goo blog サービス終了のお知らせ 

車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

柳田國男記念公苑 in 茨城県利根町布川

2019年12月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・茨城県

明治8年(1875)7月30日、八人兄弟の六男として生を受けた『柳田國男(松岡國男)』。「日本人とは何か」という問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、特に初期においては「山の生活」に着目。著書「遠野物語」に、「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と記しています。写真は『大正天皇』即位の御大礼において「大嘗祭」に出席した時のものと思われます。

利根川べりの布川にある旧小川邸の離れは、彼が13歳の頃から三年間を過ごした場所。現在、旧小川家の母屋(復元)と土蔵は「柳田國男記念公苑」として一般に広く開放されています。

小川家母屋の庭先には、國男が東京の自宅で育てていた「山桃」の木が、高く茂っています。

施設の記念スタンプは、國男少年が書物を乱読したという「小川家の土蔵」

土蔵の前には「小川家の屋敷神」が祀られており、ここで國男少年は「神秘体験」をしました。 好奇心旺盛な少年は、家人の留守を見計らいこの祠の石の扉を開けて中を見てしまったのです。中には綺麗な玉が入っており、それを見た途端心がざわめき、そうして見上げた青空には星が輝き・・

・・・と、突然、ヒヨドリが鳴きながら空を通過し、その声で正気を取り戻す事が出来たといいます。

「触らぬ神に祟りなし」・・兎にも角にも石祠に手を合わせ🙏🙏、履物を変えて土蔵へと移動。

土蔵の中に入って一番に目に飛び込んできたのは、ガラスケースの中で貴重品然とした「玉」。例の「石祠の玉」・・・ですが大丈夫😄。これはレプリカで、実物は別の場所に保管されているとの事。 神として祀られている物に、迂闊に手を出してはいけない・・不心得物は肝に銘じましょう!

狛犬を盗んだり、鳥居を傷つけたり、あまつさえ本尊とされる仏像を盗むなど、信仰の有無に関わらず人として最低の行為です!!

資料館の展示内容は実に多岐に及んでおり、本来ならじっくり腰を据えて見たい物ばかり。

「私の家は日本一小さい家」だと、國男が折に触れて人に話したと言う「生家の模型」。

これは2014年12月に訪ねた、兵庫県福崎町にある実際の彼の生家で、四畳半と三畳が二間ずつ・・。確かに大きいとは言えませんが、当時の一般庶民の家を見れば「日本一小さい」は言い過ぎ😓 居住者人数に対してと付け加えましょう😄

様々な展示に見入りながら進んでいた私の足をピタリと止めさせたのは、壁に架けられていた一枚の絵。 その絵の中から聞こえてきたのは、消え行く嬰児の声、詫びて・・詫びて・・吾が子を殺める母の、血を吐く無音の叫び。私はただ・・・立ちすくんでいました。

「柳田國男は、『故郷七十年』の中で、「利根川べりの生活で、私の印象に最も強く残っているのは、あの川畔に地蔵堂があり、誰が奉納したものであろうか、堂の正面右手に一枚の彩色された絵馬が掛けてあったことである」と述べています。 今も布川の徳満寺本堂に掲げられ、「間引き絵馬」として知られるこの絵馬は、産褥の女がはちまきを締めて、生まれたばかりの嬰児を押さえつけているという悲惨なもので、障子に映った影絵には角が生えており、そばには地蔵様(現在は足の部分だけが残る)が立って泣いています。この絵馬は先に当地方を襲った飢饉の被害の甚大さを物語る貴重な資料の一つで、食料が欠乏した場合の調整は死以外になく、人工中絶ではなく、もっと露骨な方法が採られてきたことが伺えます。これを見た國男は、「その意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になった。」と述べており、後に民俗学を志す原点なったともいわれています。」資料館説明より

飢饉の被害の甚大さを物語る貴重な資料の一つで、食料が欠乏した場合の調整は死以外になく・・・絵馬に描かれた室内の様子は、屏風などの調度を見てもそれなりの大家と思われます。そんな家庭であっても子を間引かねばならなかったのか・・・と同時に、誰が何の意図でこの絵馬を書いたのだろうかという問いが生まれました。それが子殺しをしてしまった母親であるなら、自らを鬼としたことも、親の手によって殺される子に御仏の慈悲があると信じたかった心も・・上っ面ではあるけれど、でもわかるような気がします。

