車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 岡山県赤磐市:旧山陽町:旧赤坂町

2021年11月30日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

赤磐市(あかいわし)は岡山平野の北東部に位置する市です。2005年3月7日 、赤磐郡山陽町・赤坂町・熊山町・吉井町が新設合併して発足しました。岡山市、備前市、久米郡久米南町・美咲町、和気郡和気町に隣接。地名は郡制の施行により発足した赤磐郡に由来。県内三大河川の一つである吉井川が市の北東部を流れ、市域の大半は丘陵と山林で占められています。

赤磐市仁堀にある「岡山フォレストパーク ドイツの森」は、その立地を生かした農業公園として、ジャージ牛の乳しぼり体験・アルパカ・ミニブタたちとのふれあい等々で、家族連れに人気のスポットとなっています。「市の木:松」「市の花:桃・桜」を制定。

キャッチフレーズは「人“いきいき”まち“きらり”」

2005年7月31日に制定された市章は「赤磐市の「ア」をモチーフに、躍動感とふれあいのイメージを表現しました。赤は市民の活力を、緑は豊かにとりまく自然と文化と歴史を象徴し、未来をみつめ活気あふれる赤磐市の発展を意味しています。」公式HPより

赤磐市のマスコットキャラクター『あかいわモモちゃん』。桃の花輪飾りと立体的なぶどうの粒がポイントの明るくて元気な女の子です。

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旧赤磐郡山陽町(さんようちょう)は岡山県の南東部に位置した町です。岡山市、赤磐郡赤坂町・熊山町・瀬戸町、御津郡御津町に隣接。町の中央部は比較的平坦で、東西は100m ~ 380mの丘陵。地域内には南方前池遺跡(県指定)、両宮山古墳(国指定)、備前国分寺跡(国指定)等の史跡や、千光寺三重塔等があり、古代~中世~現代にいたる営みが残されています。南北朝時代には鳥取荘が置かれて長講堂領となっていましたが、一時期、児島高徳が恩賞により形式的な所領としていたといわれています。モモと葡萄の栽培が盛んな事から、町には巨大な桃のガスタンクがランドマーク的役割をはたしています。「町の木:松」「町の花:桃」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、赤坂郡東高月村・鳥取下村・鳥取中村・西高月村・西山村が発足。

1900年、郡制の施行により、磐梨郡と赤坂郡が合併、赤磐郡となる。

1902年、東高月村、鳥取下村、鳥取中村が合併、赤磐郡高陽村が発足。

1926年、西高月村が改称、赤磐郡高月村となる。

1953年、高陽村、高月村の一部・西山村が合併、町制を施行し赤磐郡山陽町が発足。(高月村の残部は岡山市に編入)

2005年、赤磐郡赤坂町・熊山町・吉井町と合併、市制を施行し赤磐市となりました。

マンホールには特産の「モモとブドウ」、上部には町章が表記されています。

昭和50年(1975)1月制定の町章は「頭文字の「山」を図案化したもので、山の字が円から2方に飛び出して町制の力強い飛躍と発展を象徴し、外の円は町民の団結と協調を象徴したものです。」合併協議会資料より

自治体名のみの古い消火栓は、山陽町馬場の「旧赤坂高等尋常小学校本館」付近にあったもの。

最後は山陽町を流れる砂川に架かる「下市橋」の親柱。特産の桃と葡萄がデザインされています。綺麗に彩色されていたら・・思わず頬ずりしそう😅

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旧赤磐郡赤坂町(あかさかちょう)は岡山県南部に位置した町です。赤磐郡山陽町・熊山町・吉井町、和気郡佐伯町に隣接。町域には高塚古墳のほか、約150カ所の古墳があり、須恵器が出土するなど、古くから生活が営まれていた事が伺えます。町の大半は丘陵と山林で占められ、地域内には5つの寺院と、30の神社が立地しているています。「町の木:カイヅカイブキ」「町の花:サツキ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、赤坂郡鳥取上村・軽部村・笹岡村が発足。

