車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

大晦日ですが神楽三昧「八岐大蛇(やまたのおろち)」

2021年12月31日 10時00分00秒 | 日本の伝統・芸能・技の美

神楽と言えば【八岐大蛇(やまたのおろち)】、これはもうテッパンものの出し物として定着しているようで、団体旅行などでの観劇でも【八岐大蛇】が上演されているようです。「八戸」【八岐大蛇】【大蛇】という演目で上演されます。

2013年5月21日「出雲大社遷宮・本殿遷座祭」、「出雲大社教 神代神楽」による「八戸」。

物語は『須佐之男命』が出雲の国・斐川にさしかかった時、悲嘆にくれる老夫婦と美しい姫に出会う場面から始まります。老夫婦の名は『足名椎・手名椎』、姫の名は『奇稲田姫』

嘆き悲しむ夫婦の為に『須佐之男命』は、姫を妻にもらい受ける約束で、大蛇退治を引き受け、まず大蛇を酔わせるための酒を作ります。

辺り一面にむせかえるような酒の匂いにつられた大蛇。姫を食らう前の食前酒代わりとばかり、酒樽を抱え最後の一滴まで飲み干しました。

あるだけの酒を飲み干し、死んだように眠ってしまった大蛇・・・そこへ静かに近づく『須佐之男命』。素戔嗚の気配に気づき、反撃する大蛇。何故か素手で格闘する『須佐之男命』。心配そうに見守る『奇稲田姫』でしたが、見事大蛇を退治する事が出来ました。

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2013年5月22日「出雲大社遷宮・本殿遷座祭奉納」、「下来原西神楽社中(浜田市)による【大蛇

物語は『須佐之男命』が出雲の国・斐川にさしかかった時、悲嘆にくれる老夫婦と美しい姫に出会う場面から始まります。老夫婦の名は『足名椎(あしなづち)・手名椎(てなづち)』、姫の名は『奇稲田姫(くしいなだひめ)』

嘆き悲しむ夫婦に訳を尋ねると、夫婦には八人の美しい娘がいたが、大蛇が毎年あらわれ、七年で七人の娘が食われてしまった。最後に残された可愛い娘も、まもなく大蛇に捧げなければならないと言うのです。『須佐之男命』は、姫を妻にもらい受ける約束で、大蛇退治を引き受け、夫婦に毒酒を作らせます。

一際大きくなる囃子とともに登場した大蛇。辺り一面にはむせかえるような酒の匂い・・・大蛇は姫を食らう前の食前酒代わりとばかり、互いに奪い合うように、我先にと酒樽を抱えて飲み始めました

あるだけの酒を飲み干し、死んだように眠ってしまった大蛇・・・そこへ静かに近づく『須佐之男命』。素早く一つ目の大蛇の頭を切り落とし、返す刀で二つ目の頭を。

見事、大蛇退治の大役を果たした須佐之男命。切り落とされた首は舞台の端に並べられ、演技終了後に触らせてもらえるとアナウンス。で、こんなチャンスは二度とないとばかり、沢山の子供たちに交じって(^^;)

更に、更に大蛇の首を装着しても良いと言われ、いい年とか考える間もなく、すっぽり(笑)。予想以上に大きくてビックリですが、これを頭にかぶって、あの大蛇の動きが可能なんて・・もしかしたら主役は素戔嗚でも櫛稲田姫でもなく、八岐大蛇かもしれません。

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この日は、一演目はさんで、再び「多根神楽団(大田市)による【八岐大蛇】。神楽と言えば【八岐大蛇】というのはやはりテッパン。そしてここでも主役は間違いなく巨大な八つの頭を持つ大蛇・・舞台の都合上、一体だけ左端でハミゴにされてます(笑)。

この神楽の見せ場は、いかに大蛇たちが勇壮に立ち回るかが重要なポイント。前段階を省いたのか、それとも時間的な関係で、短縮せざるを得なかったのか・・・理由は不明ですが、とりあえず、舞台一杯を使って勢ぞろいした大蛇たちの場面からスタート。様々なポーズを取り、重なり絡み合い、うねりの妙技を見せつけた後、製造過程を省いた酒樽を奪いあって飲み干し・・やがて聞こえてくる高いびき・・

耳を済ませて大蛇の様子を伺う『須佐之男命』、そ~っと近づき、次々に大蛇の首を一つ、また一つと刎ねていきます。

刎ねられた首は囃子方の前にずらりと並べられていますが、まるで空気のように、皆さん、無視されているのが何ともシュール(^^;)

しかし、流石の素戔嗚も、最後の大蛇には何度も苦しめられ、あわやという場面もありましたが、まさに素戔嗚を飲み込もうと大きく開けた口中めがけて剣を突き立て、見事、首を刎ねる事が出来ました。

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同じく本殿遷座祭、日を変えて5月25日に奉納された「千原神楽団(美郷町)による【八岐大蛇】。スタートは生贄に差し出すための姫を真ん中に、泣きながら登場する老夫婦。・・なのですが、今日は客席に応援団が来ているようで、しきりに声がかかり、それに手を振って応えちゃう「手名椎」のばぁちゃん(^^;)

例によって例のごとく、二人に毒酒を造らせ、大蛇が酔いつぶれるのを待つ素戔嗚。今回が四度目の【八岐大蛇】ですが、その迫力のアクションは、神楽団によって独自の個性と工夫が成されており、何度見ても凄い!。

