車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

富具(ふぐ) 神社 in 愛知県美浜町野間

2016年09月30日 10時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

美浜町野間冨具崎に鎮座される「富具(ふぐ) 神社」。御祭神は『志那津比古命(しなつひこのみこと)・志那津比賣命(しなつひめのみこと)』。日本書紀の神産みの項には「伊邪那美神が朝霧を吹き払った息から級長津彦命(しなつひこのみこと)という神が生まれ、これは風の神である」と記述されています。画像はありませんが境内由緒に「伊勢の海の鎮護の神様として風と潮流との災厄を軽少ならしめる様に念願してお祭りしたと伝えられている」とあります。

東参道入り口に建つ伊勢鳥居を潜りまっすぐに進むと、奉納石灯籠と長い石段参道が見えてきました。

その石段参道両脇より神域を守護されるのは、嘉永元年(1848)戊申5月吉日建立の出雲丹後系の狛犬さん一対。前足と後ろ足の間に綺麗に巻き込まれた尾がこの上なくお行儀良く、出自の良さを示しています。

真正面から見る鼻が・・・・・秀逸過ぎて疲れを忘れさせてくれます(笑)

「旧野間町( 現:愛知県知多郡美浜町野間)の総鎮守様、総氏神様。創建は不明ですが、現存する棟札に、「奉造立風宮大明神御社一宇永正年(西暦1509)巳巳」とあり、当時の村の城主である緒川氏が再建しました。毎年秋には、10月のふぐ漁解禁を前に、ふぐ供養が行われます。」愛知県公式観光ガイドより

社殿の画像が一切無いのは、長く続く石段参道の所為(^^;) 。とてもとても、あの石段を上る元気も脚力も、今はほんの欠片もありません(笑) 北参道からなら車で行けそうじゃないかと言われそうですが、入り口には鎖が張られており、こちらも徒歩での参拝用と思われます。そしてこの坂道を歩く・・以下同文(笑)

北参道入り口より神域を守護されるのは、天保3年(1832)壬辰5月建立の狛犬さん一対。故郷:岡山県の神社によく見かけるタイプなので、参道の石段同様、千石船で運ばれてきたのかもしれません。きりりと端正なお顔立ちが貴公子ぜんとして好きなタイプの一つです。

草むらから私たちを見上げる鮮やかな黄色

境内まで行かなかったので画像はこれだけ(^^;) ああそうそう、この神社に辿り着く手前でとても面白いものを見つけました。屋根の上に黒い小さな何かがいるのが見えるでしょうか?

全く動く気配が無いのでご亭主殿に進言し、車を停めてズームで確認したところ・・・何と鍾馗様が!!

神社の紹介画像が少ないので、穴埋め代わりに東参道の伊勢鳥居についての一言メモを。まず伊勢鳥居の特徴として「笠木」が五角形であること。またその端は斜めに切る「襷(たすき)落とし」という手法である事があげられます。単に鳥居と紹介しますが、ちょっと視点を変えると、また違った面白さに出会えるかもしれません(画像:二見ヶ浦の伊勢鳥居)

参拝日:2011年9月25日

 

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恋之水(こいのみず)神社 in 愛知県美浜町奥田中

2016年09月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

美浜町奥田中白沢に鎮座される「恋之水(こいのみず)神社」。御祭神は『美都波能女命(みとはのめのみこと)』

境内由来記には「神代の頃 大巳貴命  少名彦命国造のとき少名彦命が病気になり大巳貴命が一刻も早く全快するよう祈願したところ 雷光とともに美都波能女命あらわれ この地の水を与えれば病も癒いたと告げ 以後万病の特効薬と称されている。後に聖武天皇の妻や弁恭天皇の病もこの水により治ったと伝えられている。即ち恋の水神社には美都波能女命が奉ってある。また一説には、桜町成範大納言の息女桜姫が家臣青町と恋仲 山城国愛宕郡北山村に隠れ住んでいた時 青町が発斑の重症にかかり建久二年七月十七日 この地 水を汲みに訪れその所在を土地のものに問えば 戯れて「今まで来たくらい東の方」と答えた為 桜姫は落胆のあまり遂にこの地に倒れてしまった これより恋の水神社とも言われる」

