車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

浄戒山定勝寺(じょうしょうじ) in 長野県大桑村

2022年04月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

大桑村須原に門を構える臨済宗妙心寺派寺院「浄戒山:定勝寺(じょうしょうじ)」『釈迦如来』を本尊とします。

「嘉慶年間(1387~1388)に木曽家第11代『源親豊公』が祖先菩提のため木曽川畔に創建。度重なる木曽川の氾濫により倒壊されるが、その都度再建・再興された。現在の建築物は慶長3年(1598)に『石川光吉』が木曾義在居館跡に建立したもので、秋籬離島の「木曽路名所図会」にも堂宇の全景が描写されている。木曽町の興禅寺、長福寺とともに木曽三大寺の一つとされ、昭和27年(1952)には、山門・庫裡・本堂が国の重要文化財に指定された。」Wikipedia他

入母屋造・銅板葺の本堂

切妻造・南面庇付・妻入・銅板葺の庫裡

四脚門・切妻造・檜皮葺の山門

1993年、岡谷市出身の『小口基實』によって作庭された蓬莱庭園。

重要文化財の建物も鶴亀の庭も魅力ですが、今回もっとも楽しみにしていたのが「定勝寺の十六羅漢」

羅漢とは「阿羅漢(あらかん)」の略称で仏教の護持を誓ったとされる十六人の釈迦の高弟。一切の煩悩を断って修行の最高位に達し、人びとの供養を受けるに値する仏弟子や聖者の事を指すとあります。

特に特別な宗派を持たない私には、釈迦の説く教えも仏法も正直なところよく分かりません。でも、羅漢さんの顔の中には必ず会いたい人の顔があるという、羅漢信仰が私を惹きつけます。

20代の頃よりも一人、また一人・・・年を重ねるに連れ、会いたい人の数は増えていきます。

そうして懐かしい顔を見つけ、わけも無く安堵し・・手を合わせるのです🙏

参拝日:2014年6月20日

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木曽路を行く・須原宿 in 長野県大桑村

2022年04月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

野尻宿から1里24町、中山道六十九次三十九番目の宿場「須原宿」。天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」によれば、宿の延長は4町35間(約500m)。宿内家数は104軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠24軒で宿内人口は478人と記されています。

かって木曽谷の中では一番古くに栄えた宿場町でしたが、正徳年間に洪水の被害をうけ、享保2年(1717)に現在地へ移転。中山道の中では最も新しい年代に建設された宿駅となったものの、建物等に往時を偲ばせるものはごく僅か。

宿の入口は鍵型になっており、枡形の坂道に広い道幅、町の中を流れる昔ながらの用水路・・物言わぬそれらの景色が、僅かに往時の面影を語りかけてきます。

清水が湧く宿場町として知られていた「須原宿」。小さな広場には丸太をくりぬいた「水船」が置かれ、清らかな水が昔と変わることなく旅人をもてなしています。

傍らに『酒井朝彦』句碑

【 水舟の水 のきをめぐりて  いのちのち  つねにあたらし 】

6月のこの季節、蒸し暑い日差しの中。おもてなしの柄杓に掬う水の冷たく美味しい事。暑がりのJ🐣さん、水舟の前から離れられません😅

町歩きの折々で見かけた「須原ばねそ 発祥地」の灯篭。「須原ばねそ」は須原宿に古くから伝わる郷土民謡盆踊で、その姿が「はね踊る様」である事に由来します。「民謡須原ばねその里」と刻まれた碑は、臨済宗・定勝寺の境内に建立されていた『山田無文』師の書。

木曽三大寺のひとつ「定勝寺」、続きは明日のブログで🌸

訪問日:2014年6月20日

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木曽路を行く・野尻宿 in 長野県大桑村

2022年04月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

木曽路の宿場巡り、四十二番目「妻籠宿」を出て大桑村に入り、中山道四十番目「野尻宿(のじりじゅく)」。キャッチコピーは「七曲の町並み・野尻宿」

四十一番目の「三留野宿」の看板を見かけなかったなと後になって気が付いたのですが・・・何しろ軟弱者が走る道は常に広くてそれなりに交通量のある国道。旧〇〇道と書かれた道は、よほどでない限り基本的にスルー😅。