そうして例によって例のごとく、酔いつぶれた大蛇の首を刎ねてゆく素戔嗚さん。

刎ねられた首をせっせと舞台のかぶりつきに並べる「足名椎」。っていうか、子供たち!!何で舞台にかじりつく?!なんでじいちゃん、首を子供たちに渡してる?! 坊ちゃん、勝手に持って行っても良いのか!?・・もう何でも有りなのか???(笑)

その間にもせっせと大蛇と戦う素戔嗚さん

見事大蛇を退治し、勝利の舞を舞う素戔嗚さんと、舞台の下で同じように舞いはじめた坊ちゃん???? ・・しかも結構うまいし・・あんた誰???(笑)・・・数々のお笑い場面に一切動じることなく最後の挨拶を決めた素戔嗚さん・・ある意味、最強かも(^^;)

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2013年7月6~7日、神楽門前町のドームで開催された「安芸高田神楽特別公演」での「羽佐竹神楽団(安芸高田市)「日吉神楽団(安芸高田市)の【八岐大蛇】。
神楽の中では『須佐之男命』は、専用の面をつけるか、もしくはこのように長い髪で顔を覆い隠しています。羽佐竹さん家の素戔嗚さん、キューティクルヘアーが照明にキラキラと輝いて衣装も豪華。でも個人的には画像右の、日吉さん家の素戔嗚さんの衣装が好みです(笑)

縁の紐をつないで登場する『足名椎・手名椎・奇稲田姫』。日吉さん家の素戔嗚さんは、三人の身の上話を聞く間もずっとこのポーズ(^^;)

お決まりのやり取りがあって、ジジ・ババ様たちのコント(笑)が有って、姫を妻にする約束も取り付けました。危険なのでここは一旦隠れてもらう事にします。

そして羽佐竹さん家の大蛇の登場・・なのですが、何と今回の大蛇は、口から火を吹いて舞台の上を暴れまくります!!(゜゜;)ですよ、!!本当に火薬のにおいがして、あたりに煙が立ち込めるなんですよ!!

ひとしきり暴れて拍手喝さいを貰った日吉さん家の大蛇たち。さっそく奪い合うように酒樽に首を突っ込み、一体・・また一体と酔いつぶれて眠り始めます。

酔いつぶれた大蛇の首を次々と刎ね、目を覚ました最後の一体も見事打ち取り、スモークと拍手に包まれて、カッコよくポーズを決める羽佐竹さん家の素戔嗚さん。

このように【大蛇】の体をちょうちん蛇胴とした考案は、石見神楽に一大改革を起こしたと言われています。この狭い舞台の上で一度に最大で八体の大蛇が登場し、見事に毒酒を飲み、酔い潰れ、更に素戔嗚との戦いでは大暴れ。しかも舞手は身体を胴の中に隠した状態で舞わなければならないのです。それは想像をはるかに超えた壮絶さ。それゆえにこそ、大蛇の主役はまさしく【大蛇】なのです。

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2013年12月7日は本郷地区:神楽太刀納め、「神幸神楽団(安芸高田市)による【八岐大蛇】。太刀納めとは、神楽団が秋の祭りを終えて今年最後の舞い納めとして、太刀=刀を納める事。子供神楽(内容も衣装も本物・本格的)等もありかなり盛りだくさんの太刀納め神楽。ラストを飾るのはやはり【八岐大蛇】で、もうすっかりお馴染みになった三人の登場から始まります。

不審な三人の様子を見て、何事かと問う素戔嗚。

この演目で大蛇に負けずに人気なのが『足名椎・手名椎』のやり取り。それぞれの神楽団によって内容は異なりますが、はっきり言って吉本喜劇なんて目じゃありません(笑)。泣きあり下ネタありの爆笑もの。二人が出場する場面では、『須佐之男命』の存在感はゼロに等しく、完全に主役を食っています。

さぁ、いよいよ毒酒づくりですが、その前に「ばぁさんや~💛」「じいさん、かも~~~ん💛」・・って Σ(oдΟ;).  公衆の面前ですよ!お子様も見てますよ~~~!!

気を取り直して真面目に毒酒づくり。おお、良い匂いじゃ、どれちょっと味見・・・・をっをっをっっっ~~~~っ!!!。こればあさん、何も頭から飲まんでも!!樽に頭を突っ込んでじたばたする『手名椎』ですが、この後、見事なウルトラC技で復活(^^;) 姫の持つ幣(ぬさ)がプルプル震えていたのは絶対に寒さのせいじゃない!

初冬の山間部、忍び寄る夜の寒さも吹き飛ばすほど、会場は笑いと熱気で包まれ、掛け声と一緒におひねりも飛び (⌒∇⌒)。これが今年の神楽収めと言う事で、大蛇も気合たっぷり、奔放自在に体をくねらせて見せ場を作ってくれます。

軽快な太鼓の音、思わず体が浮くような打ち鉦のリズムが、大蛇の息吹と共に舞台にあふれ、いつしか舞台と客席は一つになり、やがて・・・・・最後の一頭(どうやらこいつが八岐の中でのラスボスみたい)との一騎打ち。

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翌12月8日、千代田開発センターで開催された「月一の舞」は、「山王神楽団(北広島町)による【八岐大蛇】。が・・実はこの時昼食の調達に出ていて、肝心のジジ・ババ様達の楽しい掛け合いを見逃してしまいました(T^T)。 お昼の合間休憩が無いなんて知らなかったんだよ~~~~!! (ご亭主殿も写真ぐらい撮っておいてくれよぉ~~~~)と言う事で、勇ましい大蛇たちの妙技から。

何と今回は、『須佐之男命』が大蛇に倒されてしまうと言う大ハプニングが!!!