訪問日:2019年3月16日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

曲流舎(きょくりゅうしゃ)句碑群 in 茨城県河内町

2019年12月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・茨城県

大洞院の参拝を終えたら、こちらに詣でた主目的(罰当たりで御免😅)、境内に残された町指定文化財史跡「曲流舎(きょくりゅうしゃ)句碑群」の捜索。

境内左右に立ち並ぶ句碑は、天保年間から明治にかけて活躍した「曲流舎俳諧」の往時をしのぶ「曲流舎句碑群」。スタートは幕末期の俳壇に大きな影響を与えた『曲流舎海保可川』から。文久二戌年(1862)古稀祝の建立。

【しぐるるや 稲づまからの 空うつり】

【世にさわる もの音もなし 蓮の露】『二世:一川』

【涼風や 気がるにかえる帰 もと元の道】『三世:雙流』

【出歩けば 裾風寒し 春の月】『五世:静川』

【松風に むかひてさますや 花の酔い】『六世:文丈』

句は不明、「月見」「吾」「離れ」「老」の文字と、作者の『三善』だけが読みとれました。

作者の名前は『平雪』、「草」で始まる句である事が読み取れました。

更に下の4つの句碑は『八世:煮石』『可聴』『可逸』『可融』いずれかが当てはまると思われます。これでも結構な時間をかけて、ご亭主殿と二人で解読を試みたり、一生懸命ググったりもしたのですがダメでした。

案内では句碑は十二基と言う事ですが、判読の可否はともかく、見つけたのは全部で十一基。では残りの一基は・・・。文章らしきものが刻まれたこの碑には先祖代々の文字があるので、多分「供養碑」だから違う。

すでに「石柱碑」という事しか分からない、かなりの年代を経たと思われる碑。でも、きっとこれも違っているようで、では何処に??と気分的にすっきりしません。

「庚申塔」「供養碑」「大師堂の前・・碑と名の付くものは徹底的に写してきましたが句碑には程遠い。近ければリベンジも出来るのですが、高速使ってノンストップでも7時間は半端無く遠すぎる・・😭

「芭蕉門下大島蓼太につながる夫桑庵弗児の門人で、幕末期の俳壇に大きな影響を与えた『曲流舎海保可川』。可川は俗名を海保仙治、通称九郎左衛門といい、寛政5年(1793)に生まれ、俳諧結社曲流舎をおこし、嘉永2年(1849)俳号披露の開筵(句会を設ける)賀集『由婦花』を出版、金江津連として常総地方にその名を馳せ、元治元年(1864)72歳で亡くなった。」河内町公式HPより

訪問日:2019年3月16日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

萬年山:大洞院 in 茨城県河内町

2019年12月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・茨城県

利根川沿いの河内町金江津に境内を構える曹洞宗寺院「萬年山:大洞院」『釈迦牟尼仏』を本尊とします。

寺歴によれば「開山は、慶長5年(1600)成田市の「祥鳳院五世:天岩呑祝大和尚』。『天岩』は江戸崎城主『土岐頼次』の次男で幼名を『春若丸』と言い、『祥鳳院4世禅師』の剃髪を受けて出家しました。」

本堂向拝に向かい合う阿吽の龍。目の輝きから想像するに玉眼と思われますが、睨み合う姿には緊張感の欠片も無く、ユーモラスにさえ感じられる・・いつの時代の物でしょう?