木曽路comのサイトによると「野尻宿は江戸から77里47間、次の三留野宿へは2里18町、宿の延長は6町5尺(約670m)。木曽十一宿の中で奈良井宿に次ぐ長さを誇る野尻宿。外敵を防ぐために所々狭く曲がりくねった街並みが特徴で「七曲り」と呼ばれています。」

天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」によれば、野尻宿の宿内家数は108軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠19軒で宿内人口は986人。残念ながら昭和18年の火災のため建物等に往時の面影はあまり残されていません。

野尻駅前にある「庭田屋」は往時の旅籠の様式を残した建物で、昭和53年公開の「男はつらいよ」のワンシーンに登場します。

JR東海中央本線「大桑駅」。夕暮れ時のホームは何故か人のぬくもりが恋しく思えて、隣に立つ人の存在を確かめずにはいられなくなります。そうしていつもの笑顔を確認して、見知らぬ街の見知らぬ駅に別れを告げるのです。

訪問日:2014年6月19日

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ご当地マンホール in 長野県大桑村

2022年04月27日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・長野県

木曽郡大桑村(おおくわむら)は長野県南西部、木曽谷の南部の山間に位置する村です。飯田市、駒ヶ根市、飯島町、上松町、南木曽町、王滝村、また県を跨いで岐阜県中津川市に隣接。村名は、旧4か村の集合によって更に大きく発展してゆくという願いと、村内で盛んに行われていた養蚕の振興による豊かな村づくりに願いを込めて命名されました。木曽川沿いの平坦地には旧中山道須原宿や野尻宿の面影が今も色濃く残り、独特の風情を作り上げています。大桑村大字殿の木曽川本川には大正11年(1922)に運転を開始した「須原発電所」があり、中部山岳地帯の電源開発に関する近代産業遺産群の一つとして2007年に「近代化産業遺産」に認定されました。「村の木:ヒノキ」「村の花:シャクナゲ」を制定。

キャッチフレーズは「ヒノキを奏でる里 大桑村 人が、暮らしが、自然が……健康です サンライズおおくわ」

明治22年(1889)、町村制の施行により長野村・須原村・殿村・野尻村の区域をもって西筑摩郡大桑村が発足。

1968年、西筑摩郡が改称して木曽郡となり、木曽郡大桑村となる。

マンホールには、「村の花・石楠花」が美しく描かれています。

昭和64年6月20日再制定の村章は「昭和42年に制定されていたもので、桑の葉を図案化し、大桑の”大”の文字と組み合わせたものです。」公式HPより

撮影日:2010年10月2日&2014年6月19日

国道19号沿いにある「道の駅・大桑」。2014年の木曽路の旅ではこちらで車中泊をさせて頂きました。地元の特産品を始め、お土産に丁度手ごろなお菓子など、種類が豊富でついつい買いすぎて「これは自分用」と何故か言い訳したり😅

車で旅をする者にとってこうした施設は本当に有難く大切な場所です。改めて、その節は有難うございました。🙏🙏

 

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桃介橋( ももすけばし ) in 南木曾町

2022年04月26日 10時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

さぁ、いよいよ4年越しの願いが叶った「桃介橋 ( ももすけばし )」の初渡り(笑)。吊り橋大好きのJさんと、まだこの段階では一応!余裕の笑顔を見せる私。

生意気にも(笑)、どこかのお手振りトリオを真似て手なんぞ振ってみたり、その割には随分と腰が引けている私(^^;)

Wikipedia曰く「桃介橋は南木曽町読書にある木曽川に架けられた橋。橋の名は橋の建築主である大同電力社長福澤桃介に因む。桃の橋とも称される。1922年(大正11年)に完成した木橋である。」

「構造は4径間の吊橋であり、橋桁を鉛直方向に吊るとともに、水平方向にも地面からワイヤーで支えた吊り状構造になっている。橋桁トラスは木造で橋長は247.762 mと、木造吊橋としては日本でも有数の長さである。3基の橋脚のうち中央の橋脚には河川敷に下りる石階段が設けられ、川に親しめる工夫がなされると同時に橋脚の安定が図られている。」

ざっと基礎知識はこんなものですが、それにしても大正期の橋なのに随分と頑丈なんだなと思ったら「1978年 - 増水による耐風索破断のため、廃橋の町議会決議を受けてる。」と続き、「しかし撤去のための費用がなかった為に廃橋とはならず、1993年に南木曽町のふるさと創生事業「大正ロマンを偲ぶ桃介記念公園整備事業」の一環として復元され、再び渡河の用に供されるようになった。」・・・いやはや・・何が幸いするやら(^^;)