近くで見守っている『奇稲田姫』は、駆け寄る事も出来ず見守るだけ。

予想外の展開に、思わず素戔嗚の近くにかけよる心配そうなラスボスの大蛇さん。しっぽの先で何度かツンツンされて復活!

でもって、恩を仇で返す(笑)素戔嗚さん。最後の大蛇の首を刎ね、その尾から出てきた美しい剣を手にし『奇稲田姫』とハッピーエンドです。

「天の村雲」と名付けられた剣は、後に「草薙の剣」として『天照皇大神』に献上され、今も三種の神器の一つとして「熱田神宮」に祀られていると言う事です。

こうして『須佐之男命』は【大蛇】から助けた『奇稲田姫』と結婚し、出雲の祖神となりました。

【 八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を 】

この歌は二人が結婚した時に『須佐之男命』が読んだとされ、日本初の和歌と伝えられています。歌碑は二人を主祭神とする「八重垣神社」の境内に建立されています。

2021年も残すところ12時間。勇ましいオロチ退治で今年のブログはひとまず終了です。どうぞ新しく迎える来年が誰にも素晴らしいものでありますように・・つたないブログを応援して下さった大切な読者様。今年一年、有難うございました。どうぞ良いお年を m(_ _ )m

2021年 大晦日

 

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年末ですが神楽三昧「法印神楽」

2021年12月30日 10時00分00秒 | 日本の伝統・芸能・技の美

2013年5月10日 、この日、昭和28年以来60年ぶりとなる「出雲大社遷宮・本殿遷座祭」が執り行われました。これを記念し「東神苑特設ステージ」において、全国各地の様々な団体による伝統芸能が奉納されました。

2013年5月25日、「釜谷、長面、尾の崎法印神楽保存会」「北上町女川法印神楽保存会」による【笹結舞い】

神代の昔、『伊弉諾・伊弉冊』の二神が国生みをされた所、『五鬼王』という悪鬼が現われて悪行を重ねますが、『素戔嗚尊』によって退治されるという物語。注連縄で張られた竹笹の結果の中、姫面の舞手が鈴御神楽を一舞いします。

入れ替わりに登場する『素戔嗚尊』。責め舞を披露した後、高らかに「神諷(しんふう)」を唱えます。

【夫(ソ)れ 天神七代 伊弉諾 伊弉冊の尊、しかるに国土を生まんがため 天の浮橋の上に立て、この海原を探らせ給う時、矛の先より生まれたる島をオノコロ島というなり。】

『素戔嗚尊』が幕に入ると黒面の『五鬼王』が現れ、その後を追って『素戔嗚尊』も登場。互いに手にした幣を激しく打ち合わせながらの戦いは、観客席へと移り、辺りには白い幣が舞い飛びます。

打ち合いのたびに聞こえる「パシッ!!パシッ!!」と響く高い音・・万が一にでも当たったら・・・と想像するだけで体がすくみます。ややあって戦いの場は舞台の上に。

激しい戦いの末、五鬼王を打ち倒した素戔嗚尊ですが、ここで疑問に思ったのは、最初に登場した可憐な乙女風の女性・・もしかしてあの姿は、五鬼王が化けていた設定!? そのあたりの意味が分かったら更に面白さも増すかも。

続く【鬼門の舞い】は、俗に綱切り舞といわれるもので、鬼門の方角にある禍を『素戔嗚尊』が打ち払う舞。

のどかに流れる神楽歌に合わせてゆったりと舞う素戔嗚尊。やがて少しずつ力強さを増していくお囃子に合わせて、神楽舞もスピードを増してゆきます。昔は、過酷な修行を終えた法印のみが、この【鬼門の舞い】を舞う事ができたそうです。

舞台袖より綱を持った人が現われ、ちょうど素戔嗚尊の胸のあたりの高さに張り渡して退場。何度も何度も綱の状態を確かめる素戔嗚尊。

同じ様な所作が何度も繰り返され、こうした厳粛な演舞に不慣れな私が、舞台を見続ける事に疲れを感じた瞬間・・裂ぱくの気合と共に振り下ろされる刀身、同時に左右に切り分かれた綱・・!!えっ??ええっ!!??何があった?!

続いての舞は【日本武尊】。悪鬼に盗まれた宝剣を日本武尊が取り戻して、熱田神宮に奉納するという筋立て。宝冠をいただいた美しい女性は『岩長姫』。扇と幣を手に、ゆるやかに軽妙に舞い続けていますが、視線は三宝の上の宝剣「天の叢雲」を見続けています。

何度も何度も進んでは退き、また吸い寄せられるように宝剣に近づく『岩長姫』。何故それほどまでに宝剣を欲するのか・・まるで恋い慕った恋人の形見でもあるかのように・・・

長い逡巡・・・ふっと息を吐いたその瞬間、宝剣は女の懐深くに・・・・。すかさず駆けつける日本武尊。

宝冠の『岩長姫』は、実は『日本武尊』に恨みを抱く恐ろしい悪鬼だったのです。三種の神器の一つ「天の叢雲」を盗み、その罪を日本武尊に着せようとしたのです。それと察した日本武尊に追い詰められ、遂に正体を現した悪鬼、ここからは壮絶で華麗な二人の戦いが開始されます。

激しい戦い、鳴り響く太鼓の音が二人の緊張感と躍動感を掻き立て、観客たちの鼓膜を突き抜け、舞人と共に舞台の中に引き込まれていくのです。

渾身の呼吸と共に振り下ろされた日本武尊の剣は、見事、悪鬼をとらえます。こうして宝剣は熱田の宮に鎮まる神の元に無事に奉納されました。

最期は面を外して素顔になった舞人の【太刀みかぐら】。出雲の国に住み給う神の庭にて繰り広げられる、はるか昔の神々の物語。素晴らしい時間でした。

大太鼓を担当されたこちらの楽人は、2011年3月11日に発生した「東日本大震災」で大切な家族を失われたと聞きました。どのような思いでこの舞台に立たれたのか・・私たちには計り知れるものではありません。

