喫茶店のコーヒーがラーメンより高かったことにビックリしてます😲

壁に展示されていた歴代のフェザー社員のバッジ。これなんて、マニアが見たら垂涎物なること間違いなし。何でも集める事が好きな私、食い入るように見ていたと後からご亭主殿に笑われました。

過去から現代まで、様々な髭剃り用品が展示されているコーナーも見応え充分。たかが髭剃りなんて口が裂けても言えない展示の多様さに三人とも目を皿にして品定め・・いや買える代物じゃぁ無いですよ!!😅

どれもこれもおそらく初めて目にする物ばかりで、あれこれ指さしては「あれはきっとこう使うんだよ」「あっちのそれは旅行用かな? それとも普段持ち歩く為の携帯用?」「いや、それってどこで使うのよ?」と女性陣は賑やか😄

無精髭なんてとんでもない!何時の時代も紳士たるもの身だしなみは整えておかねばなりません。コンパクトにまとめられた携帯用の髭剃りセット。まばゆい輝きを放つゴールドの髭剃り・・・って、どんな人を想定して作ったんだろう?

おやおや・・何時の時代も男と言うものは 😔 これを握っているところを想像しただけで恋心も冷めてしまいますよ・・ そう言えば前に栓抜きコレクションを見た時も同じようなものが有ったね~😅

説明部分の画像が無くて正確には分かりませんが、多分、その当時に発売されていたシェービングローションと髭剃りの現物ではないかと・・多分!😓

次のコーナーに向かう前に「替え刃で作られた都市風景」を背景に記念撮影。使用された替え刃1万と176枚、製作日数4ヶ月、鋭い刃物が作り出すソフトな風景画。言葉の対比が何とも素敵で、でも刃物だという先入観がある所為か、迂闊に手を触れるのがはばかられます。もちろん安全対策はバッチリなのですが、何しろ臆病なもので😲

いきなりの手術場面・・これは経験した人も、経験者を身内に持つ人間にも精神衛生上よろしくありません😔 と言っても、あくまでも私たち限定と言う意味で。

さらに手術に用いられるメスを見た瞬間、ずっと昔、麻酔の効果が表れる前に開腹された事を思い出し・・。あの時の恐怖と痛みが脳裏に蘇り足が震えました。痛いと叫んだ私を見て、背中に新たに麻酔が打たれ・・目が覚めたらベッドの上だった事まで・・人間の記憶って意外と長く残っているものなんですね。

でも次にこれを見た時の怖さと来たら・・16世紀後半の外科道具だそうですが、背中に流れた冷たい汗の感触を今でも思い出します。そうして改めて技術の進歩に感謝の気持ちを抱いたものです。

医療の次は理美容、そう言えば12世紀頃の西欧には「理髪外科医」という職業があったとか。今でも見かける理髪店の円柱形の看板。クルクルと回るあの三色、白は包帯・青は静脈・赤は動脈を表しています。

理美容の流れとして、日本髪の為の櫛や笄(こうがい)、古い鏡なども展示されています。

さて、刃物と聞いてまず思い浮かぶのはスラリと美しい「日本刀」。室町後期に美濃国武儀郡関郷(岐阜県関市)で活動した刀工『孫六兼元(まごろくかねもと)』。室町時代から江戸時代を経て現代にまで続く刀匠ですが、特に二代目は「孫六兼元」と呼ばれ、彼の鍛えた刀は「関の孫六」として時代小説などにもよく登場します。

さらに刃物と言えばナイフ。右上のシンプルな「折りたたみ式ナイフ」は、俗に「肥後守(ひごのかみ)」と呼ばれており、ご亭主殿が子供の頃はこれで鉛筆を削ったりしたそうです。確か私の兄たちも同じようなものを持っていました。

時代を反映したポスターはもうそれだけでアートの世界。実は私この手の商業ポスターって大好きなんです。中途半端な(ごめんなさい)大家の抽象画アートなんかより百万倍も素晴らしいと・・思っています😄

この赤ちゃん起用のポスターなんて、今なら血相変えた若いママたちの抗議電話が殺到しそう😲 それだけおおらかだったのか、人々が常識をわきまえる事が普通に出来ていたからなのか。