架橋は発電所建設資材の運搬を目的としていたことから、橋の中央にはトロッコのレールが敷かれていたといいます。復元に際しては、文化財としての価値を残すという観点から、その痕跡を残すようにとの配慮がなされました。橋の中央に黒っぽく見える二本の線は、かってトロッコのレールが通されていた事を伝える意匠。そして御亭主殿が向かう先の青い部分にはは・・・

なんと!実はこの部分にだけ、架橋当初の本物のレールが残されているのです。気が付かなければそのままだったかもしれない歴史の一片を見られて、ちょっと感動(*^^*)

そんなこんなで、目一杯楽し気なJさんと、無事に橋を渡り終える事ができてすっかり魂の抜けた私 (´;ω;`)ウッ…こわかったよ~~

でも渡った橋はもう一度渡らないと、元の場所に帰れません。で・・・へっぴり腰の私、何をしているかというと・・

二人に置いて行かれて半泣きになりながら、橋の上から見る木曽川の写真を撮っているところです。でもこれ以上体を乗り出すと危険が危ないので、これが精一杯。

泣くほど怖いのなら渡らなきゃいいのにって・・そうなんですよ、私もそう思うんです。でも折角憧れの桃介橋まで来たのに、遠くから見るだけなんてやっぱりつまらない・・・と、生意気にも思ってしまうのです(笑)

この恐ろしく(笑)も美しい「桃介橋」、意匠的・技術的に優秀と認められ1994年5月に土木学会田中賞作品賞を受賞、また同12月は、読書発電所施設の一部として国重要文化財に指定されました。

こうして遠く離れてゆきながらも、何度も振り返って見てしまう「桃介橋」。念願が叶ったという事もあってか、私にはことさら美しく印象深い光景となりました。

訪問日:2016年6月19日

 

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福澤桃介と読書(よみかき)発電所 in 南木曾町

2022年04月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

この画像は2010年に妻籠を後にして次なる目的地に向かう車の中から見たもの・・・何となく歴史のありそうな橋だと思いつつ通過し・・

交差点の信号待ち、川向うに見えた真っ白な建物は「読書(よみかき)発電所」。これらが国の重要文化財や近代化産業遺産に指定されていると知ったのは、帰宅後から更にずっと後の事です。

2014年の木曽路の旅では「桃介橋」や「読書発電所施設」は勿論、それに付随する施設などをコースに組み込み、まずは妻籠を後に「読書発電所」を目指します。

発電所の敷地に建立された碑は、大同電力:初代社長『福澤桃介』によって読書発電所が建設された経緯を記したもの。ところでこの桃介さんって、あの有名な『福澤諭吉』の婿養子なんですね。

遠目に見えていた三本の巨大な水圧鉄管。改めて間近に見ると、その巨大さに圧倒されます。

「関西電力:読書発電所」は、大正12年(1923)に建設された地上式発電所と、昭和35年(1960)に増設された地下式発電所からなり、合計11万9,000キロワットを発電しています。地上式発電所本館は、現役稼働中の発電所としては唯一の国の重要文化財に指定されており、また1994年には、近代化産業遺産にも指定されています。

半円や四角の明かり採り窓は規則正しく並び、それが遠目からだと更にお洒落に見えるのですが、もちろん近くから見てもステキ。

高圧線の柵の前で「この中に入らないで下さい」と注意喚起してくれるのは『カメ電』くん。関西電力のキャラクター???

そう言えば、中山道の道路で見かけた「ゆったり木曽街道」のキャラクター。駐車中の関西電力の車にも同じスッテカーが貼られていましたが・・もしかして木曽路はカメ押し??

つい脇道にそれてしまいました😅 この巨大な物体は、昭和48年(1973)~1997年の間、読書発電所で使用されていた発電用フランシス水車。これ1台で14000KWの発電ができるそうで、福澤桃介記念館の敷地に展示されています。

水車が展示されていた「福沢桃介記念館」は福澤桃介が発電所建設現場へ赴くための逗留場所として、また日本で最初の女優・川上貞奴と過ごすために大正8年(1919)に建てた本格的な西洋建築の別荘。