宮城県石巻市、先の大震災で想像を絶する甚大な被害を受けられた地域の方々。こうして神楽の奉納が出来るまでには、私などが想像も及ばないあれこれがあったと思われます。それでも60年に一度のご縁の年、ご縁の地で出会えた事は、きっと私たちにとっても何か意味のある事なのだと思います。

2021年12月30日

 

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年末ですが神楽三昧「神楽四方山話」

2021年12月29日 10時00分00秒 | 日本の伝統・芸能・技の美

2021年も残すところあと三日。従来であれば迎春準備や帰省準備などで慌ただしい日々の筈ですが、今年は昨年にも増してコロナの猛威に翻弄された一年だったような気がします。

何処にも出かけられない、会いたい人たちに逢えない日々。私の毎日は、御亭主殿のリハビリに付き添い、必要な買い物に行く以外は自宅で小さな庭の花の世話をするだけ。そんな日々の中で、毎日、毎日、過去の思い出をブログに綴り続ける事は、私自身の大きな慰めとなっていました。

さて、年も押し迫った今日からは、大好きな神楽についてネタが尽きるまで書いてみようと思います。 題して「年末ですが神楽三昧」(笑)

まず、神楽とは何なのか?ですが、端的に言えば「神前に奏される歌舞」。 神座を設けて神々を勧請し、招魂・鎮魂の神事を行ったのが神楽の原点とされ、古くは神遊(かみあそび)とも称されました。神楽の起源として有名なのは、『天照大神』が天岩戸に隠れたときのエピソード。『天鈿女命(あめのうずめのみこと)』が岩戸の前で舞い踊り、『天照大神』を再び世に引き戻したのがはじめと伝えています。(神楽門前湯治村・川口健治絵画館所蔵作品より)

さて、難しい話はさておいて、唐突ですが、私たちは「神楽」が好き。わけても「どんちっち神楽」と呼ばれる「広島・石見神楽」が大好きです(*^^*)
【七五三(しめなわ)の中 まだ入りまさぬ神あれば 黄金の七五三を越えてましませ】
烏帽子・狩衣姿の四人が、東西南北・四方を清めて神を迎える「神迎」の儀式で始まる神楽。

初体験は2013年4月21日。山口県から広島への車泊の流れで安芸高田市美土里町にある「神楽門前湯治村」に行き、いわゆるどんちっち神楽の洗礼を受け、一瞬で神楽ファンになった事から始まります(⌒∇⌒) この時は「神迎」の儀式は無く、いきなりの「どんちっち神楽」からスタート。あまりの楽しさに・・ヤバイかもと思ったんですよね。

その流れで5月21日からの出雲大社の遷宮祭(奉納神楽だけ)を見る為、一週間の車泊を予定し、21日・22日・25日の三日間、日本各地に伝えられてきた「神楽」の舞台を鑑賞。もうこの辺りで胸のあたりまでどっぷりと神楽に嵌り(^^;)

ついでにあいた一日を、又しても「神楽門前湯治村」で過ごし(ここでお気に入りの神楽団に出会う)・・同じ年の7月6~7日、二日間の予定で「広島安芸高田神楽・特別公園」が開催されると聞き、片道400k前後の高速をすっ飛ばし、席取りのため車泊で三度目の神楽門前湯治村へ。ここで二日間に22団体の神楽を見る機会に恵まれ、もはや中毒にも近い状態で(笑)神楽の楽しさ、素晴らしさに首までどっぷりと嵌り・・・

同じ年の12月、神楽門前湯治村の「神楽太刀納め」を観覧し、翌日は北広島町にある「千代田開発センター」で開催された「月一の舞」へ。この神楽で特にご贔屓となる神楽団に出会い、もはや二人の神楽熱は身動き不可能な状態(^^;)

さて、神楽の魅力を語りだすと際限なくなるのですが、その一つに舞手が身につける衣装があります。華やかな鬼の衣装と姫の舞衣を身にまとっているのは、ご亭主殿と私。「広島安芸高田神楽・特別公園」での催しとして、本物の神楽の舞衣に袖を通す機会に恵まれた時の物です。

重いものなら30kg前後にもなると言われる、総刺繍縫い取りの豪華絢爛な衣装。すべてが手作業で作られ、一枚のお値段は数百万円という貴重な衣装を身にまとった二人。こうして腕を上げていると肩に食い込むような重さにまず驚くのですが、これを鎧や袴を身に着けた上にまとい、あれだけの動きをされる神楽団の方々。唯々、感嘆のため息。

この画像は車泊仲間のJさんと私、お子様サイズの私が鬼面を着けると、ほぼ足元まで隠れてしまい、まるでアニメの二頭身キャラ(^^;) それでも精一杯両手を広げてポーズをとってみました(笑)

下は「神楽門前湯治村」に展示されている、一昔前の神楽の衣装ですが、こうして見ると随分地味に見えてしまうから不思議。ともあれ昔も今も全て手作りの貴重な衣装、長い伝統の中で大切に受け継がれきた衣装を見ると、また一段と神楽が好きになります。

神楽に使われる衣裳や蛇胴・蛇頭、その他神楽道具一式を製造・販売されている「神楽ショップくわの木」さん。ちらりと見せて頂いた製造現場は、息をするのもはばかられる雰囲気・・・