龍の左右には、おそらく同じ彫刻師の作と思われる玄武

波濤の中を進む姿は何故か楽し気。

境内の一画に並ぶ干支の十二神将・・ですが、現在九神将。酉・戌・亥の奉納待ちですね😊

鐘楼の下に建立されていた「養蚕供養塔」

境内の片隅、三猿が刻まれた「庚申塔」

曹洞宗のお寺ですが「大師堂」もあります

江戸時代には俳諧の句会「曲流舎」の会場として栄えたそうで、大洞院の本堂が常に句会の場となっていました。境内には、海保可川の句碑をはじめ、多くの俳人の句碑が残されており、「曲流舎句碑群」として河内町指定文化財となっています。と言う事で、明日は「曲流舎句碑群」の紹介です。

参拝日:2019年3月16日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

側高(そばたか)神社 in 茨城県河内町

2019年12月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・茨城県

河内町金江津に鎮座される「側高(そばたか)神社」。御祭神は『天津彦火火出見命(あまつひこほほでみのみこと)』『山幸彦』の名で知られます。

一の鳥居から二の鳥居へと続く参道は、清掃が行き届きとても気持ちの良い空気に満ちています。

「永徳年間(1381~1383)、香取神宮の第一摂社:側高神社より分祀され、大嶋川岸に鎮座。その後寛永年間(1624~1643)に砂場に遷座。正徳4年(1714)に本殿を建立。一間社流造の本殿は、河内町有形文化財の指定。」

参道から少し急な石段を登った先に、ガラス戸付きの拝殿。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、大正十年(1921)一月建立の垂れ耳が可愛い江戸流れさん。うっすらと開いた口元は何処となく優雅な貴婦人の微笑を思わせる、わたし好みの顔立ち。

伏目がちに参道を見守る吽形さん。その控えめな態度とあわせて、これも又好感度アップ! 石工の優しさが伝わってくるような狛犬さんを見ると、ここまで来た甲斐があったと嬉しくなります。

拝殿向かって左、石の鳥居と朱の鳥居とが交互に建てられた奥に鎮座される「境内社:稲荷社」

社殿は「覆屋(おおいや)」の奥に鎮座されており、拝殿前には朱の幕が奉納されています。

社殿前左右より神域を守護される神狐さん一対。それぞれが宝珠と鍵を前足の下に抱き込んでいます。

拝殿の向かって右側に鎮座「境内社:皇大神宮」。御祭神はおそらく『天照坐皇大御神』

皇大神宮の社殿脇障子に施された彫刻、これは何を題材としたものでしょうか? 社殿彫刻が大好物な私ですが、それをぱっと説明できる才能がないのが口惜しくもあり、切ないところ。

社殿前左右より神域を守護されるのは、文化四卯(1807)四月建立の、とても小さな狛犬さん一対。

小さいのですが、その表情は不敵とも言いたいような面構え。むしろいじらしくさえあります。

境内の一角に建立されていた「戦没者碑」。河内町の国難に殉じた方々の慰霊碑でしょう。

境内の沢山の石祠の中にあった「大黒様」、表情がとても綺麗です。いつの時代か・・誰かが奉納されたのでしょうが、もう少し良い扱いを受けても良いのでは😅

参拝日:2019年3月16日

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水郷潮来あやめ園 in 茨城県潮来市

2019年12月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・茨城県

潮来といえば・・・ご亭主殿は「潮来の伊~太郎~~♪」とのたまって、『橋幸夫』と答えました。事ほど左様に「潮来の伊太郎」は世代を超えた大ヒット曲だったと言うべきでしょうか😅
「水郷筑波国定公園:潮来」、水郷潮来といえば菖蒲ですが、季節が違い過ぎて何もありません。

閑散とした水郷潮来あやめ園の入り口に、渡世人姿の「潮来の伊太郎」の銅像が建っています。「合羽からげて三度笠(もはや別の歌)」の潮来の伊太郎さん・・なんか色々侮れない雰囲気😄

銅像の横には『橋幸夫』のヒット曲「潮来笠」の歌詞碑があり、ボタン一つで音楽も流れます。でも、多分B面と思われる「潮来旅唄」はまだしも、「恋のメキシカンロック」ってなにゆえ??! 潮来でメキシカン??可笑しいでしょう😅

そして、潮来といえばもう一つ・・・年代はずっと高くなりますが「前川」に架かる「水雲橋」の袂に、嫁入りの米俵と並んで「潮来花嫁さん」が、文金高島田に白無垢姿(青銅だけど)で座っています。