参道途中に「桜姫」の碑

境内に湧く清水「恋の水」を酌んで紙コップに願いを書くと、その願いが叶えられるとか。

神前には沢山の紙コップが並んでいます。紙コップの数だけの願いがここで静かに成就の時を待っているのです。

「大矢政之助 たゑ子神霊」と刻まれた碑。

最後の「之神霊」以外は読み取れず。その横の文字も・・以下同文(^^;)

「家庭和合~」で始まる碑・・・たぶん歌碑だと思うのですが・・上に同じく読み取れません(^^;)

小さな神社ですが「恋が叶うスポット」として人気らしく、鳥居の近くには専用の駐車スペースが設けられています。

参拝日:2011年9月25日

 

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ご当地マンホール in 愛知県美浜町

2016年09月28日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛知県

知多郡美浜町(みはまちょう)は三河湾国定公園の一画、知多半島の南部に位置する町です。町名は、海に面しており、美しい砂浜が見えることに由来する瑞祥地名。美浜町HPには「三河湾国定公園として指定されている美しい自然が広がり、温暖な気候、海水浴場として利用されている白砂の浜辺、天然記念物「鵜の山鵜繁殖地」、源平合戦の歴史を物語る史跡「大御堂寺」、東海地方最古の霊場「時志観音」、本町小野浦出身の音吉、久吉、岩吉の3人の船乗りが、1年余り漂流の後、米国に漂着し、その後英国人に助けられ、聖書和訳に協力したことを称えた「和訳聖書発祥の碑」など多数の観光資源があり、四季を通じて訪れる観光客で活況を呈しています。」と紹介されています。

キャッチフレーズは「ひと・まち・自然 健康に輝く」

1889年(明治22年)、町村制の施行により知多郡河和(こうわ)村、布土(ふっと)村、豊丘村、奥田村、野間村、大谷村、坂井村、上野間村、小鈴谷村が発足。

1903年、河和村が町制を施行、河和町となる。

1906年、河和町、布土村、豊丘村古布・矢梨・切山地区と合併、改めて河和町となる。奥田村、野間村が合併、改めて野間村となる。小鈴谷村、大谷村、坂井村、上野間村が合併、改めて小鈴谷村となる。

1942年、野間村が町制を施行、野間町となる。

1952年、小鈴谷村が町制を施行、小鈴谷町となる。

1955年、河和町、野間町が合併して知多郡美浜町となる。

1957年、小鈴谷町大字上野間を合併、現在に至ります。

マンホールには、群れ飛ぶカモメを背景に、野間崎に立つ「野間埼灯台」がデザインされています。

「野間埼灯台」

もう一種には、町章を中心に「野間埼灯台と鵜ノ山の鵜」、「町の木:クロマツ」、「町の花:ツツジ」がデザインされています。

昭和36年12月25日制定の町章は「本町は、河和町・野間町・小鈴谷町の上野間地区が合併して、美浜町となりました。この3町の統合とカタカナのハとマの組み合わせによりミハマを表し、がっちりしたスクラムと躍進を象徴しています。」公式HPより

自治体名:章の無い「農水:空気弁」

水資源開発公団(現:水資源機構)通信用マンホール

撮影日:2011年9月25日

美浜町の観光PRキャラクター『のまっキー』。 県内最古の「野間埼灯台」と「かもめ」をモチーフとして誕生しました。南京錠のポシェットをさげ、手には鍵。特技は恋を叶えるお手伝いです。(画像提供・友人Hさん)

 

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旧大濱警察署 in 愛知県碧南市錦町

2016年09月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

激しさを増す風雨の中に佇む「旧大濱警察署」。もはや開き直ってしまった二人、歴史ある建物はどんな状況下にあっても素敵です。が・・吹き付ける雨のしずくで画像としては非常に難あり(ーー゛);