神楽に欠かせないのが、神や鬼、姫など、その役になりきる為の、数々の神楽面。これらは先の衣装と同じく「神楽門前湯治村」に展示されていたものですが、鬼面一つとっても凄い種類。たとえば、大悪鬼や大江山の鬼など、演目ごとに異なった表情があり、じっと見ていると見知らぬ世界に引き込まれそうな錯覚を覚えますが、これを見るのは人目の多い明るい場所限定で(笑)。

同じ場所に展示されていた「錦城神楽団」寄贈の『児屋根命』。明治20年頃のものと説明にありました。

こちらは出雲大社のお膝元にある「道の駅:大社ご縁広場」併設の「吉兆館」に展示されていた面ですが・・はてどなたでしょう(^^;)

前述の「神楽ショップくわの木」さん。いずれも見知った懐かしい神楽面が展示されており、奇妙な親近感に胸がワクワク(⌒∇⌒)。

こちらは言わずと知れた『八岐大蛇』。たとえ首だけになって展示室に保存されようとも、凄みのある目を光らせ、興味深げに見入る客を見返しています。

もう一体は舞台の役目をすっかり終えて長い時間をここで過ごしてきた「大蛇」。すべてのしがらみから解き放たれたような表情がひどく印象的です。

北広島地域で配布されるちょっとした広報誌、よく見るとその中にもさり気なく神楽のキャラ。『北広島きたひろネット・きたゾ~』。もちろん速攻でデジカメ!

高速道路のPA、観光バスの車体に「広島神楽」のプリントを見つけので、駆け寄ってデジカメ!

飲酒運転撲滅運動のハンドルキーパー(お酒を飲まない人)。こんなに素敵なハンドルキーパーさんが送迎してくれるのなら、下戸だけどお酒なるもの、飲んでみようかな(笑)

飲んだら乗るな、乗るなら飲むなですが、もう一つ、スピードの出し過ぎにも注意!! ほら、怖い鬼が「スピード落せ!!」と叫んでいますよ。

千代田町を流れる江の川。阿戸橋の親柱に、鬼面を見っけ!!! 後戻りしてデジカメ! でもこれを夜に見たら絶対に泣く自信がある(^^;)

北広島町を流れる志路原川。蔵迫橋の親柱で睨みをきかせて居るのは、鍾馗に登場する「厄病」と「鍾道」。とりあえずデジカメ!!デジカメ(笑)

神楽門前湯治村、無い筈がない(笑)「鬼と神楽人」の顔出しがあったので、速攻でデジカメ!

ことほど左様に「神楽」と言うと、思わず耳がネコ(?)になってしまう二人。明日からは私たちのハートを鷲掴みして離さない「神楽」の演目を・・と思ったのですが、無形民俗文化財登録「雄勝法印 (おがつほういん)神楽」を紹介しようとおもいます。

2021年 年末

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ご当地マンホール in 旧勝北町(津山市)

2021年12月28日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

旧勝田郡勝北町(しょうぼくちょう)は岡山県の北東部に位置した町です。津山市、苫田郡加茂町、勝田郡勝央町、奈義町に。さらに県を跨いで鳥取県八頭郡智頭町に隣接。町名は勝北郡(=勝田郡の北部)で、構成する旧3村がすべて古くよりこの郡に属していたことに由来。町の南部は津山盆地の北東部にあたり、平坦で水田が広がり溜池も多く、北部は中国山地の一部で750m~1100m級の山岳地帯で氷ノ山後山那岐山国定公園に属します。また、東部には日本原演習場が南北に広がっています。「町の木:ケヤキ」「町の花:サツキ」「町の鳥:ウグイス」を制定。北部の中国山地と南西部の丘陵地との間に南北に開けている。

旧キャッチフレーズは太陽燦燦! つながる心 広がる未来」

明治22年(1889)、町村制の施行により、勝北郡新野村・広戸村・勝加茂村が発足。

1900年、郡制の施行により勝北郡と勝南郡が合併、勝田郡となる。

1955年、新野村、広戸村、勝加茂村が合併、町制を施行、勝田郡勝北町が発足。

2005年、苫田郡阿波村、加茂町、久米郡久米町とともに津山市に編入されました。

マンホールのデザインは「血液サラサラ運動」のシンボルマーク。血液の一滴とその中に人を配し、周囲に手を繋ぐ人々で、互いに助け合う様子がデザインされています。

昭和33年(1958)11月制定の町章は「SHOBOKUの頭文字Sを外円にして飛躍的な北を配したもので、円満、調和、飛躍、発展を象徴し、静と動を兼ね備え町をイメージして制定しました。」旧公式HPより

「勝北 黒媛の里」のいわれ。「水原古墳(伝黒媛塚)昭和12年に発掘した横穴式石室の古墳、陶棺(長さ222㎝高さ84㎝)勾玉、管玉、ガラス玉、銀環銅環、刀子などの出土品は東京国立博物館に保管。古事記下巻にある吉備の山県における仁徳天皇と黒媛の美しいロマンは、山形の地名が遺るこの地の物語と古くから語り伝えられており、この古墳を黒媛塚という。」勝北町教育委員会

撮影日:2010年3月1日&2015年4月24日

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ご当地マンホール in 岡山県旧阿波村(津山市)