で・・・こちらも横のボタン一つで「潮来花嫁さんは、潮来花嫁さんは~ふ~ねで~行~く~♪」と歌が流れます。さすがにこれは歌手名が分からずググりましたが、『花村菊江』さんの大ヒット曲だそうです。懐メロが大好きだった姉のおかげで、実は歌の前半くらいは歌えたりします😅

水郷潮来の名物は、美しい菖蒲を見ながらの「十二橋めぐり」、確かに納得できる景色。次々と現れる橋をくぐり、櫓舟に揺られながら優雅に前川を往来するのって、何か良いですよね。

あと二ヶ月もすれば、綺麗な菖蒲の姿が見られるでしょうが、今はまだ寒々とした土の景色。どうも私達が季節を外す花は桜だけではないようです。

水運の要衝として栄えた潮来に残る「水郷旧家 磯山邸」。生憎と周辺工事の為外観のみ。菖蒲と言い、櫓舟に揺られての「十二橋めぐり」といい、なぜここまで季節を外してしまうのか😓・・・いわゆる一つの、我が家の七不思議😩

訪問日:2019年3月14日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海雲山:長勝寺 in 茨城県潮来市

2019年12月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・茨城県

潮来市潮来に境内を構える臨済宗妙心寺派寺院「海雲山:長勝寺」『阿弥陀三尊仏』を本尊とします。

正門から伸びる参道の先には三間一戸、二重二階門、入母屋造の上層屋根を持つ楼門。 【普門院において、元禄6年(1693)から13年まで掛かって建立されたもので、徳川光圀の命令によって元禄13年に長勝寺に移築されたものである】Wikipediaより
楼門の前に枝を伸ばすのは「染井吉野」。桜の季節なら、さぞかし見事な眺めでしょうね。

「大徳勢至菩薩」と刻まれた碑の側には、『勢至菩薩』が祀られる「勢至堂」

寺歴によれば【文治元年(1189)に『源頼朝』によって創建されたといわれており、江戸時代に『徳川光圀』が諸堂宇を修復し、妙心寺の253世住職をつとめた『大獄祖清和尚』を中興開山として迎えた。】
「本堂(仏殿)」の建立年代は不詳ですが、元禄年間(1688 - 1704)頃と推定。 方三間、一重、入母屋造、茅葺の建築で、昭和33年(1958)3月に茨城県有形文化財に指定されました。

棟上には源氏の定紋「笹りんどう」が配され、楼門同様、禅宗様建築の貴重な遺構とされています。

鐘楼にある銅鐘は、元徳2年(1330)の鋳造で、鎌倉幕府第14代執権である『北条高時』の寄進。銅鐘には、「客船夜泊常陸蘇城(かくせんやはくひたちのそじょう)」と記された銘文があります。

江戸時代後半に書かれた「潮来図誌」にも「潮来八景:長勝寺の鐘」が紹介されています。
【鐘の音や  残る雲なき 秋の暮れ 千秋 今は文化財保護の為、鐘は撞いていないそうです。

「中朱(ちゅうじゃく)門」の近くには、芭蕉の句を刻んだ「時雨塚」。

【たび人と  我名よばれむ はつしぐれ】(初時雨の季節、私はその時雨に濡れながら旅立ちをし、旅人と呼ばれる境涯に身を置こう)

「茶筅塚開眼香語」、傍らには「茶筅塚」が建立されていますが、碑文の漢語は・・・😔

中朱門の中の庫裡・書院等も元禄時代の建築で、これらも茨城県の文化財に指定されています。が・・この日は中で仏事が催されているらしく、卒塔婆を持った人たちが出入りをされていました。 庫裡には「常陸七福神:福禄寿」が祀られていたそうですが、そんな訳で参拝は遠慮しました。

境内の一画には、源頼朝創建の年号に因む「文治梅(ふんじばい)」とよばれる古木があります。「文治梅」の横には、文化十一年(1814)に建立された、俳人『伊能鳳後』の句碑。
【古野者那也(このはなや)曾毛加摩久良能(そもかまくらの)鐘乃銘(かねのめい)】