生憎と訪問時間が遅くてなってしまい、内部の見学は出来ませんでした。館内には福沢桃介、川上貞奴の写真や遺品、資料の展示などがあったのですが仕方ない・・。

同じ敷地内には、明治33年に「御料局名古屋支庁妻籠出張所庁舎」として妻籠宿本陣跡地に建てられ、昭和8年まで使用されていた建物が「山の歴史館」として移築。木曽谷の山の歴史と林政資料等が展示されていますが、もちろんこちらもタイムアウト。

玄関車寄せのコンポジット式の柱頭、窓上部のペジメントに、上げ下げ窓をはじめ建具なども多くは当時のまま。と言う事で、外観だけでもとりあえずは満足。そして、この建物の玄関横にも、妻籠観光案内書のものと同じ「御下賜金紀念日毎年七月二十五日」と刻まれた碑が建立されています。妻籠宿の項でも書きましたが「島崎公助」の粘り強い交渉により「~前略~ 毎年一万円ずつが皇室から木曽へ下されることになったのです。当時の木曾郡役所は、それを記念して毎年七月二十五日を御下賜金紀念の日と定め、郡下各町村がこのような碑を建てました」と傍らに説明が記されています。

山の歴史観の見学はできませんでしたが、保存展示された「旧桃介橋の橋桁」は屋外だったので見る事ができました。

森林鉄道機関車の上に見える通路は「山の歴史館」と「桃介記念館」を繋ぐ廊下。説明によれば「南木曽町の森林鉄道の歴史は蘭線・予川線・田立線の3主路線(延長33.7km)と、田立線・長者畑線・柿其線・下山沢線の4支線(36.0km)があり総延長は69.7kmであった。昭和2年(1927)から昭和42年(1967)まで、40年間運行された。」

実際にはもっと色んなモノや場所があったかもしれないのに、結局は時間に追われるように次の目的地に・・・で、結局、もう一度行きたい場所のリストが増えていくのです😓

訪問日:2014年6月19日

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木曽路を行く・妻籠宿~其の三 in 長野県南木曽町

2022年04月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

妻籠宿の外れ、木曽路から伊那道が分岐した地点にある尾又(おまた)地区に、前垂れを掛けた地蔵板碑と共に「おしゃこじ様」が祀られています。

「おしゃこじ様」の案内によると「「御左口(ミサグチ)神」を祀る古代からの土俗信仰の神様で「土地精霊神」「土地丈量神様」「酒神」等の諸説がある謎の神様と言われている。」。これも調べていくと非常に面白い話に行き当たるのですが・・要するに謎の神様なんです。

古い街道筋を歩いていると必ず出会える石仏たち。妻籠宿二番目の石仏は明治十四年の奉納。クレオパトラのような長い髪には宝冠らしきものがあり、合わせた手には何かが握られている・・・残念ながら知識がない為見た目以上の事はわかりません。

続いての石仏は、頭上の感じからして馬頭観音ではないかと思われますが、むろん確証はありません。

こちらの石仏はこのような石室の中に納められています。

妻籠宿の石仏で検索すると必ずヒットするのが、国内唯一とされる「寒山拾得(かんざん じっとく)」像。案内によると「この石仏は昭和59年の長野県西部大地震で石段左手の石垣が崩れた際に発見され、不思議な絵が彫られているので同祖神の一種と考え、寺下住民がこの地に祀って来た。その石垣自体、安政元年の大地震の後に積みなおされたもので、それが再び地震で崩れ石仏が出現したわけでまことに不思議な事である・・~後略」

摩耗が進んで、画像では非常に見辛くなっていますが、向かって右の人物は『寒山』で書を手に、左の人物『拾得』は箒を手に、その書を覗き込むように身を寄せています。

彫ったのは文政年間に像の隣の水舟を手掛けた広徳寺の『中外和尚』と推測されています。

寒山拾得像の横、町並みより1段高い台地に境内を構える「光徳禅寺」

明応9年(1500)の開山とされる本堂の屋根には、ユニークな表情の留蓋獅子が空を蹴上げています。

宿場ではすっかりお馴染みの「高札場」。高札とは今で言う「官報掲示板」で幕府が庶民に対し、禁制や法度等を示したものです。

「人馬会所」は、公用の旅客に人馬を提供する為に置かれた役所。妻籠宿では本陣と脇本陣にそれぞれ人馬会所があり、半月交代で務めていました。

宿場の風景にはとても良く似合う水車。古いものではないですが水の綺麗な妻籠には殊の外しっくりと馴染んでいます。

水車小屋を横に見て坂道を登り「口留番所跡」へ。近くにあった「熊谷家住宅」は9世紀初頭に建てられた長屋の一部。昭和48年に解体復元され、南木曾町指定文化財に指定されています。