2021年12月27日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

旧苫田郡阿波村(あばそん)は岡山県の北部に位置した村です。苫田郡加茂町に、また県を跨いで鳥取県鳥取市、八頭郡智頭町に隣接。。村域は1,000メートル級の山に囲まれ、地内の94%が山林で占められており、農業・林業が主産業。集落の一部には茅葺屋根の民家や水車・棚田などが残る地域も存在し、地内には推定樹齢500年を越える尾所の山桜など、美しい自然が多く残されています。「村の木:杉」「村の花:コブシ」「村の鳥:ウグイス」を制定。

明治5年(1872)、 西下組・東下組・大畑組・尾所組・大杉組が合併し旧・阿波村となる。

明治22年(1889)、町村制の施行により、苫田郡阿波村が発足。

2005年、苫田郡加茂町、久米郡久米町、勝田郡勝北町と共に、津山市に編入されました。

旧キャッチフレーズは「自然との語らい 阿波」

マンホールには、「村の木:スギ」と「村の花:コブシ」、それに「村の鳥:ウグイス」が描かれています。

一之渡橋近く「村の花:コブシ」

昭和47年11月15日制定の村章は、「阿波村の頭文字をカタカナにした「ア」を、円形にして図案化したものです。」

一之渡公園内「芝桜の村章」

県道118号線「加茂川・一之渡橋」親柱、「八幡神社の花祭り」

「加茂川・一之渡橋」親柱、「茅葺民家と水車」

撮影日:2015年4月24日

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ご当地マンホール in 岡山県旧久米町(津山市)

2021年12月26日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

旧久米郡久米町(くめちょう)は岡山県中北部に位置した町です。津山市、久米郡中央町・旭町、苫田郡鏡野町、真庭郡落合町・久世町に隣接。山陽-山陰を結ぶ美作地方の中心部として古くから開け、条里制遺構も残されています。久米川の低地を姫新線が通じる交通要地で、中心は千代地区。町の東端部は津山盆地の西端に位置し比較的平坦ですが、東端部の大半は吉備高原に属し、山林と丘陵で占められています。道の駅:久米の里には全国規模で有名になった「コックピットに人間が乗り込んで歩かせる事のできる”モビルスーツΖガンダム”の模型」が展示されています。「町の木:梅」「町の花:菊」を制定。

道の駅に隣接する「パークロード白鳳の広場」に建つ、久米廃寺跡記念モニュメントの五重塔。

久米廃寺は今から約1,300年前(白鳳時代)に創建された寺院ですが、火災にあい、平安時代の前半には廃寺となったと言われています。

明治22年(1889)、町村制の施行により、久米北条郡倭文中村・倭文東村・大井東村・大倭村・久米村・大井西村が発足。

1900年、郡制の施行により久米北条郡と久米南条郡が合併、久米郡となる。

1940年、倭文中村と倭文東村が合併、久米郡倭文村が発足。

1943年、大井東村と大倭村が合併、久米郡大東村が発足。

1952年、大井西村と大東村が合併し、久米郡大井町が発足。

1955年、久米村、倭文村、大井町が合併、久米郡久米町となる。

2005年、苫田郡加茂町・阿波村、勝田郡勝北町とともに津山市に編入される。

マンホールには町章を中心に、碁盤と鎖状の十文字を組み合わせ、鎖の中に「町の木:梅」を描いています。

昭和31年8月11日制定の町章は「「久」を円形にして「町民の和」と「米」を「芽」になぞらえ「Λ」とし、「生々発展」を象徴しています。」合併協議会資料より

集落遺跡を擁する久米町の消火栓は、古代茅葺住居と、ホースを手にした消防士がデザインされています。

国道429号線の休乢トンネルに描かれているのは、国指定史跡「三成古墳」の住居・発掘された出土品と思われます。

撮影日:2010年3月1日&2015年4月24日

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道の駅:久米構内の西側に展示されている、身長7メートルの「モビルスーツΖガンダム」。機体は久米町在住の中元正一氏が自ら設計書を描き、たった一人で、7年の歳月をかけて製作。2000年に久米町に寄贈され、町によって格納庫が建設されました。

津山市宮尾の国道181号線沿いにある「道の駅:久米の里」。2015年4月の島根・広島車中泊の旅の帰路では、こちらで車中泊をさせて頂きました。早めに到着できたお陰で「活菜館」でお土産用に大量にお野菜を購入。 自分用に購入した地元のイチゴが、大粒で甘くてとっても!!美味でした。

車で旅をする者にとって、こうした施設は本当に有難く大切な場所です。

改めてその節は「ありがとうございました!!」 🙏🙏

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ご当地マンホール in 岡山県旧加茂町(津山市)

2021年12月25日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

旧苫田郡加茂町(かもちょう)は岡山県の北部に位置した町です。津山市、苫田郡鏡野町・上齋原村・阿波村、勝田郡勝北町に。また県を跨いで鳥取県鳥取市、八頭郡智頭町に隣接。町の中心である加茂川沿いの小中原と、因美線に沿う桑原地区に僅かに平地が開けるが、大半は山林。かつて砂鉄を多産した時期も有りましたが、今は木材と牛の生産が行なわれています。加茂川沿いに見える一画は「人咲く、水と森の郷: 川の学校公園」。春には美しい桜が見られるお花見スポットだそうです。「町の木:ヒノキ」「町の花:サツキ」「町の鳥:ウグイス」を制定。