「大正13年(1924)から昭和23年(1948)まで当時の大浜町・新川町・棚尾町・高浜町・旭村・明治村の6町村を管轄していた大浜警察署の建物。 この建物はもと安城警察署大浜分署の木造庁舎老朽化に伴い鉄筋コンクリート造で建て替えられたものです。警察の機構が変わり愛知県碧南警察署が発足してからも昭和36年(1961)までの37年間、西三河南部の安全と治安を守ってきました。 」碧南市HPより

吹き付ける風雨の中、大切なデジカメを濡らすわけにもいかず、このまま車中で指を咥えているだけかと心折れかけたその時、何と!あれほどフロントガラスの視界を遮っていた雨が、雨が止んだ?!

日頃の行いが良かったのはどっち?なんて、そんなくだらない事を言ってる場合ではない(笑) この僥倖を逃したら絶対に後々まで後悔する。

できるだけ色んな角度から。あ、反対側からも。そうだ、建物の下部分も。こんな具合で、まるでコマ鼠のようにクルクルと大忙し(笑)

玄関の壁に嵌めこまれていた「大濱警察署」の表札。特徴的な八角形の塔屋、これって上まで登る事が出来るのかしら? とりあえず現状の玄関ドアは固く閉ざされています(-"-)

建物の横手に周辺地図。その横にどなたかの車・・・どうやらここが駐車スペースのようですが、どこから入ればよいのか分からないので、ご亭主殿はそのまま路肩に停車して待機。

建物の近くにあった「湊橋」の旧遺構。折角見つけたものなので、デジカメに納めておかなくては!

「湊橋」、左奥の碑は読めない・・・・。「明治三十八年」・後方に「湊橋」の遺構。

またぞろ暗くなり始めた空の色に慌てて引き返し、御亭主殿が側に来てくれるのを待ちます。ああ、たとえ外観だけとはいえ、一応見て回る事が出来ました。とりあえずお天道様に感謝。

訪問日:2011年9月20日

 

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九重みりん時代館 in 愛知県碧南市浜寺町

2016年09月26日 08時00分00秒 | 日本の伝統・芸能・技の美

昨日に続いての施設見学は碧南市浜寺にある「九重みりん時代館」。ここには、三河みりん及び九重味淋の祖・石川家に伝わる古い道具や古文書が展示されているとの事で、楽しみにしていたのですが・・・例によって例の予約を(ーー゛);

こちらは「九重味淋株式会社」が見学を許可するもので、となれば、当然前もっての連絡が必要です。今更ながら、どうしてもこうも下調べを充分にしておかなかったのか・・反省しきりの二人。ありがたいことに、こちらでも「こんな雨の中をわざわざに・・」という事で、見学を許可されました。(この日以来我が家の味醂は、九重味醂に変更されたのは言うまでもありません。)

「三河みりんの醸造を最初に始めたのは、三河國大濱村(現:碧南市)で廻船問屋を営んでいた石川八郎右衛門信敦。九重味淋の創始者となった人物です。信敦は、廻船問屋として全国各地から仕入れた情報から、三河地方が本みりん醸造に適していると考え、安永元年(1772)に碧南の地で初めて味醂をつくり始めました。そうして作った味醂を自分の船に積み込み、江戸の新川へ水路で運んでいったのです。この本味醂に注目したのが、当時繁盛していた鰻屋や蕎麦屋です。調味料として使い、その品質の高さを評して「三河味醂」と呼び、親しまれるようになったといいます。」公式ホームページより

係りの方の案内で入り口にある階段を上った先が、みりんの専門博物館「九重みりん時代館」。長い年月、味醂づくりの為に頑張ってきた道具たちが静かに私たちを出迎えてくれます。

明治の頃に使われていた足踏み式精米機。

「時代館」の壁に掛けられた賞状の数々

明治33年(1900)の「パリ万博」に出品した際の受賞額。この当時の日本の企業が、西洋の万博で賞を取った・・・きっと大ニュースだった事でしょう。美しいデザインの賞状の中に書き込まれた「JAPAN」の文字、思わず頬が緩みます。