すぐ側には「鯉岩」があるのですが、何がどうで「鯉」なのか・・・・。絵解きを見れば木々の間の岩部分が鯉の頭。地面についた二つの岩がどうやら鯉のひれ。

傍らの説明によると「木曽路の名所として知られ、中山道三名石(鯉ヶ岩・烏帽子岩:吾妻橋地区・兜岩:神戸地区)の一つとして江戸時代後期の文化2年(1805)に発刊された「木曽路名所絵図」にも載っていたが、明治24年の濃尾大地震で頭の部分が落ち、形が変ってしまった。」

「口留番所跡」と御亭主殿😆

些細な出来事の一つ一つが懐かしくて・・ねぇ、大きな栗が入った「ゑびやの栗ぜんざい」。もう一度、一緒に食べたいね。

きっとこれ以上の時間を過したとしても、もうこれで十分なんて事にはならない。かといって、ではまだ何処を見たいのかと聞かれても、此処とかあそことか言えない。

だから目に付く沢山の素敵を、あれもこれもデジカメに収めて、妻籠をあとにします。

2016年4月25日に木曽路(木曽路はすべて山の中~山を守り山に生きる~)が日本遺産に選定。妻籠宿の町並みもその構成遺産となっています。

訪問日:2010年10月2日&2014年6月19日

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木曽路を行く・妻籠宿~其の二 in 岐阜県南木曽町

2022年04月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

昨日に続いての宿場歩き、最初は妻籠宿では珍しい洋風建築の建物。玄関入口には「観光案内書」「妻籠を愛する会事務所」の看板。玄関前には「御下賜金紀念日毎年七月二十五日」と刻まれた碑が建立されています。

建物は明治29年(1896)年に飯田警察署吾妻分署として建築。その後は吾妻村役場、南木曽町役場吾妻支所として使用された後、観光案内書として活用。木造平屋建て、寄棟、桟瓦葺、平入、外壁は下見板張に薄墨色のペンキ仕上げ。玄関庇が何とも良い雰囲気ですが、気になるのは「御下賜金・・」の碑。

江戸が東京になり、幕府がなくなって大名の参勤交代がなくなり・・・さらに明治以後の目覚しい交通改革によって、妻籠宿は宿場としての機能を失いました。尾張藩の厳しい規制下にあった木曽の山は、明治維新を迎えても生活たつき)とならず、官営をへて皇室の御料林となりました。妻籠宿本陣最後の当主であった島崎広助は新政府とかけあい、御下賜金を受けるという形で解決をみましたが、村民の元に山は返って来ませんでした。人々の暮らしを支えるめぼしい産業も無く、町は衰退の一途を辿る事となります。そのままでいけば、この美しい光景は時代の波の中に飲み込まれ、消えうせていたでしょう。そんな中、この妻籠に暮らす人たちは、いち早く地域を挙げて景観保全活動に取り組みました。この古く寂れてしまった宿場町を再生する事が、過疎に歯止めをかける唯一の手段であるとして「売らない・貸さない・壊さない」を信条に「妻籠を愛する会」を結成。妻籠を愛する心が、この素晴らしい宿場町を存続させたのです。

観光案内所の脇道の上段に建立された「忠魂碑」。この村から出征され、戦没された方々の忠魂を偲び、一時の縁を感謝して拝礼🙏🙏。

観光案内所の斜め向いには、幕府により防塞を目的として造られた「枡形」。敵の侵入を阻むために道を直角に折り曲げた「桝形」。馬籠宿にもありましたが、今も各地の宿場などで目にすることができます。

坂道を登った先に見えるのは、青々と葉を茂らせる樹高8mの「長野県指定天然記念物:妻籠のギンモクセイ」。妻籠宿の神官:矢崎家の庭木として植えられたもので、栽培樹で巨木として知られる銀木犀としては最も東に位置しています。

馬籠宿で見た郵便局は赤い丸ポストでしたが、妻籠郵便局は「書状集箱」

昭和53年に郵政本省の指導で復元された妻籠郵便局内には「妻籠郵便資料館」を併設。昔の「郵便マーク」や、年代を追ってのポストなど珍しい郵便資料が展示され、無料で公開されています。