旧キャッチフレーズは「みまさか桧の里:子孫にのこす木の文化:加茂町」

明治22年(1889)、町村制の施行により、苫田郡加茂村・上加茂村・東加茂村・西加茂村が発足。

1924年、加茂村が町制を施行、苫田郡加茂町となる。

1942年、加茂町、西加茂村、東加茂村が合併。改めて苫田郡加茂町が発足。

1951年、加茂町から新加茂町が分立。

1954年、加茂町、新加茂町、上加茂村が合併、新たに苫田郡加茂町が発足。

2005年、苫田郡阿波村、久米郡久米町、勝田郡勝北町とともに津山市に編入されました。

マンホールには「加茂川の清流と鮎」「町の花:サツキ」「町の鳥:ウグイス」が描かれています。

「加茂川:太郎橋」の親柱は、「加茂川の清流と鮎」「町の花:サツキと町の鳥:ウグイス」

中央にあるマークが不明の小型プラ汚水枡。撮影場所は加茂町桑原地区で、他のデザインマンホールと同じ場所に設置。町のシンボルでもないし・・・どこかで見たような気もするし・・何だろう??。

昭和32年12月9日制定の町章は「加茂町の頭文字をひらがなにした「か」を図案化したものです。」

撮影日:2015年4月24日

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津山駅・美作千代駅 in 岡山県津山市

2021年12月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

因美線駅舎を幾つか紹介したついでに、津山市大谷にある「津山駅」。「新見駅」「三次駅」と並び中国山地の交通の要所で、姫新線と津山線の乗り入れ駅ですが、因美線の全列車もこの駅を始終着としています。

大正12年(1923)8月21日  国鉄:作備線として津山駅 - 美作追分駅間、津山駅 - 津山口駅間が開業した際、久米郡福岡村大谷(現:津山市大谷)に設置。島式ホーム2面4線を持つ地上駅。

津山城址をイメージした駅舎だそうですが、思ったよりもこじんまりとして、はあて・・どの辺りが城址なんだろうと思案。

駅前には津山藩医で洋学者でもあった『箕作阮甫(みつくり げんぽ)』の像。

1853年のペリー来航時にアメリカ大統領の親書の翻訳を命ぜられたほか、同じ時期にロシアのプチャーチンがやって来た時は、交渉団の一員として長崎に派遣されるなど、日本の開国に際して大いに才能を発揮した「箕作阮甫」。開国後の1856年、蕃書調所(後に東京大学)を設立。阮甫は、その首席教授に任命されました。

今回の津山駅最大のお目当ては、津山駅の西側にかつて使われていた扇形車庫と転車台が残されており、それの見学。国産最大最強のエンジンを積んだディーゼル機関車『DE501』も一緒に見られるとあって結構楽しみにしていたのです。

が、残念ながら車両増設工事等のため一般の見学は出来ないようで、遠目から見るのみ。実はこの年の3月に大分県玖珠町に残された「豊後森機関庫」を見て来たばかりで、尚更見学を切望していたのですが仕方ありません。(機関庫は2016年4月2日、「津山まなびの鉄道館」として開館しました。)

ガラスケース越しなので今ひとつ不鮮明ですが、駅車内にあった「扇形車庫」の模型。こうして見るとかなりの規模だったと想像できます。

津山市の駅舎巡り、ラストは、津山市領家(旧久米村領家)にある「美作千代(みまさかせんだい)駅」。大正12年(1923)8月21日 、 旧作備線津山駅~美作追分駅間の開業と同時に設置。津山駅から二つ目の駅舎で、ここから11駅を経て新見駅で終点となります。

木造瓦葺の駅舎の入り口に置かれた丸ポスト。時代を重ねてきた駅舎にとてもよく似合っており、旅人の足を停めさせる効果を十分発揮しています。

ここは無人駅らしく、誰もいない待合室はひっそりと静か。時折聞こえてくる鳥の声が、はるかな昔に見た筈の情景を思い出させてくれます。

かっては新見方面に向かって相対式2面2線だった美作千代駅ですが、片側の線路は撤去され、単式ホーム1面1線となったとか。人の移動手段が車へと移っていった結果、こうした例を多く目にします。

訪問日:2015年4月25日

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松箒(まつぼうき)橋梁・美作河合駅 in 岡山県津山市

2021年12月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

津山市加茂町山下、JR因美線美作河井駅~知和駅間に架かる石造りの鉄橋「松箒(まつぼうき)橋梁」。橋梁と橋を通る列車との風景は鉄道ファンにとって絶好の撮影スポットと言う事で、列車運行の時刻が近づくと大勢の撮り鉄さんが集まってくるとか・・

確かにこのロケーションに一両電車が加われば、被写体としては完璧!撮り鉄でない私たちでも必死でデジカメを向けると断言できます😀

道路を跨いで尾根から尾根に高さ100m近い円柱橋脚橋桁が渡る姿は、もうそれだけで圧巻。・・・ああ、本当にあと30分待てば電車が来ると誰かが言ってくれたら、絶対に最後の予定をキャンセルするのに。

因美線最後の駅は「美作河合駅」。途中に見かけた「矢筈城址」の文字に心を惹かれましたが立ち寄るには調査不足。もしかしたら、いつか立ち寄れる日もあるかもしれません・・好奇心はそれまでお預け。

津山市加茂町山下(旧苫田郡上加茂村山下)にある「美作河合駅」は、岡山県の最北端に位置する駅として知られています。昭和6年(1931)9月12日 - 因美南線 美作加茂駅 から当駅間延伸により終着駅として開業。翌年に智頭駅までが開通したことで、途中駅となりました。

単式ホーム1面1線を有する地上駅。かつては島式ホーム1面2線と留置線1本を有する合計1面3線の駅でしたが、1997年に行き違い施設が撤去され停車場となりました。

駅の南西には、かつて除雪車の向きを変えるために使用されていた手動の転車台が存在し、2009年2月に近代化産業遺産の認定を受けています。

深さ1.5m、円の直径12.4m、枕木の幅2.1m。この規模の転車台は、愛知県犬山市の「明治村」と青森県中泊町の「津軽鉄道津軽中里駅」の二基があり、完全な形で残っているものは「美作河井駅」のものが唯一といわれているそうです。