昭和32年(1957)4月、揖斐郡谷汲村で行われた第8回全国植樹祭に御臨席された『昭和天皇・香淳皇后』両陛下が、フェザー社に御臨幸なされた折の座所も拝観できました。気高く和やかに、媚びも奢りも無く国民と共にいらした昭和の両陛下、その尊いお姿が偲ばれます。

滞在時間およそ40分、これでもかなりすっ飛ばしてつもりですが既に閉館時間を30分も過ぎています。余分な時間を取らせてしまった事に心からのお詫びと感謝の言葉を述べ、「巨大な剃刀のモニュメント」に見送られてフェザーミュージアムを後にしました。

訪問日:2010年11月28日

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関鍛冶と刃物の町 in 岐阜県関市

2020年02月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

今回の旅の目的はマンホールカードの収集ですが、もちろん見所一杯の町歩きも楽しみの一つ、あそこも、ここも立ち寄りたい場所が一杯。

前回の訪問では、時間が足りなくてゆっくり見る事ができなかった関市の名所旧跡、できるだけ沢山見たいと言う事で、まずは「関鍛冶伝承館」。ここでは古来より関に伝わる匠の技が、映像・資料・展示などで紹介されています。刀剣展示室には、関を代表する刀工、兼元や兼定の日本刀なども展示されているとかで、興味津々😃

館内見学の前に、まずは敷地内に建立されている碑・像を探索。「日本刀匠総帥:渡邊兼永翁碑」碑は、昭和34年(1959)9月24日の建立。これに関しての詳細は「関鍛冶伝承館」のHPから見ることができます。

植え込みの向こうの碑は昭和八年(1933)に建設された 「日本刀鍛錬塾跡」。文字通り、かってこの場所には刀匠養成の施設がありました。

敷地内にある「刃物塚」では、使えなくなった刃物の供養が毎年11月8日の「刃物の日」に行なわれます。昔は包丁も鋏も大切に研ぎなおしされ、大事に使い続けていました。いつのまにか研ぐよりも安価な商品が出回り、使い捨てが普通になっていますが、砥ぎなおした裁ち鋏の切れ味は、実際に使ったら手放せなくなります。

最後の碑は敷地内の目立たない場所にあったものですが、文字の感じからして「句碑、もしくは歌碑」のようにも見えます。既に文字もつぶれ、判読は出来ませんでしたが、幾つか拾い読めた字面から、隣接する「春日大社」での禊を謳ったものかと推測、でも定かではありません。

歴史のありそうな碑なのに何の説明も無いというのは、なんとも気になります。ここにあるという事は何か関連があるはず・・と言う事でネットの海を探してみましたが、由来を示すものなどは一切見つかりませんでした。

館内の見学は最後にして、周辺の散策を先にということで向かったのは「岐阜県刃物会館」。

古来より著名な刀工を輩出してきた「大和(奈良県)、山城(京都府)、備前(岡山県)、相州(神奈川県)」そして「美濃(岐阜県)」。ここ関は「五箇伝(ごかでん)」と呼ばれる美濃の地域にあり、今も刃物関連の企業が数多く存在しています。刀鍛冶の一場面を捉えた壁のレリーフは、このまま額にして飾りたいくらい素敵です。

丁度観光バスが乗り付けた所為で、館内は一気に人が溢れ、賑やかな品定めがあちこちで始まりました。我がご亭主殿も、お高そうな😅小刀やナイフが並んだショーケースに釘付け、しばらく動きそうにありません。

続いて立ち寄ったのは、世界初の刃物総合博物館「フェザーミュージアム」。「切る」の物語を楽しみながら学べる、日本でも珍しいカミソリ専門の博物館。「フェザー安全剃刀日ノ出工場」内にあり、自社や世界の様々なカミソリが展示されています。もちろん、カミソリ以外の物も含めての展示数は5,000点以上に及び、しかも入館は無料😍

こちらの施設は2010年11月の岐阜の旅で見学させていただきました。シンボルの巨大なカミソリホルダーは、10年前と変わらない姿で健在。変わらない景色というのは、我々のような隙間を楽しむ旅人には、最高のおもてなしに思えます。