1900年、郡制の施行により、磐梨郡と赤坂郡が合併、赤磐郡となる。

1953年、鳥取上村、軽部村、笹岡村が合併、町制を施行し、赤磐郡赤坂町が発足。

1956年、布都美村の一部を編入。(残部は吉井町・御津郡御津町に分割編入。)

2005年、山陽町・熊山町・吉井町と合併、市制を施行し赤磐市となりました。

旧赤坂町域は、義姉の案内でかなりの範囲を捜し歩きましたが収穫はゼロ。その後、義姉が探してきてくれた「町章の有る消火栓」が唯一の収穫となりました。

昭和44年(1969)11月制定の町章は「赤坂町の「赤」を図案化したもので「★」は町民の団結。町の発展を象徴し「●●」は町民みんなの和と産物である桃、葡萄を表したものです。」合併協議会資料より

撮影日:2009年5月5日&2012年1月25日

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由加(ゆが)神社 in 岡山県和気町大田原

2021年11月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山県和気町大田原に鎮座される「由加(ゆが)神社」。御祭神は『息長帶姫命(神功皇后)、豐受大神、素盞嗚尊、八幡大神』

御由緒「当神社の創立は不詳であるが、現存している最古の棟札には平安時代後期天永3年(1112)和気氏が新田郷の総鎮守として西久保方の上山上に八幡宮を建立したことが記されている。爾来、和気氏(郡司)藤原氏(地頭)明石、浦上 宇喜多氏、池田氏等有力者の崇敬が篤く、特に、播磨、備前、美作の守護であった赤松氏の崇敬が篤かった。
南北朝時代、赤松則祐が足利尊氏に従い、九州で戦った時、宇佐八幡宮、神功皇后宮に参拝し戦勝祈願を行なったところ軍利を得たので神助に報いるため建武4年(1338)当神社を新しく造営し、現在地に遷宮した。
明治5年郷社に列せられ、由加神社と改称した。明治42年各地区のお社を当社に合祀し、現在に至る。」境内縁起書より

二の鳥居の先より広い神域を守護されるのは、獅子鼻が特徴的な浪花タイプの狛犬さん一対。特に阿形さんの顔はまさに「獅子頭」。

杉木立に守られた参道を進むと、まだ新しい随身門が見えてきました。随身さんがおいでだったかどうかは・・・記憶に無い所を見ると、多分ご不在😓

随身門の先に神橋がかかり、その先の神門からが御祭神により近い神域となります。「キティちゃんのお守り配布」の看板が、何とも今風😅

江戸期より家相を専門に診断し、秘伝として伝わるご祈祷にて陰陽五行の災難を封じると言う儀式。行なわれるのはこの拝殿内でしょうか。

拝殿の奥、御本殿の柵内にて神域を守護されるのは、先と同じく獅子顔の狛犬さん一対。年代も作者も不明ですがとても個性的な顔立ち。

拝殿屋根に見つけたまだ新しい飾瓦は「満開の牡丹」。鮮やかに花開いています。

大屋根から見下ろす鬼は、しっかりと歯を噛み締めて、神の座す神域を守り続けています。

こちらは神門の屋根に見つけた飾瓦なのですが、大きな八つ手状の葉、もしくはハスの葉かもしれません。その上に一枚の葉・・その奥に見えるのは桃の実・・まるで判じ物みたいな留め蓋瓦。

社殿全体が描かれた「心眼成就」の絵馬。この神社だけのオリジナル絵馬、神様には失礼な話ですが、集めてみたい・・

参拝日:2011年8月17日

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水行谷(みずひきだに)神社 in 岡山県和気町大中山

2021年11月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山県和気町大中山に鎮座される「水行谷(みずひきだに)神社」。御祭神は『水波能賣命(みずはのめのみこと)、建御名方神、八坂刀賣神(やさかとめのかみ)、応神天皇』。