石置き屋根の建物は、妻籠宿で旅籠を生業とした「下嵯峨屋」。現在の建物は木造平屋建、切妻、平入、板葺石置、桁行3間、梁間5間、江戸時代中期の旅籠建築の遺構として貴重な事から南木曽町指定有形文化財に指定されています。

こちらは同じく南木曽町指定有形文化財の「上嵯峨屋」。説明版によると「この建造物は昭和44年の解体復元によって江戸時代中期(18世紀中期)の建物と推定される。建造当初の形式をよくとどめ庶民の旅籠(本賃宿)としての雰囲気をうかがうことができる。」とあります。

上記の「上嵯峨屋」、建物はこの暖簾の掛ったお店の左にちらっと見えている部分 😅

お店の方では「木曽蘭桧笠(きそあららぎひのきがさ)」の製作実演の最中とあり、その手さばきの華麗さについ見惚れ。

道は更に続き、その土地ならではの品物を並べるお店が続きます。「永楽屋」さんは「ねずこの下駄」が主力のようで、男・女、大・小の下駄が並んでいます。

夫婦共に和服に携わっていた関係で、こうした履物にはついつい目が行き、ついつい手が伸び、その軽さと手触りの良さにについついお財布を取り出し・・・😅

「旅人宿・坂本屋」と染め抜かれた暖簾が掛かるお宅。宿場だった頃は旅籠を営まれていたのか・・・京へ下る人、江戸に向う人、見知らぬ同士が囲炉裏を囲み一期一会の出会いをした・・そんな事を想像するのも、又楽しい。

気が付けばいつの間にか宿場の外れまで来たようで、かすかに水音が聞こえてきます。ここから再び元来た道をたどって、見損ねたあれこれをちゃんと見なくては!

という事で、宿場歩きの紹介は更に明日へと続きます🌸

訪問日:2010年10月2日&2014年6月19日

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木曽路を行く・妻籠宿~其の一 in 長野県南木曽町

2022年04月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

馬籠宿から2里、蘭川(あららぎがわ)東岸に位置する中山道42番目の宿場「妻籠宿(つまごじゅく)」

中山道と飯田街道の追分に位置する交通の要衝であり、木曽路を代表する観光名所として名高い妻籠宿。天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」によれば、宿内家数は31軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒で宿内人口は418人。全国で初めて、古い町並みを保存した宿場町として、角館の武家屋敷通り・産寧坂・祇園新地・萩の武家町・白川郷と共に、国の重要伝統的建造物群保存地区の最初の選定地に選ばれました。

妻籠宿を歩き始めて一番最初に感じたのは、ついさっき歩いたばかりの馬籠宿との違い。想像の中では同じ様に見えていた景色は、実際に目にすると全く違って見えます。

馬籠・妻籠の言葉だけで憧れていた二つの宿場町。馬籠は観光資源として住民が作り上げた町並み。妻籠は残された町並みを住民たちが保護し、ありのままを基本として観光資源とした町並み。違っていて当たり前なのだと改めて感じさせられました。

ただそこに立っているだけで「旅をしている」と感じさせられる風景。普段の日常からすっぱりと切り離されて、見知らぬ街の景色の中に立っている。それはあまりにもありきたりな言い方ですが、心に深く刻みこまれ、そうして何時までも忘れ難い「思い出」を作り上げていきます。

いかめしい木戸は、1995年4月に復元された本陣。ここは『島崎藤村』の母の生家で、養子となった次兄の広助が明治に至るまで本陣・庄屋を兼ね勤めました。

妻籠宿脇本陣は屋号を「奥谷」といい、代々林氏が勤めてきました。木曽五木の禁制が解かれた明治10年(1877)、総檜造りで建てられたものです。現在は「南木曽町博物館」として公開され、2001年には国の重要文化財に指定されています。

そうそう、余談ですが、ここは『島崎藤村』の初恋の相手『ゆふ』さんの嫁ぎ先でもあります。

それにしても・・・馬籠・妻籠と重要なポイントでは必ず『島崎藤村』の名前が出てきます。いかに島崎家とこの妻籠・馬籠が深い関わりを持っていたか、改めて感じさせられました。

本陣・脇本陣の並ぶ一画、「木曽駒」の実演販売をしている「ふれあい館」で作業風景を見学させて頂きました。無遠慮な旅人(私です)の質問にも丁寧に答えて頂き、興味深い時間を過す事が出来ました。