かつて鳥取方面からの除雪車を折り返すために使われた転車台。使用されなくなって以降は、草木に覆われ土中に埋まっていたのですが、2007年4月に全国から集まった鉄道ファンによって掘り起こされたと言う、エピソードつき。発掘作業に目を輝かせてこの線路に降り立った彼らの高揚した息遣いが聞こえるような気がします。

転車台の向こうに見えた矢筈城址の看板。何とこの駅は難攻不落の山城として有名な矢筈城の登城口になっているのです。

美作国と因幡国に勢力を有した『草苅衡継』が、天文元年(1532)から翌2年にかけて、加茂町山下から知和にまたがる標高756mの矢筈山に築いた、岡山県内最大の中世山城「矢筈城」。美作河井駅から急峻な登山道で、本丸まで約2時間弱だそうです。・・・・・とてもではありませんが無理😠、登山道が急峻で無かったとしても、絶対に!!無理!😠!

JJR因美線の駅舎巡りは「美作河井駅」で終了。こうしたのどかな駅舎を訪ねて巡るのは童心に帰ったようで心が弾みます。そう言えばこの時より三年前の4月、鳥取県智頭町を訪ね因美線智頭駅に立ち寄っていました。画像を見直してみると、なんとなく不思議な気分です。

実は加茂町域を走る因美線の電車、美作河井駅からの帰路にもう一度見る事が出来ました。ところが不意打ちだったのでこんな風に遠くからしか写せず、頑張って走ったご亭主殿は、無残にも車体の一部のズームアップという残念な結果に😅

それにしても、全く同じ一両電車なのに都会のビルがバックだと、途端に趣が失せてしまいます。電車にしてみれば「何でやねん!!」と、ぼやきの一つもこぼしたくなる所😅

訪問日:2015年4月24日(智頭駅のみ2012年4月14日)

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美作滝尾駅・美作加茂駅・知和駅 in 岡山県津山市

2021年12月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山県津山市の東津山駅から鳥取県鳥取市の鳥取駅までを結ぶJR西日本:因美線(いんびせん)。津山市旧自治体のマンホール収集では、因美線の駅舎付近で目的のマンホールを見つける事が出来ました。撮り鉄ではありませんが、地域に守られてきた古い駅舎、川面にすっくと立つ、あるいは道路をはるかに高く跨ぐ鉄橋も大好き。何かと気の多い二人には格好のコースです😊

スタートは津山市堀坂にある「美作滝尾駅」。昭和3年(1928)3月15日、因美 南線として美作加茂 - 東津山 - 津山間が開業した際に設置。駅名の由来はかつての所在地「勝田郡滝尾村堀坂」からですが、既に九州大分県に「滝尾駅」が存在した為、旧国名を冠し「美作滝尾駅」と命名されました。

戦前に建築された古い木造平屋作りの駅舎には、当時のままのきっぷ売り場や改札口などが現存しており、2008年11月に、国の登録有形文化財に登録。

津山方面に向かって右側に単式ホーム1面1線を有する地上駅。ホームに立っていると電車が入ってくる気配に慌てて物陰に。

乗降者でもないのに運転手さんに錯覚させては申し訳ないという理由ですが、でもバスと違って一応停車するんですよね😅。しばらく待って、去ってゆく後姿をデジカメに収める事が出来ました。

駅舎の北側には、かつて貨物の取扱駅であった時代の建造物が現存しており、側線跡の他に貨物ホームと上屋が現存しています。

無人の駅長室に怪しい顔出し・・ 実はこの駅舎、映画『男はつらいよ 寅次郎紅の花』の冒頭のシーンで寅さんが降り立つ駅の撮影に用いられています。

駅舎の入り口横には、映画の撮影を記念した碑。駅前には1998年に建立された「鐡道七十周年記念」碑もあります。

津山市加茂町桑原(旧苫田郡東加茂村桑原)にある「美作加茂駅」。昭和3年(1928)3月15日、因美南線として美作加茂 - 東津山 - 津山間が開業した際に起点駅として設置。

現在の駅舎は2003年6月に改築されたものですが、木造瓦葺に塔屋を設けた姿は因美線の駅舎らしい矜持を保っています。

相対式ホーム2面2線を持つ行違い可能な地上駅で、因美線の岡山県側では唯一交換設備を有しています。

冒頭の画像は、美作加茂駅から知和駅までの物見峠へ続く、県道脇の谷間に架かる石造りの「太郎渕橋梁」。昭和3年~5年頃の因美南線の3期工区の工事によって架けられたものです。

津山市加茂町小渕(旧苫田郡東加茂村小渕)にある「知和(ちわ)駅」。昭和3年(1928)9月12日、因美南線(現在の因美線)美作河井 - 美作加茂間延伸時に開業。

誰のいない切符売り場、窓ガラスが多用された事務所内は春の日差しを一杯に受け入れて、木のぬくもりをより鮮明に伝えています。

津山方面に向かって右側に単式ホーム1面1線を持つ地上駅。ここは交換施設を持たない棒線駅のため、津山方面行きと智頭方面行きの双方が同一ホームから発車します。

手つかずの自然に抱かれるかのごとく背景に広がる緑の木々、赤い瓦屋根も下見板張りの壁も開業当時のまま、秘境駅として知られる木造の駅舎。この不思議なほどの優しさは何なんだろう・・

訪問日:2015年4月24日

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