由緒「本神社は水引滝の下流の凉々とした谷川辺に鎮座していたので水行谷神社と称したと伝えられている。再三の兵火に罹り、伝記を焼失したので創立年代等は定かではないが、本国総社神名帳にある旧社である。
明治42年4月1日現在地に遷座し、同時に八幡宮、諏訪神社を合祀した。
寛文年中から明治維新まで、藩主池田家から社領畑高1石2斗を受領していた。」(岡山県神社庁H.Pより)

左右に田園が広がる参道を進んでいくと、二の鳥居と石段参道が見えてきます。

石段参道の左右より神域を守護されるのは、精悍な顔立ちの備前宮獅子一対。顔も体も白いセメンの跡だらけなのがちょっと痛ましく見えますが、当の獅子さんたちは全く気にも留めていない顔つき。

長い急な石段の先に三の鳥居。その先に随神門と手水舎があり、真っ直ぐ奥に社殿が見えてきました。

随身門内より神域を守護されるのは、色鮮やかな装束に身を包んだ「右大神・矢大神」。これほど綺麗な状態の随身様、おそらく近年の奉納と思われます。

随身門から拝殿、その先には柔らかな日差しが差し込む御本殿。

開放的な拝殿は絵馬殿も兼ねているらしく、壁には沢山の奉納絵馬。石段の鬱蒼とした雰囲気からは想像も付かなかった明るい境内。絵馬の中の武者たちも生きいきとしています。

境内の一画には、ご祭神も摂社名も見忘れてしまいましたが、切妻作りのお社が鎮座されています。

参拝日:2011年8月17日

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御神名一口メモ

『八坂刀賣神(やさかとめのかみ)』、建御名方神の妃神。「古事記・日本書紀」に記載が無く、諏訪固有の神ともされる。

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天石門別(あめのいわとわけ)神社 in 岡山県和気町岩戸

2021年11月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山県和気町岩戸に鎮座される「天石門別(あめのいわとわけ)神社」。御祭神は不詳ですが、他の例から見て『天石門別神(天手力男)』と思われます。

由緒「本神社の創建は不詳であるが、往古天神山嶺上に鎮座していた。天津社と称し、本村岩戸、田土、龍ヶ鼻等の産土神で備前国神名帳(総社本)に天石門別神社とある。山本氏本に正五位下天石門別明神とある。当国百二十八社の一である。天文二年領主浦上遠江守宗景が、この地に城を築くため、神社を山麓即ち現在の所に遷座した。」岡山神社庁HPより

鳥居の内より神域を守護されるのは「伊部窯元 作者:木村貫一友敬」によって生み出された備前宮獅子さん・・の、吽形さん一体のみ。何があったのか体に綱を巻かれて・・多分紙垂のついた注連縄だったのでしょうが、紙垂がなくなるとまるで拘束されているようにも見えて・・なんだか痛ましい。

そして阿形さんの場所には、これまた何故か「和気清麻呂公」の銅像と随身の猪・・・・しかもこちらも、あまり見栄えが良いとは言えない状態になった綱を巻かれて立っておられるのです。まるで咎有る者に縄打つ風情のお姿は・・いかなる理由があっても納得しかねます。

できうる事なら事の顛末を教えていただきたいと思うのですが、清麻呂公はただ静かにそこに佇んでおられるだけ。

参拝日:2011年8月17日

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矢田(やた)八幡宮 in 岡山県和気町矢田

2021年11月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山県和気町矢田に鎮座される「矢田(やた)八幡宮」。御祭神は『応神天皇』と思われます。

由緒「本神社の由緒は寛文年中に蓮生寺と称する寺があった。寛文下文の制で、備前藩主池田光政により蓮生寺を癈して、現在の所に社殿を造営し、蓮生寺の僧を還俗させて八幡神の祀官とした。」岡山神社庁HPより