敷地内に祀られている屋敷神、この水盤は多分その為の手水だと思うのですが、向かい合った「F」の字で囲まれています。こういう遊び心って、凄く素敵だと思いませんか😄

 2010年に立ち寄った刃物ミュージアム、八年前に遡っての思い出は明日のブログで😄

訪問日:2018年10月12日

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ご当地マンホールとマンホールカード in 岐阜県関市

2020年02月27日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

関市(せきし)は岐阜県の中央部、中濃地方に位置する市です。岐阜市、美濃市、美濃加茂市、本巣市、各務原市、下呂市、郡上市、山県市、加茂郡富加町、坂祝町、七宗町に。また県を跨いで福井県大野市に隣接。古来よりの刀鍛冶の伝統を生かした刃物の生産で知られ、ドイツのゾーリンゲンやイギリスのシェフィールドと並んで「世界三大刃物産地」の一つ(3S都市)と呼ばれています。「貝印」「フェザー」「福田刃物」等の発祥地としても知られ、市内には刃物関連のミュージアム等が観光客にも人気です。市名は、市内にあった「濃州関所」に由来。「市の木:杉」「市の花:菊」「市の鳥:かわせみ」「市の魚:鮎」「市の色:わかくさ色」を制定。

キャッチフレーズは「ときめき きらめき いきいき せきし 水と緑の交流文化都市」

明治22年(1889)、町村制の施行により、武儀郡関町・吉田村・瀬尻村・倉知村・下有知村・富野村・小金田村、山県郡千疋村・植野村、加茂郡富岡村・郡田原村が発足。

1897年、武儀郡田原村・富岡村、加茂郡富田村が発足。

1920年、関町が武儀郡吉田村を編入。

1943年、関町が武儀郡瀬尻村、倉知村を編入。

1948年、関町が田原村稲口を編入。

1949年、関町が大平賀地区を除く加茂郡富岡村を編入

1950年、関町が山県郡千疋村を編入。

1950年、関町が加茂郡田原村を編入、市制を施行し関市となる。

1951年、武儀郡下有知村を編入。

1954年、武儀郡富野村を編入。

1955年、武儀郡小金田村を編入

1956年、武儀郡武芸川町広見村を編入

2005年、武儀郡武芸川町・洞戸村・板取村・武儀町・上之保村を編入合併、今に至ります。

 マンホールには、700有余年の伝統を持つ「関の刀鍛冶」と、「長良川小瀬鵜飼」。「鵜」の前と足元に市の花「菊」がデザインされています。

 関市浄化センターのカラー展示蓋、室内で大切に展示されている為、とても綺麗です。

関の刀鍛冶:鍛錬の様子

同上デザイン「雨水」

昭和38年7月17日制定の市章は「「セキ」を図案化、丸くおさまり、外に向かって発展する意を表しています。」公式HPより

纏の印部分に市章が描かれた消火栓、角タイプと丸タイプ、共に同じデザインです。

仕切弁

バルブ

消火栓

1994年6月6日制定の関市シンボルマークは「全体で刃物をモチーフに、人と人とのふれあい、豊かな自然、交通網の結節点などを表現し、21世紀へと伸びる発展的で斬新なイメージをデザインしています。伝統と斬新さが共存し未来へ向かい発展する姿を、日本刀(関の孫六)の刃紋である三本杉にちなみ、3本の刃物(刃先)の形状で表現しています。」公式HPより

関市イメージキャラクター『関*はもみん』。ウサギをモチーフに、耳は刃物で未来を切り開くイメージから「はさみ」・しっぽは「新芽」で新たな発展を表現。苗字が「関」で、名前が「はもみん」。苗字と名前の間に「*(アスタリスク)」を入れています。他のキャラクターにはない珍しい名前です。

関アウトドアナイフ部会のキャラクター『関の円空さん』。美濃の国に生まれた僧、円空が彫った仏像をモ チーフに「人様に刃物を向けるべからず」と諭しています。

関市内で見つけたマンホールですが、中央の知章が不明。どこかの自治体の越境蓋なのか、それとも関市の企業関連の蓋なのか調べましたが分りませんでした。ご存知の方がいらっしゃいましたら、是非!コメント欄にてご教授下さい。 