ケースの中に納められた数々のメダル

歴代の味醂のラベルや当時の世相を反映したパンフレットの数々。元々、商業デザイン、特に昭和の時代までのラベル類が大好きな二人には、垂涎物です(^^;)

延享三年十月 初めて「みりん」の文字が登場した際の、石川家古文書。

展示室の真ん中に展示されている「和漢三才圖會(わかんさんさいずえ)」は、正徳2年(1712)頃に出版されたといわれる日本の百科事典。中国の「三才図会」を手本とし、和漢古今に渡る事象を天文、土地、山水など105部門に分けて記されています。

ケースの中には沢山の古文書が・・

個人的に一番のお気に入りは、この重厚な看板二種

派手ではありませんが、歴史を感じさせる看板も捨てがたい。

時代館の中に展示されている道具の使い道を尋ねれば、実際に使われていた使い方を実演してくれます。何もかも物珍しく、心惹かれる道具の数々、来られて良かった!!心からそう思いました。

時代館の見学が一通り終わったら、味醂醸造の工場内の案内もしてくださいました。

宝永3年(1706年)に建築され、天明8年(1788年)に移築された黒塗総下見板張の土蔵造りの大蔵。蔵のタンクは、床から少し浮かせた状態で置き、上部には木の蓋をかぶせています。地面の温度から直接影響を受けないように底上げし、みりんが呼吸できるよう、木製のふたを使っているのです。巨大なタンクの中で、じっくりと醸造されてゆく味醂・・・出荷の時まで静かに眠っています。

昭和23年(1948)には『三笠宮殿下』が、また2000年には『秋篠宮同妃両殿下』が御視察された由。もしかして今私が見ているものと同じものをご覧になられたのかと思うと、感動さえ覚えます。

見学を終えて記念に写していただいた一枚。ヘアーキャップを着けたままなのは、工場見学をしたと云う証のようなもの(〃∇〃)

味醂館を後にした私たちを追い立てるようにまたしても雨が・・・今はまだ小雨の状態なので、ほんの少しだけ周囲を散策することに。

しっとりと雨に濡れた白漆喰と黒板塀のコントラストは、これ以上ないほど日本的で美しい。長い歴史によって受け継がれてきた最高の技術が、今もこの中で作り続けられている事に感動さえ覚えます。

本当は「大蔵」も含めて、この一帯をゆっくりと歩いてみたかったのだけど・・・そんなに遠い場所ではないのだから、またいつかチャンスがあるかもしれないよ。・・・・又いつか、うん、きっとまたね。

訪問日:2011年9月20日

 

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「日本の美味しい」を見学 in 愛知県碧南市

2016年09月25日 08時00分00秒 | 日本の伝統・芸能・技の美

碧南市の伝統産業の一つである「醸造」。その主たるメーカーのHPにはどこも工場見学歓迎と記載があります。伝統の技で受け継がれてきた日本の味、それがどのように生み出されるのか・・これは是非とも見たいと思っていた工場見学。こんな雨の日ですが、工場見学なら屋内だろうし、何となく雨も小降りになってきた気がするし・・・で、最初に訪問させていただいたのは、白醤油の「ヤマシン醸造株式会社」

創業は1802年の江戸時代。醤油、味醂、白醤油の製造がはじまり、1933年、全国に先駆けて白醤油の種麹による製糀をはじめた事がHPに記載されています。

事務所らしき建物の前でおとないをして・・そうしてその時初めて、実は物凄く失礼な勘違いをしていた事に気がつきました(_ _。)・・・。工場見学には前もって連絡が必要である事くらい・・・普通に考えれば分りきった事です。HP上の要予約を確認せず、いつでも見せていただけると思い込んでいた自分たちの何と無知であった事。それなのに、雨の中をわざわざ来てくれたのだからと、人を付けて見学を許可して下さった事。本当に、舞い上がるほど嬉しくて何度も何度も頭を下げていました。