境内の一画にはいささか場違いにも思える、町指定文化財「善照寺石造九重層塔」。室町時代の作と考えられ、花崗岩製で塔身は2、04m。「善照寺の住僧が還俗した後に、善照寺境内から現在地の矢田八幡神社境内に移したもので、上二層が欠損しているが、美麗である」と記されています。

境内入り口より神域を守護されるのは、昭和三年建之の備前宮獅子の阿形さん・・。そうなのです。阿形さんが見つめる先にいる筈の吽形さんは、神を敬うことを知らないどこかの馬鹿によって盗まれていました。

宮獅子や狛犬さんで特にお気に入りとか、外に境内等の枚数が無い時は同じ形の獅子さんを並べる事が有りますが、こんな理由で同じ狛犬さんの画像を並べるのは悔しい!

参道の先には立派な随身門があり、どうやら内には随身様がおいでになる様子・・覗き込ませて頂いて思わず絶句!!門内には、ずいぶんコッテリと化粧された随身様と神殿狛犬さんが、神域を守護されています。

どうですか!神殿狛犬さんのコッテリ化粧!!たてがみは黒く塗られ、お顔は肌色に、体は赤と青の原色・・・😲 これ・・本当に禰宜さんや氏子さんの承認の元で彩色されたのかと、思わず疑ってしまう筆さばき。

参拝を終えた後、兄や義姉から小さな神社での備前焼の狛犬の盗難が、ここ最近頻繁に起こっている事を聞かされました。町外れの、防犯カメラの無い小さな神社を狙っての犯行は、理由の如何に問わず絶対に許されるべきものではありません。

神域を守護される神獣を盗むと言う行為自体、普通の日本人の感性としては考えられない事です。神獣は、神の使いであり、神が鎮座される場所を守護するもので、美術品ではありません。立派な石組みの台座に広がる空間を見ていると、無性に悲しく・・腹立たしく・・。(後に傷つけられた状態で返却されたというニュースを聞きました。罰当たりな犯人に相応以上の神罰が下っていますように!)

参拝日:2011年8月17日

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和気(わけ)神社 in 岡山県和気町藤野

2021年11月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

和気町藤野に鎮座される「和気(わけ)神社」。御祭神は『鐸石別命・弟彦王命・佐波良神・伎波豆命・宿奈命・乎麻呂命・清麻呂命・広虫姫命』

由緒「第11代垂仁天皇の皇子 鐸石別命の曾孫である弟彦王は、神功皇后に反逆した忍熊王(おしくまおう)を和気関に滅ぼした功により、藤原県を与えられ土着した。その弟彦王を祖先とする和気氏は備前・美作両国に栄え、その12代後裔が和気清麻呂公・和気広虫姫である。」公式HPより

一の鳥居をまっすぐ、石段参道の先に、明治28年に造営された「随身門」。公式HPには、守護神像を左右に安置したとありますが、義姉曰く「随身さんはいなかったよ」

「現存の建物は、明治18年より順次建替えられ、本殿、幣殿・釣殿・拝殿、随神門が一連の建造物となっています。門弟60余人を有し、関西一の大棟梁といわれた、宮大工:田淵勝義の手により造営されました。」公式HPより

拝殿前より神域を守護されるのは、清麻呂公の神使とされる「狛いのしし」一対。道鏡事件の逆恨みによる刺客から清麻呂公を救った300頭の猪の故事により、清麻呂公の随身とされました。

「狛いのしし」さんは、一の鳥居まえにもおいでになり、神域を守護されています。

阿形さんが異様に小さいのは、後ろに控える「この方」に気をとられていたせいで・・・😣 なぜここに布袋様が???