コメント欄に「ひも爺様」の詳細な調査結果が報告されています。感謝🙏

撮影日:2010年11月28日&2018年10月12日

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2018年8月11日、第8弾として全国76自治体で76種類(累計364自治体418種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「関市」のマンホールカードは、「関市役所北庁舎2階下水道課(休日:関市役所北庁舎1階:守衛室」でいただけます。

1992年に設置開始されたマンホールには「関の刀鍛冶」と「長良川小瀬鵜飼」「市の花:菊」」がデザインされています。

「関市伝統の「刀鍛冶」と「小瀬の鵜」を中心に描いたマンホール蓋です。 関の鍛冶の歴史は鎌倉時代に端を発し、室町時代の刀匠「孫六兼元(関の孫六)」の登場により「折れず、曲がらず、よく切れる日本刀の生産地としてその名を広めました。 「刃物のまち」関はその伝統技術によって支えられています。 また刀匠と時を同じくして、小瀬鵜飼も活躍しています。 代々守り続けたその技法は岐阜県指定無形民族文化財に登録され、宮内庁式部職鵜匠として御用を続けています。 暗闇の舞台で篝火のみを頼りに手縄を操る鵜匠と鮎を捕らえる鵜達の姿は圧巻でリピーターが数多く訪れます。」

座標軸マンホール

訪問日:2018年10月12日

コメント (8)
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富加・あちこちウォッチ in 岐阜県富加町

2020年02月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

車中泊での旅に目覚めた2010年。その年最後の11月に訪問先に選んだ岐阜県関市とその周辺。夕刻近くにたまたま通りかかって見かけた「松井酒造店」

富加町加治田にある酒造場で、「半布里戸籍」「加治田城」などの酒を生産しています。先を急がなければいけない時間でしたが、素通りするにはあまりにも惜しい景色。写真に残すだけ、数分だけで良いからと車を止めてもらい、薄ぼんやりとした明るさの中でデジカメを向けました。

本当は、お店の横の駐車スペース?の隅に文化財指定の看板があった気が・・・とは言え、無理やり車を停めて貰っているし、この時はj🐣さんも一緒だったしで、深くは追求できません😣 後日、自宅に帰って調べたところ、酒蔵の建築年代は江戸時代中期の寛政年間、「松井屋酒造資料館」として酒蔵用具、古文書とともに一般公開されているとのこと。また2階には、明治から昭和初期の生活道具も展示されているそうで、流石にもっと広範囲に調べておくべきだったと後悔😥

「松井酒造の酒造場3棟、酒造用具3143点及び酒造文書459点が、県重要有形民俗文化財の指定を受けています。」

訪問日:2010年11月27日

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マンホール探しの際にたまたま遭遇した長良川鉄道の一両電車。なぜかこの一両と言うのに不思議と惹き付けられるのですが、地元の方にはきっと日常のありきたりな景色でしょうね。

一両電車に触発されたわけではありませんが、折角なので通り道にある長良川鉄道:「富加駅」に立ち寄ってもらいました。

面白い事に、富加駅のホーム西半分は美濃加茂市加茂野町鷹之巣に位置しており、昭和61年12月に旧国鉄越美南線から長良川鉄道に転換するまでは、「加茂野駅」と言う駅名だったと知りました。

好奇心丸出しでホームから構内を散策していると、電車が近づいてくるアナウンス! こういう機会は、鉄道目的でない私たちには滅多に無いチャンス、ワクワクと電車を待ちます。 