見学の前に、不織布で出来たヘアーカバーと工場のパンフレットを頂きます。当然の事ですが、食品を扱う工場見学に男女とも、ヘアーカバーは必須!(どんなにお高い身分であっても常識として必須。そんな事に考えが至らないお偉い人が・・実はいるんですよね(-"-))

余談はさておき、担当してくださったのはお若い男性の方。素人の質問にもきちんと分りやすく答えて下さいます。そうして実際の製造過程を丁寧に説明していただき、興味深い写真撮影もさせて頂きました。

熟成中の醤油が眠る大樽、積み重ねられた醤油独特の香りが建物全体を包み込んでいます。

一つ一つ、本当に丁寧に説明をして下さいました。

ゆっくりと熟成される醤油たち、今はこの大樽の中で静かにその時を待っています。

新鮮な素材の色味を生かしたまま、おいしい料理を楽しむことができる白醤油。プラスチック製のタンクに詰められているのは業務用の白醤油だそうです。

今回の工場見学で初めて知った「白しょうゆ」の存在。買い求めた一本を使い切る頃には、薄口醤油には無い優しい美味しさと、素材を大事にする色合いにすっかり魅せられました。「これでおだい(大根)を炊くと、とっても美味しいのよ」と話して下さった奥様の優しいお声、今も覚えています。

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続いて訪問したのは「七福醸造株式会社」の施設の一つ「ありがとうの里」。こちらはネットで調べておいた碧南観光コースにあったので、企業博物館みたいな場所かなと・・・それならこの雨の中でも過ごせるかもと思って現地に来たのですが、どうみても工場に見えます。となればここも事前予約が必要だったらどうしよう。小降りになっていた雨は唐突に暴風雨の様相で、移動するにも身動きできず・・敷地内に車を停めて思案していた私たちでしたが、通りかかった関係者の方のご好意に助けられて、工場見学と更に試食会までさせて頂けました。大雨の為外観の画像が無いのが残念です。

まずは「ありがとうの里」の理念と、その取り組みを資料を見ながら説明していただきます。

「ありがとうと声をかけ続ければ、素材はその言葉に応えてくれます。」そう言って見せてくれた二つのビーカー。ありがとうと声をかけつづけたビーカーの大豆と、何にも声かけをしなかったビーカーの大豆には、まるでマジックでも見せられているみたいに、明らかな違いが見られました。「ほんの5文字の短い言葉ですが、日々の暮らしの中で一番大切な言葉なんです。」私たちを案内してくれた若い男性の方は、とても優しそうにそう話してくれました。

「ありがとうの里」の設備は、全てが見学用なのでヘアーカバーは不要との事。案内された一箇所で、ほぼ全ての行程を見ることができます。見学の間、終始登場する「ありがとう」の言葉。じつはこちらの商品すべてにその理念が生かされています。台風が近づいている所為で外は土砂降りの雨になっていましたが、終始にこやかに説明をして下さる係りの方。

係りの方が手に持っているのは原料の有機小麦と大豆、ちなみにこの有機小麦ですが、普通の小麦の四倍以上のお値段だそうです。

こんな風に、一つ一つの工程をとても丁寧に説明して下さいます。

タンクに赤く大きな文字で書かれた「ありがとう」が、とても印象的でした。

見学が終わったら商品を使っての試食タイム。いきなりの訪問にもかかわらず、本当に恐縮です。で、こちらで実際に試食させていただいた湯豆腐のポン酢。本当に!!美味しくて自分専用に購入(*^^*)

最期にお料理を担当して下さった方を間に記念撮影。施設見学を担当して下さった方、最期まで有難うございました。

【「ありがとう」とは、有(あり)難(がた)いこと。決して普通でも当たり前でもない事に対する感謝の言葉。それは日本の漢字だけが持つ独特の意味なのです。】・・はるか昔の学生時代、とても好きだった国語の教師が放課後に話してくれた言葉を改めて思い出しました。

訪問日:2011年9月20日

 