清麻呂公御真筆碑「我独り天地に慙(は)ず」。(世の中の人がどうあっても、自分は天地に恥じることなく正しい道をいく。)

本殿近くに鎮座される摂社:「天神社」

明治31年建立の「清麻呂公頌徳碑」。服部芙蓉翁の撰になる古詩で、書は江上景逸の揮毫。また、頌徳碑の建つ岩は「清麻呂公腰掛岩」ともいわれています。

境内から少し外れた一画に建立されていた文学碑。作者名の上に「母を忍びて」と刻まれているのはわかるのですが、内容はほぼ不明😔

2007年5月の参拝画像に、2021年5月に参拝してくれた姉の画像を混ぜて、和気神社の紹介は終わり。こういう合作も悪くないね😊

参拝日:2007年5月4日

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日本一の藤公園 in 岡山県和気町藤野

2021年11月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

「絶対に素敵だから時期が合えば一緒に行こうよ!」と、義姉に何度も誘われながら中々チャンスが無かった「和気の藤公園」。今回はGWと重なっての帰省だったこともあり、お誘いに乗ってみました。

「その昔、その名のとおりこの藤野の地は藤が咲き乱れる原野であったと伝えられています。この地で誕生した和気清麻呂公の生誕1250年を記念して藤公園を整備しました。この公園は7000㎡の敷地に幅7m、総延長400m棚面積3000㎡の藤棚を配置し、北は北海道から南は九州鹿児島まで全国46都道府県の著名な藤(国指定天然記念物7種類・県指定天然記念物46種類・市町村指定天然記念物26種類・その他19種類)約100種類ほどを収集し整備した「日本一の藤公園」です。」園内表示板より

藤の種類の多さでは全国でもトップクラスと言われる「和気の藤公園」。園内では花房が1メートルもある長藤や、濃い紫、純白、紅色などの変わり藤も一度に鑑賞出来るとあって、かなり早めの訪問にもかかわらず園内は既に沢山の人出。それでも立ち止まってゆっくりと花を眺める余裕はあります。

薄紫の花のシャワー・・・そんな形容がぴったり当てはまる園内。薄紫の花に混じって目の前を掠めるのは蜜を求めて飛び回るクマバチたち。その羽音が驚くほど大きく響いて思わず首をすくめてしまったり😄

小さいときに蜂に刺されて以来「蜂=怖い=逃げる」な私ですが😓、不思議と藤の花によって来るクマバチだけは怖いと思ったことがないのです。

お気に入りの花を探して右往左往するのはカメラ片手に花を愛でる人たちも一緒。一瞬の風を待って三脚の前に立ったまま、全然動かない人もいます。

全国の著名な藤を確認して歩くのも楽しみの一つ。北海道の五稜郭からやって来た藤も有りましたが、まだ固い蕾の状態。気温によって開花が左右されるのかと思っていたのですが、意外とそうでもないみたい。「きっと義理堅いんだよ」とはご亭主殿の弁。そうか、故郷の藤と時を同じくして咲くのかもしれないね~

これは!!「東津野村の大藤」・・こんな所でこの地名を目にするなんて予想外の遭遇に感動。東津野村は四国高知の山間部に有る小さな村。そこはご亭主殿が生まれて幼児期までの数年間を過した最初の故郷なのです。

高い藤棚の上からまるで見せ付けるように咲き誇る、色もその形状も様々な藤たち。艶やかに咲く花たちを見上げていたら、首が痛くなりました😥

美しいもの、並外れて優れているもの・・そういう特別なものを一生懸命見るのって、実はとっても疲れるのですよ😅 

園内はさらに人の姿が増し、立ち止まって花を眺めるのも遠慮がち。観光バスも次々と入って来ます。ここに至る道路はかなりの距離が片側一車線。出る人たちの渋滞に巻き込まれないうちに、和気神社への参拝を済ませることにします。

和気氏発祥の地で『和気清麻呂公』生誕地として知られる和気町。藤公園に隣接して鎮座される「和気神社」。近くには、高さ463cmの青銅製の清麻呂公像が建立されています。彫塑家であった「故:朝倉文夫氏」が昭和15年に紀元2600年奉祝美術展覧会(東京府美術館)に出品した石膏像。昭和58年、清麻呂公御生誕1250年を記念して、清麻呂公の故郷である和気町に寄贈されました。