右手から入ってきたのは、長良川鉄道が2007年から2009年にかけて製造した濃い小豆色の「ナガラ500形気動車501」。

おや、今度は反対方向から白地の「ナガラ500形気動車503」も近づいて来ました。車体の横一面に、良く見えないのですが何かの模様がラッピングされています。

二台の車両がすれ違うタイミングを待ち、とりあえず自己満足の画像をGet😄

「 半布里(はにゅうり)戸籍」、正式には「大宝二年:御野国加毛郡半布里戸籍(みのこくかもぐんはにゅうりこせき」と言います。

【今から約1300年前の大宝二年(702年)に作られた戸籍で、奈良正倉院にひっそりと残されていた現存する最古の戸籍です。半布里(はにゅうり)とは現在の富加町にあたるとされており、町内に残る羽生(はにゅう)という地名が、その名残であると考えられています。】富加町公式HP

説明によれば、54戸、1119人もの人々の氏名・続柄・年齢などがほぼ完全な形で残されており、こうした例は非常に稀有であると云われています。富加町郷土資料館では、その『御野國加毛郡半布里戸籍』のレプリカを見ることが出来ます。

 が・・・休館日の月曜の訪問だった為、玄関のガラス越しに館内の覗き見で終わり😔  本当に、毎回同じ失敗をして・・いいかげん学べよ!と、自分自身に悪態ついてます😩

訪問日:2018年10月12日

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ご当地マンホール in 岐阜県富加町

2020年02月25日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

加茂郡富加町(とみかちょう)は岐阜県中南部に位置した町です。関市、美濃加茂市に隣接。濃尾平野の最北端(旧飛騨街道の出入口)にあたり、中濃(旧美濃国の中部)の中央部にあり、町域の半分近くを山林が占め、平地部分が住宅地となっています。富加町夕田地区には、古代より開けていたことを窺わせる数多くの古墳が存在しており、渡来人の存在や、富加町の氏族と朝廷との繋がりを窺う事ができます。戦国時代には美濃佐藤氏・美濃斎藤氏が拠った加治田城の遺構なども残されており、また日本最古の戸籍「半布里戸籍」ゆかりの地としても有名です。「町の木:ドウダンツツジ」を制定。

キャッチフレーズは「日本最古の戸籍ゆかりのまち」

明治22年(1889)、町村制の施行により、加茂郡加治田村・滝田村・羽生村・高畑村・夕田村・大山村・市平賀村・鋳物師屋村・肥田瀬村・大平賀村が発足。

1897年、滝田村、羽生村、高畑村、夕田村、大山村が合併、加茂郡富田村が発足。加茂郡市平賀村、鋳物師屋村、肥田瀬村、大平賀村が合併、加茂郡富岡村が発足。

1913年、加茂郡富岡村川小牧が加治田村に編入される。

1949年、加茂郡富岡村大平賀が富田村に編入される(残りの地区は武儀郡関町に編入)

1954年、富田村と加治田村が合併、加茂郡富加村が発足。

1974年、富加村が町制を施行、加茂郡富加町となり、現在に至っています。

マンホールには、町章を中心に「町の木:ドウダンツツジ」が、陰陽で描かれています。(カラーマンホールは展示蓋のみ)

家庭用プラ汚水枡の大小で、中央に「町の木:ドウダンツツジ」がデザインされています。

昭和49年7月1日制定の町章は「とみかの「と」を飛翔する鳥のイメージを図案化して、町勢の飛躍発展を象徴するとともに、町民の融和と円満平和を下部の円形で表したものです。」公式HPより

上水道関連の蓋はいずれも規格蓋のみ

富加町マスコットキャラクターの『とみぱん』。特産の古代米のおまんじゅうがモチーフ。古代の髪型をしていて体がぷにぷに!背中のマントは半布里戸籍になっているよ!語尾に「みぱ」をつけるのが口癖。(パンダっぽいけどパンダじゃないよ)・・と言う事です😅

撮影日:2010年11月27日&2018年10月12日

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中山道太田宿 in 岐阜県美濃加茂市

2020年02月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

中山道六十九次:五十一番目の宿場「太田宿」。中山道の三大難所の一つに数えられた「太田の渡し」があり、飛騨街道と郡上街道の分岐点でもあった事から大いに栄え、本陣:1軒、脇本陣:1軒、旅籠:20軒を擁し、家数は108軒。今も宿場町の面影を残す町並みには、当時の建物が幾つか現存しています。