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神明社 in 愛知県碧南市丸山

2016年09月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

碧南市丸山に鎮座される「神明社」、御祭神は『大日孁貴命(天照大神)』。

境内社誌には「寛政十三年酉年創建 昭和弐十年村社認定 上之宮末社権現社領の内那智姫神神明(此の神明は村神と有り)寛政拾年参酉年紀元壱千四百六拾年 字道場山御朱印地内へ引っ越し勧請 祭礼は陰暦八月拾日」と刻まれています。

鬱蒼とした緑に包まれた御本殿、巨人でない身では拝見は叶いません。

拝殿前左右より神域を守護されるのは岡崎型狛犬さん一対。それほど古い奉納とは思えませんが建立年は不明です。

拝殿彫刻は波頭を翔ける龍

向拝彫刻の上には大きな鯛を捕まえた恵比寿伸と、大きな袋を肩に下げた大国様の彫刻。

多分この太鼓腹から想像するに布袋様と、巻物を広げる福禄寿。

鹿と仲良く戯れているのは寿老人

鎧姿の毘沙門天と、後方に衣の裾をなびかせる弁財天。

境内社:津島社(迦具土神)、境内社:秋葉社(須佐之男命)、境内社:稲荷社(保食神)

境内社:津島社

津島社の拝殿前より神域を守護されるのは常滑焼と思われる狛犬さん一対。何故かこちらの神社はネット上にも資料が無く、殆どが推測の域を出ません。

焼物の狛犬さんは格別とうそぶくご亭主殿に免じて(笑)別の角度から。

手水舎の屋根にいた波頭を駆け上がる鯉の飾り瓦。鯉は千尋の滝を駆け上って龍となるそうです。

参拝日:2011年9月20日

 

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秋葉社 in 愛知県碧南市松江町

2016年09月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県碧南市松江町に鎮座される「秋葉社」。御祭神は『火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)』。

画像でもわかるように、境内は水浸し状態。普通の雨ならここまで酷くはないのですが・・実はこの日は台風直撃の予報が出ていて(^^;) 台風が近づいているというのに、神社参拝なんてどうなんだと思いつつ・・・・・でもここまで来てるのに次があるかは分からないし、明日はもっとひどくなりそうだし・・と、あれこれ逡巡しながら結局参拝してる二人(笑)

最近の奉納と思われる手水の吐水獅子。一般的には吐水龍が多いのですが、ここではコロコロと太った獅子がお役目を果たしてくれます。

境内に由緒等の類は無く詳細は不明。もしかしたらどこかにあったかもしれませんが、この雨で拝殿の戸もしっかりと閉じられています。

拝殿前左右より神域を守護されるのは岡崎現在型の狛犬さん一対。こうやって並べると、まるで睨み合って喧嘩でもしている見えるから不思議(笑)

御神紋は、火防の霊験で知られる秋葉権現と同じ「羽団扇紋」。天狗の三尺坊と同一視される火伏の神「秋葉権現」は天狗の羽団扇をあおぎ、水の神を呼ぶと伝えられています。

さて!雨にも負けず台風にも負けずに参拝したのには、実はどうしても外せない狛犬さんに逢う為!お目当ての狛犬さんは「境内摂社:稲荷社」を守護される「釉薬をかけて焼き上げた瓦材の狛犬さん」一対。

それほど大きな狛犬さんではありませんが神殿狛犬の特徴を備えており何とも表情豊かに参拝者を出迎えてくれます。

ちなみに横向きで並べると、絶対に何らかの「セリフ」が浮かんでくるのは、私だけでは無い筈(笑)  上から目線の吽形さん。目を合わすことなく小声で云い訳を述べ続ける阿形さん・・・。二体の間に何があったのか、それは読者様のご想像にお任せ。

阿吽のやり取りに静かに耳を傾ける神狐さん。欠けてしまった前足が痛々しく見えますが、その表情はこれ以上ない程穏やかで優しいのです。

ちなみに『火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)』は、伊邪那岐命と伊邪那美命の間に生まれた火の神。出産時に火傷を負った伊邪那美はそれがもとで死んでしまいます。怒った伊邪那岐は「天之尾羽張(あめのおはばり)」と呼ばれる十拳剣で首を落とし殺してしまいした。・・・神話なので異議は唱えられないのですが、生まれてすぐに親殺しの罪を負わされ、その上父神の手で殺されるなんて・・・。火之迦具土神が気の毒すぎ!と言ったら、御亭主殿に「でもきちんと神様になって祀られてるし」と軽くいなされました(-"-)。

参拝日:2011年9月20日

 

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ご当地マンホールとマンホールカード in 愛知県碧南市

2016年09月22日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛知県

碧南市(へきなんし)は愛知県の西三河に位置する市です。安城市、高浜市、西尾市、半田市、知多郡武豊町に隣接。北は油ケ淵、東は矢作川、西・南は衣浦港と、周囲を水に囲まれ、地形的には標高約10メートル強の碧海台地と矢作川沖積地からなる平坦地です。市名は、碧海郡の南部にあったことが由来、古くは大浜郷と呼ばれ、海上交通の要衝として栄えてきました。衣浦臨海工業地域の中核都市であり、自動車、金属、食品など様々な業種の企業があり、また伝統的な産業として、みりんや白醤油などの醸造業も盛んです。「市の木:カシ」「市の花:花菖蒲」を制定。

キャッチフレーズは「新たな力とともに創る 笑顔と元気のみなとまち へきなん」

1889年(明治22年)、碧海郡大浜町・北大浜村・志貴崎村・伏見屋村・鷲塚村・棚尾村が発足。

1892年、北大浜村が町制を施行、改称し碧海郡新川町となる。

1906年、志貴崎村、伏見屋村、鷲塚村が合併、碧海郡旭村が発足。

1924年、棚尾村が町制を施行、碧海郡棚尾町が発足。

1948年、碧海郡大浜町、新川町、棚尾町、旭村が合併、市制を施行し碧南市となる。

1955年、碧海郡明治村大字西端を編入。

マンホールには市章を中心に「市の花:花菖蒲」と「カモメ」が描かれています。

昭和23年制定の市章は「旧4か町村の連帯と、碧南の「ヘキ」の文字を図案化」公式HPより

消火栓

防火水槽

仕切弁

代・仕切弁

代・泥吐弁

花菖蒲がデザインされた側溝蓋、油ヶ渕遊園地・応仁寺の境内一帯では毎年「花菖蒲まつり」が開催されます。

路上の観光タイル

大浜寺町マスコットキャラクターはお寺と港と黒塀に囲まれた昔懐かしい町並み大浜で生まれた『てらまち小僧』。小僧に頭をなでられると頭がよくなる!?小僧と写真を撮ると小顔効果あり!?・・・だそうです(笑)

撮影日:2011年9月20日&2018年12月20日

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2018年12月14日、第9弾として全国60自治体で60種類(累計407自治体478種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「碧南市」のマンホールカードは、「【平日】碧南市役所下水道課 【火曜日から日曜日、祝日】碧南市藤井達吉現代美術館」でいただけます。

2018年に設置開始されたマンホールには「市章」と「ハナショウブ」「カモメ」がデザインされています。

「当市のマンホールの蓋のデザインは、平成元年度より公共下水道を本格的に着手するにあたり、”碧南市のイメージにあう”マンホールの蓋のデザインを昭和63年に市内の小学生4年生以上及び中学生を対象に募集し、応募総数298点の中から選ばれた作品を基に、マンホールの蓋として使用できるように一部デザインを専門家に修正してもらい作成されたものです。 このデザインは、中央に市章を配し、そのまわりに市の花「ハナショウブ」と「カモメ」を描き”海へのひろがりと自然との調和ある都市碧南市”のイメージを図案化したものとなっております。」

訪問日:2018年12月20日

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無量寿寺(むりょうじゅじ)・日吉山王社 in 愛知県知立市

2016年09月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛知県

愛知県知立市八橋町に境内を構える臨済宗妙心寺派寺院「八橋山(やつはしさん)無量寿寺(むりょうじゅじ)」『聖観音(しょうかんのん)』を本尊とする、三河新四国八十八ヶ所霊場第四番札所。

寺伝によれば「慶雲元年(704)に 慶雲寺として創建。 弘仁12年(822)に 密円が現在地に移転させ、真言宗の無量寿寺として整備したとされる。 文化9年(1812)に八橋売茶翁(方巌売茶翁(ほうがん ばいさおう))により再建が行われ、同時に杜若庭園も完成。 大正2年(1913)に 本堂を焼失するも 大正6年に再興。」

知立市指定文化財「杜若姫供養塔」は、小野篁の娘『杜若姫』の為に建立された物と伝えられています。恋しい『在原業平』を追ってはるばる都より訪ね来た『杜若姫』。けれど重なる行き違いに願いは叶わず、悲嘆のあまり自らの命を絶ってしまった『杜若姫』。今は愛しい人の側に寄り添っておいででしょうか。

そんな悲しい姫の心を慰める為なのか・・・伸びやかな緑の一塊は「ひともとすすき」。このすすきの葉を片手で結ぶと願い事が叶うとされ「縁結びのすすき」とも言われています。

供養塔と並んで建立されている「祖風翁之墓」と刻まれた円筒形の碑。説明には「祖風翁の句碑」とあり、遺章【 かきつばた 夏もむかしの なつならず 】 祖風没後二年の文化八年(1811)に門人らによって経巻形式で建てられた旨が記されています。

知立市指定文化財「亀甲碑(八橋古碑)」『荻生徂徠(おぎゅうそらい)』の弟子が在原業平の逸話を書き付けたもの。ちなみに書き付けられた碑文をその場で一息に読むと・・・亀が動くという伝説があります。

ご亭主殿が気張って挑戦しましたが・・・亀はピクリとも動きませんでした(笑)

知立市指定文化財「芭蕉連句碑」。安永6年(1777)に『松尾芭蕉』が立ち寄った際に詠んだ句を『下郷学海』が建立。 かきつばた 我に発句の おもひあり 】

「業平の井 業平公御茶の水を御くみの井戸」、業平さんがお茶を飲むのに水を汲んだとされる井戸。

業平が八幡のこの辺りに来たとき、金魚の尾に似た椿の葉を見つけ「万葉椿」とよんだとか。その後、村人たちはこの花を「業平万葉椿」と呼ぶようになったと伝えられる樹齢500年以上の「業平椿」

文政年間に紀州大納言から贈られた「辻灯篭」。右の台石は、この上に茶道具を乗せ青空の下で煎茶を楽しんだと伝える「玉川卓」

『鶴田卓池』句碑。【 鳩の啼 樹ははるかなり 杜若  】

江戸時代末期に『方巌売茶』が整備したという「杜若庭園」。心地池に影を落とすのは枯れ色のススキだけ。生憎と9月・12月の参拝ではカキツバタの美しい姿を愛でる事は叶いません。

「無量寿寺」の向って左手に、『大山昨命』を御祭神とする「日吉山王社」が鎮座されます。

寺伝によれば「無量寺の創建に際し、山門鎮護の神として慶雲元年(704)に日吉山王宮より勧請したと伝えられる。」

拝殿前より神域を守護されるのは、岡崎型狛犬さん一対。背伸びして親狛の手をつかもうとする仔狛の仕草はとりあえず可愛い (^▽^)

拝殿右手の境内社

阿吽ともに表情がユニークな留め蓋瓦の獅子一対。

約13,000㎡、16の池(5,000㎡)に約3万本のカキツバタが植えられている「八橋かきつばた園」。毎年、かきつばたが咲きそろう五月には「史跡八橋かきつばたまつり」が開催されます。かって八橋のこの一帯は、伊勢物語の昔から知られる、かきつばたの名勝地だったとか・・平安歌人『在原業平』が、句頭に「か・き・つ・ば・た」の五文字をいれて詠んだ句は今も有名ですね。
【 からころも  きつつなれにし つましあれば  はるばるきぬる たびをしぞおもふ 】

参拝日:2011年9月18日&2015年12月

 

コメント (2)
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