また神社の入り口に架かる高さ8m、幅10mの日本一の大絵馬には、境内の見所などが紹介されており、中々に興味深い内容。

今回は帰路の渋滞の大変さを義姉から叩き込まれていたので、一通りの参拝だけで終わらせてしまいました。当然、使える画像も皆無に近く😓 たまたまその話を義姉にしたところ、休みを利用して写真を写してきたとメディァカードが送られてきました。 故郷の偉人が鎮まられる神社・・明日は和気神社の紹介です。

訪問日:2007年5月4日

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ご当地マンホール in 岡山県旧佐伯町(和気町)

2021年11月23日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

旧赤磐郡佐伯町(さえきちょう)は岡山県の中東部に位置した町です。和気郡和気町、赤磐市、美作市、久米郡美咲町に隣接。古代より官道に沿う要衝の地であり、「和名抄」には「布志乃(藤野)」の名が見られます。またこの地方一帯は、筑紫・吉備・出雲・飛鳥の4大古代日本文化の発祥地といわれ、古代豪族の興亡の跡として、町内には3世紀から7世紀にかけて大小100基に余る古墳が存在し、鉄を精錬した製鉄跡も数多く遺されています。町の中央を北から南に吉井川が貫流し、町中心部の吉井川が大きく蛇行したあたりに小盆地が形成され、そこに町役場など行政・商工業の施設が集中。また標高430mの三保高原の一角に広がる佐伯ファミリーパーク」は、手頃に高原気分を味わえる公園として人気です「町の木:ウメ」「町の花:サクラ」「町の鳥:カワセミ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、和気郡山田村・塩田村・磐梨郡佐伯本村、佐伯上村が発足。

1900年、郡制の施行により磐梨郡と赤坂郡が合併、赤磐郡となる。

1942年、 佐伯本村、佐伯上村が合併、赤磐郡佐伯村が発足。

1955年、赤磐郡佐伯村、和気郡山田村、塩田村が合併、和気郡佐伯町が発足。

2006年、和気郡和気町と新設合併し、新たに和気群和気町となりました。

マンホールには、佐伯ファミリーパークのシンボル「風車」と、「町の花:桜」がデザインされています。

昭和44年7月制定の町章は「さえきのさ」の文字を図案化したもの。上は大空に羽ばたく鳥のように飛翔・向上する町勢を表し、下の円形は町民の融和・親睦・団結・円満を現しています。末永く町民に愛され、親しまれる事を願って選定されました。」合併協議会資料より

撮影日:2011年8月17日

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ご当地マンホール in 岡山県和気町

2021年11月22日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

和気群和気町(わけちょう)は岡山県の南東部に位置する町です。2006年3月1日、和気郡和気町と佐伯町が合併し、新たに和気町となりました。備前市、赤磐市、美作市、久米郡美咲町に隣接。吉井川沿いに開けた町で、町域の大半は山林。町の中心は吉井川と金剛川が合流する地点で小盆地を形成しており、ブドウやリンゴをはじめ、スモモ、サクランボなどの果樹栽培が盛んです。和気清麻呂の生誕地として、また全国各地のおよそ100種のフジを集めた藤公園、和気鵜飼谷温泉、和文字焼きで知られる「和気富士」などが知られており、岡山県内や近畿地方を中心に各地から観光客を集めています。「町の木:さくら」「町の花:フジ」を制定。

キャッチフレーズは「元気 やる気 日本一 のまちづくり」

2006年3月1日制定の町章は「カタカナの「ワ」をモチーフにして、「ケ」を組み合わせたデザインです。全体に日本一の藤の花が風に揺れるイメージで、うるおいと安らぎのあるまちをあらわしています。」公式HPより

和気町PRキャラクターの『わけまろくん』。「和気清麻呂公」に憧れ、“強い信念”を持って、仲間の『フジコちゃん』『タンタン』と共に和気町のPR活動に取り組んでいます。