「旧太田宿本陣門は、広大な敷地を誇る太田宿の本陣において唯一現存する史跡で、文久元年(1861)10月、皇女和宮の幕府への下向のために建てられたと伝えられます。この門は、一間の薬医門で、両袖に半間の塀がつき、旧本陣の偉容を偲ばせる格式あるつくりです。また、当時の本陣には、幕府大老井伊直弼、水戸の天狗党武田耕雲斎などの有力者も宿泊していたようです。」(中山道会館HPより)

脇本陣:林家住宅は、主屋うだつの鬼瓦の銘から、明和6年(1769)の創建と判明。 林家は江戸中期、脇本陣を勤めるかたわら庄屋として尾張藩太田代官の指揮下で宿の行政事務を取り、また、家業として質屋や味噌・溜の製造販売も営んでいた旧家です。 最盛期には、東西25間の間口、土蔵9棟、馬屋3棟、離れ座敷などを持つ壮大な構えでした。(中山道会館HPより)

大田宿の中では一際目を引く存在で、在りし日の繁栄の様子が伺える佇まい。国重要文化財の建物では、今も普通に暮らしが営まれ、見学は外観のみ。 棟続きの「隠居家」は一列三室型の町屋形式で、最初に建てられた時期は不明。現在の建物は、文政12年(1829)の家相図に基づいて修復されたもので、こちらは内部の見学もできます。

全体を一枚に収めようと思うと、相当後ろに下がらなければ、それでも真正面は無理。

林家住宅向かいの一画を占める「御代桜醸造」、元々太田宿で料理屋を営んでいましたが、明治26年(1893)に酒造業を開始。 御代桜醸造に残る蔵は、明治時代に脇本陣林家のものとして利用されていた蔵を移築、再利用されたといわれています。

「小松屋」の屋号で営まれていた旅籠は、大田宿のお休み処として活用。建物内には、美濃加茂市出身の文学者『坪内逍遥』の資料なども展示されており、畳の室内でゆっくりと寛げる場所となっています。

大田宿の最後は、臨済宗妙心寺派の禅寺「龍興山祐泉寺」。開山の歴史は文明6年(1474)に遡るといわれています。

境内には、大正3年(1914)にこの地を訪れ、旧太田町から旧犬山町までの木曽川がヨーロッパのライン川に似ているとして「日本ライン」と命名した地理学者『志賀重昂』の碑や、槍ケ岳を開山した『播隆上人』の墓碑などが建立されているそうです。

私達が見たのは、境内の立ち入りやすい一画に建立されていた、三つの碑だけ。まずは脇本陣3代目で芭蕉の門弟『林由興(冬甫)』が、師を悼んで建てた芭蕉句碑。

【 春なれや  名もなき山の 朝かすみ 】

太田で生れ育った明治の文豪『坪内逍遙』が述懐の念をこめて詠んだ「椿の歌」二首

【 山椿  咲けるを見ればいにしへを  をさなき時を 神の代をおもふ 】
【 この木の  実ふりにし事ししのばれて  山椿はな いとなつかしも】

『坪内逍遙』歌碑の後ろに見えるのは、『北原白秋』が祐泉寺を訪れ茶席でしたためた歌碑。

【 細葉樫  秋雨ふれりうち見やる  石燈籠の あを苔のいろ】

生憎の雨で、のんびりゆっくりとはいかなかった大田宿の町並み散策はここまで。こうした町歩きは予定時間に縛られず歩かないと、思いがけない発見は見つかりません。

しかも後になって見返せば、見逃してしまった場所の多い事😔、ちょっと悔しいかな。

訪問日:2018年10月11日

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ご当地マンホール in 岐阜県美濃加茂市

2020年02月23日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

美濃加茂市(みのかもし)は岐阜県南部、可茂盆地と通称される濃尾平野の周辺部に位置する市です。関市、可児市、加茂郡七宗町・坂祝町・富加町・川辺町・八百津町、可児郡御嵩町に隣接。市名は美濃国加茂郡に因んで命名。可茂盆地の北西部、太田盆地を市域とし、北部は山地の谷あいに農地があり、中部はなだらかな台地で梨、柿等の樹園地が形成され、南部は肥沃な木曽川河岸段丘群に属し、市街地を取り囲むように水田と畑地が広がっています。市内には中山道51番目の「太田宿」があり、また「日本ライン発祥の地」としても知られています。「市の木:ムク」「市の花:アジサイ」「市の色:ラインブルー」を制定。