二度と来られないと思うから、あれもこれもと細かく探して画像に納めたつもりでしたが・・結局、最終的には取りこぼしが目立ち、特に芭蕉と俳友の三連句碑が無いのはショックでした。 そうそう、本堂脇に「潮来駅家(うまや)跡」碑があり、気にはなりましたが、特に確認もせず、結局そのまま😩

参拝日:2019年3月14日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神栖・あちこちウォッチ in 茨城県神栖市

2019年11月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・茨城県

神栖市のマンホール撮影のために立ち寄った「はさき生涯学習センター」ですが、駐車場の隣に「童子女(おとめ)の松原公園」なる看板を見つけたので、少しだけ、本当に少しだけ😅 観光してみることにしました。

公園内には、古代装束をまとった一組の男女の像が立ち、傍らには二人にまつわる伝説が書かれています。「男は「郎子(いらつこ)」、女は「嬢子(いらつめ)」、嬥歌(かがい)で出会った二人は一瞬で恋に落ちました。こっそりと集まりの席を抜け、親しく語り合う二人。ふと気がつけばすっかり夜は明けて、朝になっているではありませんか!! それを深く恥じた二人は、ともに松の木になり「奈美松」「木津松」と呼ばれるようになりました。」

う~~~~~~ん、何だか分かったような、分からないような😔 まぁ、伝説ですから😊 ちなみに伝説に登場する「嬥歌(かがい)」とは、今で言うところの「お見合いパーティ」みたいなものらしいです。 風土記は日本各地の伝承等が書かれた書物のことで、『元明天皇』の命によって八世紀に編纂されました。「常陸国風土記」に二人の話があるのかどうか不明ですが、銅像の二人は幸せそうに見えます。

訪問日:2014年5月18日

------------------------00----------------------

昭和50年から、昭和54年にかけて「週刊少年ジャンプ」に連載された「サーキットの狼」。私は殆ど読んだことがありませんが、親友のご主人が、毎週、愛読していたのを覚えています。

その作者である『池沢早人師(さとし)』の漫画家40周年を記念して開館した「サーキットの狼ミュージアム」。神栖市息栖にあるその施設は、土・日・祝日のみの開館だそうで、訪問時は閑散としていました。元々「サーキットの狼」には興味のない二人、一応こんな施設もあったと言う事で目的は達成😊

------------------------00----------------------

神栖市奥野谷にある「国指定重要文化財:山本家住宅」。茅葺屋根の豪壮な外観に引き寄せられて、塀の外から外観のみを見学させていただきました。

「山本家は鹿島灘に近い神之池畔にあって、網元をしていた漁家で、名主を勤めたこともある旧家です。住宅の建設年代ははっきりしませんが、手法より見て18世紀前半と考えられています。寄棟造・茅葺で、間口19.6メートル(10間余)・奥行き10.6メートル(約5間半)の南正面東寄りに突出部を付けた曲屋で、正面及び西側面が軒下の張り出したせがい造りになっています。突出部のある部分が土間で、奥の方には部屋が設けられています。」神栖市HPより

神栖市の案内では「外観は自由に見学することができます。」と書いてあったのですが・・・もしかして生垣の外から覗き見するこの状態が、自由に見学??

訪問日:2019年3月13日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神善寺(じんぜんじ) in 茨城県神栖市波崎

2019年11月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・茨城県

神栖市波崎に境内を構える、真言宗智山派「益田山:相応院神善寺(じんぜんじ)」。千葉県との県境近く、鹿島灘と利根川に挟まれた砂州状の地形に立地します。

鮮やかな丹塗りの堂宇は真言宗の寺院としては珍しい釈迦堂で、江戸時代中期の建築とされています。寺歴は古く、天喜4年(1056)、高野山から貞祐上人が十六善神の宝物をもって、現在の神栖市波崎舎利にて開山したと伝わります。

釈迦堂の向背には 鮮やかな色調の「龍」と、下は「波間をかける麒麟」・・??あれ?、麒麟って海も翔けたっけ?