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旧和気群和気町(わけちょう)は岡山県の南東部に位置した町です。北は英田郡英田町、東は吉永町、南は備前市、西は赤磐郡熊山町、和気郡佐伯町に隣接。西部を吉井川が南流し、東方より西流する金剛川と町南端の初瀬池から北流、のち西流する初瀬川を合流。町域の藤野地区は、和気清麻呂の生誕地として知られ、和気清麻呂を祀る和気神社が鎮座します。

1889年、町村制の施行により和気郡和気村・本荘村・日笠村・藤野村、磐梨郡石生村が発足。

1900年、郡制の施行により、磐梨郡と赤坂郡が合併、赤磐郡となる。

1901年、和気村が町制を施行、和気郡和気町(旧・第一次)が発足。

1950年、本荘村が町制施行、和気郡本荘町となる。

1953年、和気郡和気町、本荘町、日笠村、藤野村、赤磐郡石生村が合併、新たに和気町(旧・第二次)が発足。

旧和気町のマンホールは、中央に町章が表記された規格タイプのみ。

昭和39年(1964)10月制定の町章は「和気町の「ワ」と「ケ」の二文字をカタカナで表現し、円形は円満な和を意味付けています。中央の三角状は、海外四方八方に飛躍発展を図案化したものです。」合併協議会資料より

マンホール探しの途中で見かけた「登録有形文化財:旧永井家住宅」。大正5年(1916)に歯科診療所兼住宅として建てられました。

江戸切り仕上げ石を積んだ基礎、外壁の下見板張り、木製の上げ下げ窓、塔屋をもつ瓦葺屋根など、建物の随所にその当時の進取の気風が表現されています。

旧永井家住宅の直ぐ近くにあった「和気郵便局」の建物。右から左に書かれた文字の古さからも、それなりの年代物と思われます。

人の気配も無く、和気町の公式サイトにも特に記載が無く、現役なのかどうかも不明という謎の建物。

撮影日:2009年5月5日&2015年5月3日

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三石(みついし)八幡宮 in 岡山県備前市三石

2021年11月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

岡山県備前市三石に鎮座される「三石(みついし)八幡宮」。御祭神は『応神天皇・素盞鳴命・神功皇后・天照皇大神』

参道途中に大切に保存されている八幡宮の鳥居額と、かって鳥居を成していた柱等々・・どのような事情なのか案内がない為、不明。

「大正二年九月八日、村社:八幡宮・村社:素盞鳴命神社・村社:三石神社および境内末社:荒神社を八幡宮に合祀した。」岡山神社庁HPより。

境内入り口より神域を守護されるのは、安政四年六月建立の狛犬さん一対。それほど深い彫では有りませんが、優しいお顔で参拝者を迎えてくれます。

向かって左の注連縄に守られた巨石は、神功皇后の「孕み石」。遥か古の事、神功皇后はこの地に置いてしばしの休息をとられました。以来、ご懐妊されておられた皇后に倣うように、付近の岩が子を孕んだようになったと言われています。その故事により別名を「孕石神社」と呼ばれ、子宝を授かりたい人や安産を願う人々が祈願を受けに訪れるようになったと云い伝えられています。

境内社「稲荷社」

「稲荷社」の社殿前には、三対もの神狐さんが奉納されています。

どれほどの時をここで過ごし、この神域を守護されてきたのでしょうか?少しずつ表情を無くしていきながらも、その姿は健気。

参道途中、玉垣境内のすぐ近くに建立されていた『和気清麻呂公』像。和気氏は、第11代垂仁天皇の第5皇子である、『鐸石別命(ぬてしわけのみこと)』より始まります。命の曽孫である『弟彦王』は、神功皇后の新羅遠征に従軍し、皇后に命じられて、針磨(播磨)と吉備の境に関(備前市三石)を設けて防いだと云います。清麻呂公の像はそれに因んでの建立でしょう。

参拝日:2010年8月12日

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