キャッチフレーズは「まぁるいまち  みのかも」

明治22年(1889)、町村制の施行により、加茂郡太田町・古井(こび)村・山之上村・蜂屋村・加茂野村・伊深村・下米田村・麻川村・和知村・川浦村・廿屋村・鹿塩村が発足。

1893年、加茂郡麻川村が分離し、上川辺村、下麻生村が発足。

1897年、加茂郡川浦村、廿屋村、鹿塩村、上川辺村の一部が合併、加茂郡三和村が発足。

1924年、古井村が町制を施行、加茂郡古井町となる。

1954年、加茂郡太田町・古井町・山之上村・蜂屋村・加茂野村・伊深村・下米田村・三和村・和知村の一部が合併、市制を施行、美濃加茂市が発足。

 マンホールには、木曽川沿岸峡谷の川下り遊覧「日本ライン下り」が描かれています。(美濃加茂市上下水道課内:展示マンホール)

「市の花:紫陽花」のマンホールは、あじさいエコパーク内に展示されています。

「市の花:紫陽花」が描かれたマンホール、路上設置はモノクロのみです。

「いなべ」「農集排」と書かれたマンホールには、「市の花:紫陽花」と「カエル」が描かれています。(「いなべ」は美濃加茂市加茂野町稲辺地区、カラーマンホールはその地域にのみ設置。)

同じデザインですが「みのかも」「農集排」の文字。

 昭和36年11月10日制定の市章は「かの字の図案に、古来より中部経済圏交通の要衝であり、又日本ライン発祥の地であることにちなみ、中央位斜曲線により、日本ラインの流れを力強く優美に象徴したものである。」公式HPより

上水道関連の蓋は、「仕切弁」「拝泥弁」「消火栓」があり、いずれも市章付き。

「空気弁」中央には、独立行政法人水資源機構の「水」を図案化した知章。

桜の花型の中に「水」の文字が刻まれた古い量水器、知章の詳細は不明。

大田宿で見つけた側溝蓋、中央に美濃加茂市の市章。

撮影日:2010年11月27日&2012年5月14日&2018年10月11日

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岐阜県美濃加茂市のマンホールカード

2020年02月22日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

2018年8月11日、第8弾として全国76自治体76種類(計364自治体418種類)のマンホールカードが配布されました。「美濃加茂市」のマンホールカードは、「みのかも観光案内所」で頂けます。

1998年に設置されたマンホールには「市の花:あじさい」がデザインされています。

蓋にデザインされている「あじさい」は、昭和29年に当時の8ヶ町村が合併し美濃加茂市になった象徴として、昭和49年に市の花に指定されました。 あじさいは、別名「八仙花」とも呼ばれ、小さな花の集まりですが団結すれば大輪となるように8ヶ町村の団結を表しています。 花期は長く、その育てやすさからこの地方に広く植栽されており、見る人にやすらぎを与えてくれます。このマンホール蓋は、 蜂屋川処理区下水道区域内に設置されています。 汚水処理場「あじさいエコパーク」には下水道PR館、多目的広場などがあり、広く市民に親しまれています。」

訪問日:2018年10月12日

 

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村国神社&村国座 in 岐阜県各務原市

2020年02月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

各務原市各務おがせ町に鎮座される「村国神社」。式内社で各務原市内の金弊社五社のうちの一社。各務原市各務地区の産土神とされており、御祭神は『村国男依命(むらくにのおよりのみこと)・ 伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)』

飛鳥時代に『天火明命』と『御子石凝姥命』を祭神として村国氏が創建したと伝えられ、後に『村国志我麻呂』が『村国男依』を合祀。承保3年(900)頃に、「白山権現」を合祀。一の鳥居から二の鳥居、参道の両側に並ぶ石灯籠が、崇敬の篤さを物語っています。