涅槃像は檜材の寄木造で鎌倉時代の頃と思われ、おそらく中央仏師の作ではないかと云われます。格調高い仏像の筈ですが、前に積み上げられた座布団が・・・何と言うか・・しかも喉の位置ぴったりに蝋燭がおかれて😱、まるで・・・色々と残念感一杯😣

参道の正面にはコンクリート造りの本堂があり、「益田山」の扁額が架けられています。中をのぞかせて頂きましたが、暗くて良く見えません。

本堂前より境内を守護されているのは、ガチムチ系の、江戸流れの狛犬さん一対。 奉納は昭和11年(1936)10月、この年は千葉から船橋にかけて、沿岸部20kmが寒さで氷結したそうです。

色々と紹介しましたが、神善寺への参拝目的は「涅槃像」でも「狛犬さん」でもなく、境内で一際存在感を放つこの「大タブの木」

樹齢約千年余りといわれる「波崎の大タブ」。江戸時代の大火も、この大タブの木のおかげで難を逃れたと云われており、別名「火伏せの木」とも呼ばれます。茨木県内で最も大きく「県指定天然記念物」に指定されています。

根元の周囲には、何世代もに渡って奉納された沢山のお大師様が、大タブの木に向かって手を合わせておられます。その光景はとても不思議で、とても優しい・・・子供の頃の優しい時間を思い出せる情景です。

境内には、江戸時代末から明治時代にかけて活躍した『俳人:馬心』の句碑もあり、句碑好きの私には嬉しい偶然。【雁啼くや  出洲二ケ国の 入合地】【津出しする  馬荷の続く 枯野かな】

参拝日:2019年3月12日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

塚原卜伝を訪ねて in 茨城県鹿島市

2019年11月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・茨城県

延徳元年(1489)、鹿島新當流の創始者『塚原卜伝』は、この鹿島の地で誕生しました。 父祖伝来の鹿島古流に加えて「天真正伝香取神道流」を修め、鹿島新当流を開いた人物として、日本の剣聖史に名を残す人物です。

鹿島神宮に程近い場所、さして広くは無い広場の一画に「剣豪 塚原卜伝生誕之地」の幟と共に、彼の銅像が建立されています。

何時の時代に建立されたものか読み取れませんが、過ぎて来た年月を感じさせる「塚原卜伝顕彰古碑」

また、北茨城市出身の詩人『野口雨情』が、当地の宿に宿泊の折りに揮毫した歌碑もあります。

【三笠山にもつつじが咲いていて 赤き心もしげくなる】

【鹿島神宮の神官で大掾氏の一族・鹿島氏の四家老の一人である『卜部覚賢(吉川覚賢)』の次男として、常陸国鹿島(現・鹿嶋市宮中)に生まれた『塚原卜伝』。卜伝は号で、実家の本姓の「卜部(うらべ)」を由来とする。実父・覚賢からは鹿島古流(鹿島中古流とも)を、義父・安幹からは天真正伝香取神道流をそれぞれ学び、後に武者修行の旅に出、己の剣術に磨きをかけた】Wikipediaより

「鹿島史」によれば、『卜伝』は元亀2年(1571)2月11日に八十三歳で死去したとされています。 鹿嶋市須賀、のどかな田園地帯の一画に『塚原卜伝』の墓があると知りお参りに来ましたが、案内板はしっかり観光地風味😅

小高い丘陵の上の墓所までは、「塚原卜伝生誕500年記念」で整備された参道石段が続き、私の頼りない足元でも無事に上る事が出来ました。

かってこの須賀塚原の地には、塚原家の菩提寺「梅香寺」がありましたが火災によって焼失。案内板の前に並ぶ小さな「無縫塔(むほうとう)」は、梅香寺の僧侶たちの墓でしょうか?