「絵馬の古い形態を今に残す縁起物」、大好きな義姉へのお土産にどうだろう。

宿場歩きで目に付く「お六櫛」は、長野県知事指定の伝統工芸品:梳き櫛の登録商標。この梳き櫛が何故お六櫛と呼ばれるかには諸説があるそうなので、代表的なものを一つ。

「元禄年間の頃、持病の頭痛にひどく苦しんでいたお六は、御嶽山に願をかけます。すると、峰棒(みねばり)という木で櫛を作り、髪を梳くようにとの神のお告げを受けました。有難いお告げに喜び、早速その通りにすると、酷い頭痛はピタリと治まったのです。以来、お六の峰棒櫛の名は広まり、この地域一帯で作り続けられ、土産にも珍重されました」
峰棒は非常に目の詰まった硬い木で、叉の名を斧折樺(おのおれかんば)とも言います。斧さえ折れるような硬い木で梳き櫛を作るって・・・・お六さんって何者??😲

馬籠もそうですが、流石は木曽路きっての名所「妻籠宿」。という事で、宿場歩きの続きは明日へ🌸。

訪問日:2010年10月2日&2014年6月19日

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ご当地マンホールとマンホールカード第11弾 in 長野県南木曽町

2022年04月21日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・長野県

木曽郡南木曽町(なぎそまち)は長野県の南西部、木曽谷の南端に位置する町です。飯田市、大桑村、阿智村に、また県を跨いで岐阜県中津川市に隣接。県下では最も人口が少なく、面積の約94%を森林が占めていますが、国選定重要伝統的建造物群保存地区の「妻籠宿」や、国の近代化遺産に指定された「桃介橋」をはじめとする恵まれた文化遺産を擁し、観光客に人気のスポットとなっています。「町の木:ヒノキ」「町の花:なぎそミツバツツジ」を制

キャッチフレーズは「歴史とひのきの薫る里」

中央自動車道・恵那SAの壁画は、浮世絵師『歌川広重』により描かれた浮世絵木版画「木曽海道六十九次の内:妻籠」

明治22年(1889)、町村制の施行により西筑摩郡読書(よみかき)村・吾妻村・田立(ただち)村が発足。

1961年、読書村、吾妻村、田立村が合併、西筑摩郡南木曽町が発足。

1968年、西筑摩郡が郡名を木曽郡と改称、木曽郡南木曽町となる。

マンホールには町章を中心に「町の花:なぎそミツバツツジ」がデザインされています。

天白公園の橋の高覧デザインは「ミツバツツジ」。天白公園の高台には「ミツバツツジ」の群生があり、4月中旬には一帯がピンクに染まるそうです。

昭和45年(1970)11月8日制定の町章は「南木曽(ナギソ)のナを図案化したもので、簡明にして躍動し、かつ、ふくよかな感じを表しています。空色は清らかな自然環境を、だいだい色は暖かな人間関係を表しています。」公式HPより

ピンクの可愛い猫さんは、なぎそねこ公式キャラクターの『ぽかにゃん』。名前だけ聞くとしょっちゅうポカをやらかす猫と思われそうですが、実は「袖なしのねんねこ半纏:なぎそねこ」の妖精。南木曽町に古くから伝わる防寒着「なぎそねこ」のPRと、南木曽町の紹介に勤しんでいます。

訪問日:2010年10月2日&2014年6月19日

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マンホールカード、頂きました

2019年12月14日、第11弾として全国63自治体で66種類(累計502自治体605種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「南木曽町」のマンホールカードは、「妻籠宿観光案内所」でいただけます。

2000年に設置開始されたマンホールには「町章」と「なぎそミツバツツジ」がデザインされています。

「南木曽町の町花「なぎそミツバツツジ」と町章がデザインされたマンホール蓋です。 なぎそミツバツツジは、当町周辺にしか見られない珍種で、花が咲いた後に3枚の葉が出ることから「ミツバ」ツツジと名付けられています。 春には天白公園の高台に群生する6種のミツバツツジが鮮やかな花を咲かせ一面がピンク色に染まります。 町章は南木曽(ナギソ)の(ナ)を図案化したもので簡明にし躍動し、かつ、ふくよかな感じを表しています。 当町の下水道は、日本初の重要伝統的建造物群保存地区である妻籠宿(つまごじゅく)の下水を集めて処理しており、処理場は妻籠宿の町並みに合わせたデザインとなっています。」

 

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