参道の突き当たりに架かる朱の神橋、その先に広がる神域は、思わず深呼吸をしたくなるような清々しい空気。清浄と言う言葉がこんなにしっくりくるのは、神域とを隔てる水の流れの清らかさ故でしょう。

【飛鳥時代、此の地一帯を治めていた村國氏の祖が、『天之火明命』と『御子石凝老命』を御祭神として創建。弘文元年、壬申の乱が興り豪族:村國男依氏は、『大海人皇子』の命を受け大津街道を攻め上がり、大海人皇子の連に大勝をもたらしました。天武4年、天命を全し、此の世を去ると帝より外小柴の位を授り、子息『村國連嶋主』によって、此の社に『村國連男依の命』として祀られ、以来、村國の社と呼び、産土神として代々村國一族が守ってきました。】岐阜県神社庁HPより

拝殿前より神域を守護されるのは、のんびりとした顔立ちが何とも優しいちょび髭の狛犬さん一対。こうして並べると、まるで掛け合い漫才でもしているような雰囲気。

境内に建立されていた句碑【 村国の  男依(おより)をしのぶ 祭り笛 】

神橋を渡りきった先の左手、境内の一画を占める建物は、慶応2年(1866)に美濃国各務村の庄屋が発起人となり、明治10年(1877)に完成した芝居小屋「村国座」

二階建て、白壁の切妻造で、小規模な芝居小屋ですが、回り舞台、仮花道、太夫座、奈落が備えられ、桟敷席は一階と二階にあり、劇場形式の農村舞台となっています。

村国神社奉納歌舞伎は、子供歌舞伎として存続し、毎年十月の第二土・日曜日に行なわれます。そのため、地元の子供たちは八月から稽古に励むんだそうです。

思いがけない場所で遭遇した農村歌舞伎の芝居小屋・・村国座は大規模な改修もなされておらず、江戸時代~明治時代の地方の芝居小屋として貴重である事から、「各務の舞台(かがみのぶたい)」として重要有形民俗文化財に指定されています。

参拝日:2012年5月14日

各務原市は、2016年11月12日掲載の「ご当地マンホール」も含め、神社も幾つか紹介しています。興味のある方は、上記のリンクをクリックしてね😊

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ご当地マンホール in 岐阜県旧柳津町(岐阜市)

2020年02月20日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岐阜県

旧羽島郡柳津町(やないづちょう)は岐阜県の南部、羽島郡の西端に位置した町です。境川が中央部を南に流れて、町の南端から西に流れを変え、羽島市との南の境をなし、北と、西は岐阜市に、東は羽島郡笠松町に隣接。江戸時代には羽栗郡柳津村、厚見郡佐波村、高桑村の3村があり、柳津村は松枝輪中、他の2村は百曲堤輪中(佐波輪中)に属していました。
「町の木:柳」「町の花:むらさきはなな」「町の色:萌黄色(もえぎいろ」を制定。 

旧キャッチフレーズは「Berries Net Yanaizu」

明治22年(1889)、町村制の施行により、羽栗郡柳津村、稲葉郡佐波村が発足。

1897年、郡制の施行により、「羽栗中島郡役所」の管轄区域をもって羽島郡が発足。

1955年、柳津村が稲葉郡佐波村を編入。

1956年、柳津村が町制を施行、羽島郡柳津町となる。

2006年、岐阜市に編入、岐阜市柳津となりました。

マンホールには、町章を中心に「町の花: むらさきはなな」がデザインされています。

昭和52年12月15日に正式に制定された町章は「旧柳津・佐波村の頭文字の構成になるもので、Sによる外輪は両地区の和を意味し、柳の若葉を象形したYと互いにがっしりと抱き合う姿は、合併後の柳津町発展の基盤を両者の和と固い団結に求めたものであります。」旧公式HPより

柳津町マスコットキャラクターは、 星をつけた「むらさきはなな」の帽子をかぶる『やなちゃん』。町の木「やなぎ」のコバルトグリーンで描きました。町の花、いちご生産、天文観察、飛び回る姿が流通などを表現し、前進する姿に町の発展と楽しく明るい未来を象徴しています。

撮影日:2012年5月14日

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