今になお、剣聖と謳われる『塚原卜伝』ですが、その墓は決して大仰ではなく、むしろ拍子抜けするほど質素なものでした。ですが墓前には、まだ新しい花が手向けられています。墓前の賽銭箱がいささかの違和感を感じさせますが・・きっと墓の整備などに使われるのでしょう。

墓石には向かって右に「寶剣高珍居士(卜伝の戒名)」、左に妻「仁直妙宥大姉(妙の戒名)」が刻まれています。 この時代に連名の夫婦墓が珍しいのか普通なのか分かりませんが、心が温かくなりました。🙏🙏

『卜伝』とは無関係なのですが、北浦を望む四谷墓地の外れに「天狗党の墓」があると聞き、お参りしました。 江戸時代末期、攘夷を掲げて挙兵した天狗党は、一部が鹿島に結集し、幕府軍と抗争を開始。元治元年(1864)に幕府軍に捕えられ、23名が打ち首となり、馬捨て場に運ばれ埋葬されました。

時代が移り明治11年(1878)頃に、有志により「殉難諸士乃墓」碑が建立。 誰もが己の信じる正義の為に戦った・・その結果はどうであれ、私は有志の方々に哀悼の念を捧げます。立場は違えども、誰もがこの日本という国を、心底、大切に思って行動したのです。

数年前に訪ねた「白虎隊の墓」、そこに書かれた由来を読んだ時に感じた、あの時と同じ想いをここでも感じます。

話がそれてしまいましたが、鹿島神宮参道の「卜伝にぎわい広場」には、『卜伝』の顔だし看板があります。 多分に某局のドラマを意識したと思われる『塚原卜伝』と、卜伝の妹『真尋』の二人のようですね。

訪問日:2014年5月17日&2019年3月13日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

息栖(いきす)神社:東国三社~其の二 in 茨城県神栖市

2019年11月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・茨城県

昨日に続いて息栖神社の境内案内。境内の一画に鎮座される「四柱合祀社」には、「鹿島神社、伊邪那岐神社、高房神社、奥宮」「五柱合祀社」には「香取神社、手子后神社、八龍神社、江神社、若宮」が鎮座されます。

社殿近く、赤い玉垣の中には「力石」が二つ。右の力石は『笹川茂蔵』が力試しに使ったと云われ、「茂蔵の力石」とも伝えられています。

同じ玉垣の中には、形を失いつつある先代の狛犬さんが大切に保存されていました。 長い年月の間に少しずつ崩れ、やがていつか元の土塊に還る狛犬さんたち・・お疲れ様でした。

狛犬さんたちの後ろに『気吹戸主(いぶきとぬし)』を歌った芭蕉の句碑。【この里は  気吹戸主の 風寒し】(清浄の神の神域に身を浸していると、体を風が吹き抜け、透き通って寒くなるくらいだ)

由緒には、江戸時代の「息栖神社」の御祭神は『気吹戸主神』であったと記されています。「「黄泉の国」から戻った『伊耶那岐尊』は、筑紫日向の橋の「小門(おど)」で、身体を洗い、罪や穢れを、すっかりそそぎ落し、浄め流した。その流れの中から生まれたのが「息栖神社」の御祭神『気吹戸主』で、清浄化・生々発展・蘇生回復の神である。」それを踏まえて、改めて芭蕉の句を読み直すと、その情景が鮮やかに浮かんでくるようです。

境内を出る前に見かけた碑、おそらく誰かの顕著碑、もしくは頌徳碑でしょう。

車に戻るときに出会った沢山の猫たち、きっと地域猫としてここで生きているのでしょう。無責任とか迷惑とか・・色々と非難の声があることは百も承知ですが、猫好きの私にとってこうした場に出会えると、神社にも地域にもとても愛着を感じます。命をつないで下さった方々・・「ありがとうございます!!」🙏

「息栖神社・鹿島神宮・香取神宮の三社は、葦原中国平定(=国譲り)の際に地上に遣わされたとされる神様をそれぞれ祀っています。『古事記』においては建御雷神の副使として天乃鳥船神が遣わされました。また『日本書紀』においては建御雷神と経津主神が遣わされ、久那斗神がその先導にあたったとされています。建御雷神(武甕槌大神)は鹿島神宮の御祭神、経津主神は香取神宮の御祭神として祀られており、息栖神社では久那斗神を主神、天乃鳥船神を相殿神として祀っています。」公式HPより

参拝日:2014年5月17日&2019年3月13日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする