車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

徳島県鳴門市のマンホールカード

2020年08月31日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・徳島県

2017年4月3日、第四弾として全国42自治体で50種類(累計146自治体170種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。
「鳴門市」のマンホールカードは、「鳴門市役所下水道課(共済会館1F)」で平日のみ、いただけます。

2002年に設置開始されたマンホールには、「大鳴門橋と渦潮」と「鯛」と「梨」がデザインされています。

【鳴門市のマンホール蓋は、公募で選ばれた市内の中学生の案をもとに作成しました。 図柄の上部には、四国の玄関口である鳴門と淡路島をつなぐ「大鳴門橋」をシンプルに表現。 船が行きかう「鳴門海峡」をブルーで描写し、その左下から右中央部へかけて、世界最大級を誇る「渦潮」をなめらかな曲線で描き出しました。 また、中央にあしらった名産「梨」の隣に、鳴門海峡の急流にもまれ、適度な脂の乗りと引きしまった身が一級品と評判の「鯛」をデザインしています。 鳴門の渦潮は、時に直径が30mに達するなど、その迫力は一見の価値あり。 是非、本カードの絵と見比べてみてください。】

座標軸マンホール

鳴門市役所下水道課の展示マンホール

マンホール所在地マップ

訪問日:2018年6月19日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホール とマンホールカード in 徳島県

2020年08月30日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・徳島県

徳島県(とくしまけん)は四国の東部に位置する県です。東は紀伊水道に面し、北は香川県、南は高知県、西は愛媛県に隣接。徳島平野と那賀川平野を除いては全体的に山地の多い地形で、特に徳島平野以南に峙える四国山地は西日本でも有数の険しい山岳地帯であり、県総面積の約75%を森林が占めています。反面、吉野川や那賀川、四国山地、讃岐山脈、紀伊水道をはじめとする自然が多く残っており、鳴門の渦潮や祖谷渓、大歩危・小歩危、阿波土柱などの観光資源や、江戸時代より約400年の伝統がある阿波踊りなどの文化を有しています。県庁所在地は徳島市で、8市8郡15町(ちょう)1村(そん)を有します。「県の木:山桃」「県の花:すだちの花」「県の鳥:白鷺」「県の色:藍色」を制定。

キャッチフレーズは「「オンリーワン徳島」の実現」

明治4年(1871)、 廃藩置県により、徳島県(旧徳島藩の阿波国・淡路国)が設置。同年12月、名東県(みょうどうけん)に改名。

1873年、香川県(旧讃岐国)が名東県に編入。

1875年、香川県が名東県から分離独立。

1876年、名東県は分割されて廃止。淡路島は兵庫県に、旧阿波国は高知県に編入。

1880年、旧阿波国が高知県から分離独立、現在の徳島県となりました。

マンホールには、県章を中心に「あゆ・あめご・てながえび・しおまねき」がデザインされています。

昭和41年(1966)3月制定の県章は「「とくしま」の「とく」を図案化し飛鳥としたもので、融和、団結、雄飛、発展の県勢を簡明に表現しています。」HPより

飯尾川・あまさじ橋の親柱には「県の木:ヤマモモ」と「県の鳥 :シラサギ」。

新町川・新町橋には「県の花:すだちの花」の鮮やかなカラープレート。

東四国国体で、県のマスコットとしてデビューした『すだちくん』。2015年からは「とくしま創生サポーター」として、2017年からは「お接待文化」の伝道師「COO(Chief Offer Osettai:お接待提供主任者)」として、活躍しています。

徳島県警シンボルマスコット『うずしお君』。「太陽が警察官の制帽を着用しているもので、太陽は万物に光とエネルギーを与えることから、南国徳島県における公平無私にして強く、明るく、親切な警察を象徴し、帽章部分に豪快なうず潮を配して、警察の果敢な執行力を付加しています。」公式HPより

(一財)徳島県観光協会PRキャラクター『花れんちゃん』。花の妖精だそうです。

撮影日:2013年3月16日&2018年12月15日

------------------------00----------------------

2018年12月14日、第7弾として全国60自治体で60種類(累計407自治体478種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「徳島県」のマンホールカードは、「旧吉野川浄化センター(愛称:アクアきらら月見が丘)」でいただけます。

2009年に設置開始されたマンホールには、県章を中心に「あゆ・あめご・てながえび・しおまねき」がデザインされています。

「徳島平野の中央を西から東に流れる吉野川。 紀伊水道へと流れ出る河口には、潮が引くと広大な干潟が現れ、多くの希少生物の生息地となっています。 マンホールの右下に描かれた「シオマネキ」は、片方の大きなハサミを振る動作が潮を招いているように見えることから、その名が付けられました。 この吉野川干潟が日本でも有数の群生地となっています。 その他にも「アメゴ」「アユ」「テナガエビ」といった吉野川の生物たちが描かれています。 このデザインには、「これら貴重な生物の生息できる『きれいな川や海を未来まで』つなげていきたい」という思いが込められています。」

訪問日:2018年月12日15日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホール in 高知県宿毛市

2020年08月29日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・高知県

宿毛市(すくもし)は四国の最南端、高知県の南西部に位置する市です。土佐清水市、四万十市、幡多郡大月町・三原村に。また県を跨いで愛媛県宇和島市、南宇和郡愛南町に隣接。市域は全般的に山岳・丘陵地帯で構成され、篠山を主峰とした全域の約84%が森林地帯。 その間を松田川が宿毛湾に向かって流れます。高知県唯一の有人離島沖の島、鵜来(うぐる)島は日本有数の磯釣りのメッカとして多くの釣り客を魅了。冬には、気象条件が整えば、夕日が宿毛湾に沈むときにダルマのように見える「ダルマ夕日」を見ることが出来ます。「市の木:クスノキ」「市の花:寒蘭」「市の鳥:メジロ」「市の魚:イシダイ」を制定。

キャッチフレーズは、「さくらの里 だるま夕日が見える街 人が輝き、自然がほほえむ元気都市“すくも”」

明治22年(1889)、町村制の施行により、幡多郡宿毛村、小筑紫村、橋上村、平田村、山奈村、沖ノ島村が発足。

1899年、宿毛村が町制を施行、幡多郡宿毛町が発足。

1942年、宿毛町が幡多郡和田村を編入。

1950年、小筑紫村が町制を施行、幡多郡小筑紫町が発足。

1954年、 幡多郡宿毛町、小筑紫町、橋上村、平田村、山奈村、沖ノ島村が合併、市制を施行。宿毛市が発足。

マンホールには「キャッチフレーズ:さくらの里」にちなんで、全体に桜がデザインされています。

昭和36年制定の市章は、「片仮名の「ス」を図案化したもので、丸は市民の平和と円満なる発展を象徴し、下部の両翼は力強い安定感を意味する。」公式HPより

上水道関連の「仕切弁・空気弁・消火栓」にはそれぞれに市章と桜がデザインされています。

「道の駅・すくも」の駐車場の一角にあった「へんろ小屋」。試しに昇ってみましたが思ったよりも快適でした。「へんろ小屋」は、歩き遍路のための休憩・仮眠施設として作られたもの。その存在とそれらが維持されている事に、お遍路さんへの深い思いやりが感じられて、何だか嬉しくなりました。

撮影日:2013年3月24日

------------------------00----------------------

高地県のご当地マンホールは「宿毛市」で終了。明日からは徳島県のマンホール・神社仏閣・名所に旧跡&迷所の紹介です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホール in 高知県大月町

2020年08月28日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・高知県

幡多郡大月町(おおつきちょう)は高知県の南西部に位置する町です。北は宿毛市、東は土佐清水市に隣接。西側は豊後水道・宿毛湾、南側は太平洋に面し、海岸部を中心に足摺宇和海国立公園に指定されています。「町の木:ウバメガシ」「町の花:はまゆう」「町の鳥:オオミズナギドリ」を制定。

キャッチフレーズは「人と自然がふれあう町」

明治22年(1889)、町村制の施行により、幡多郡大内町・月灘村が発足。

1957年、大内町・月灘村が合併、幡多郡大月町が発足。

町名は二つの自治体からそれぞれ一字を取って命名されました。

昭和32年(1957)11月3日制定の町章は「丸い部分は三日月であり 雨の夜も、風の夜も休むことなく大月を めざして太り やがては満月となって 世界の夜を 明るく 美しく照らす。 この月の部分を 大月町の大の字の横一とし、 中央の三角部分は左右にはねた部分として 全体で大月町の大の字を形成したものであり、 この町章の全姿は、平和の使者 鳩である。 今 大月町と共に 世界の大空に翔び立とう としている姿である。」公式HPより

幡多郡大月町は公共下水道未整備地区の為、ご当地マンホールの類は見つけられませんでした。自治体章が無くても、汎用蓋でも良いからと探しても、無い時は無いのです😭

バス停としても使用されている「おへんろ小屋」、大月の町名や月山神社にちなんで、月のイメージでデザインされています。

撮影日:2013年3月24日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふらり梼原~町歩き in 高知県梼原町

2020年08月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・高知県

雲の上の町・梼原の町に残る素敵な建物や史跡、早速見て歩く事に。何だろう、このワクワク感😄  まずは「ゆすはら座」。昭和23年(1948)に梼原町の町組によって北町に建設。1995年9月に東町に移転復元されました。

続いては明治24年(1891)に建てられた「旧・梼原町役場」。現在は歴史民俗資料館・別館として利用されています。 明治時代の洋風建築って本当にステキですよね。

「義人 中平善之進 頌徳碑」梼原村庄屋として「津野山騒動」と呼ばれる百姓一揆の主導者となり、責めを負って処刑。後に義人と讃えられた人物です。

「発展の礎」碑の前に置かれているのは、高知県の地図の中にある梼原の位置。

さて・・梼原町の観光マップを見ると、必ず出てくるのが「坂本龍馬脱藩道」の文字。 町歩きの拠点にもこのような看板があり、もう町を揚げて脱藩を後押ししています😅 維新の夜明けを目前にしながら凶刃に倒れた幕末の超有名な英雄『坂本龍馬』。彼が絡めば、躓いた石でも名所になりそうですが、かくいう私も龍馬さんと晋作さんの事は好きです😊

「幕末の英雄・坂本龍馬は同志 澤村惣之丞とともに、文久二年(1862)三月二十四日高知を出奔し二十五日に梼原に到着、その夜梼原の勤王の志士那須俊平。信吾父子の家に泊まり、翌二十六日未明、俊平・信吾父子の道案内により、宮野々番所を抜け、四万川茶や谷の松ヶ峠番所を抜けて予土県境・韮ヶ峠を越えて伊予の国(愛媛県)に脱藩した。」脱藩の道.comより
龍馬が脱藩した韮ヶ峠は愛媛県との県境にあり「歴史の道100選」に選定されています。

三島神社の境内を抜けると、坂本龍馬脱藩の道と書かれた矢印付の看板があります。幕末の歴史が大好きなご亭主殿。早速、龍馬になりきって脱藩を試みようとしましたので、ここは、ご亭主思いの私が、丁重に!蹴りとパンチで思いとどまらせて差し上げました😄

とかく脱藩ばかりがクローズアップされがちですが、梼原には維新に縁の地が何箇所も存在します。何といっても圧巻は、歴史民俗資料館の敷地に作られた「維新の群像」。梼原町にゆかりのある六志士に、坂本龍馬、沢村惣之丞を併せた八人の姿は今にも駆け出しそうな気迫に満ちています。

回天の偉業を夢見ながらも、維新の夜明けを見る事無く壮絶な死を遂げた若き志士たち。新しい時代の到来を信じ、大きな夢を抱いて峻険を掛け抜けたその姿は、今こうして梼原の地によみがえりました。


彼らが見つめる先にあるのは、大いなる希望だった筈、明日の日本を作るのは自分たちの若き志だったはず・・・自分たちならきっと成し遂げられる筈!!

町域には尊皇攘夷論を唱え、国事に奔走して殉死した『吉村虎太郎、那須信吾、那須俊平、前田繁馬、中平龍之介、掛橋和泉』の御分霊、「六志士の墓」が建立されています。

庄屋の跡地に移築された史跡「掛橋和泉邸宅」。代々神職を勤めた子孫により守り継がれてきましたが1998年に現在地へ移転。 神職の身にあって、勤皇の志を抱いて脱藩する同志たちに、家財を費やして援助を続け、それが為に自ら命を絶った・・・・・享年28歳、彼もまた勤皇の志士だったのです。

脱藩とは関係有りませんが、梼原の町内には慶長9年(1604)から11年にかけて、津野山郷各村々に建てられた茅葺屋根の「茶堂」が今も現存しています。 内部に「弘法大師、考山霊、三界万霊」を祀り、行路の人々には茶菓の接待も行われたといいます。

日本3大カルストに数えられる四国カルストの麓に位置する「道の駅・ゆすはら」。生憎と到着した時はすでに閉館しており、楽しみにしていた物産館もスタンプも無し。お日様が高ければ、きっととても素晴らしい風景に出会えただろうに・・。

訪問日:2013年3月26日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三嶋神社 in 高知県檮原町川西路

2020年08月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・高知県

梼原町川西路に鎮座される「三嶋神社」。御祭神は『大山祇命』

四万十川の支流である梼原川の対岸に社殿があり、鳥居から境内までは屋根付きの木橋で結ばれています。

梼原町産の「梼(ゆす)」の木材で作られたという「神幸(みゆき)橋」。橋から見る梼原川の流れの清らかさとあいまって、まさに神域への道に相応しい佇まい。

梼原町の観光案内等に寄れば、津野山郷の開祖『津野経高』がこの地を梼原と名づけ居城を築き、延喜13年(913)に伊豆:三嶋大社より梼原宮首の地に観請したと伝えられています。

神幸橋を渡ってすぐ、二の鳥居脇より神域を守護されるのは、太鼓の上に前足をかける阿形さん。その紐をかみ締めて見上げる吽形さん。時代を経た石の肌が美しい色合いとなって狛犬好きの心を惹きつけます。

明治23年(1890)に再建された拝殿の彫刻は、山口県の大工『中本喜作』の作。神社彫刻に関しては、有名無名にかかわらず素晴らしいものが多く楽しみの一つなのですが、作者の名が残された彫刻には、また格別の思い入れがわき、次の楽しみへと繋がっていきます。

貫に彫刻された阿吽の龍。目には当時としては高価であった玉が嵌め込まれており、互いを振り向く姿は、今にも屋根を突き破って、高らかな笑い声と共に天に駆け上りそうに見えます。

境内には、津野家代々を祀る「津野神社」や、樹齢約400年の御神木があったのですが、この時思いがけない僥倖に遭遇し、後回しになったまま失念してしまいました。

三嶋神社の境内には、木で作られた「神馬」が神馬舎に保存されているのですが、丁度、損傷部分を修理する為に宮大工さんがおいでになり、色々とお話しを聞かせて頂く事が出来ました。

おかげ様で、灯りがともされた扉の内側から「神馬」を直接拝見することも出来、非常に貴重な経験となりました。

参拝日:2013年3月26日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホール in 高知県檮原町

2020年08月25日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・高知県

高岡郡檮原町(ゆすはらちょう)は高知県の西部、四国山地の西端に位置する町です。高岡郡津野町・四万十町に。また県を跨いで愛媛県西予市、上浮穴郡久万高原町、北宇和郡鬼北町に隣接。町面積の91%を森林が占め、そのうち国有林は88ヘクタール。標高1455mにもなる雄大な四国カルストに抱かれた自然豊かな山間の小さな町です。四国カルスト高原は、全国的にも珍しい高位高原カルスト地形になっており、晴れた日には太平洋から瀬戸内海まで一望できます。延喜13年(913)、津野経高公がこの地に入り、開拓によって津野荘を築いて以来687年間津野氏の所領となり、地域の政治、文化の中心地として発展。慶長5年(1600)に山内氏の所領となり、梼原6ケ村東津野3ケ村をあわせ「津野山郷」と称してきました。

キャッチフレーズは「雲の上の町、ゆすはら」

明治22年(1889)、町村制の施行により、高岡郡西津野村が発足。

1912年、西津野村が改称、高岡郡檮原村が発足。

1966年、檮原村が町制を施行、高岡郡檮原町となりました。

マンホールには、1994年に町保護有形文化財に指定された「木造芝居小屋:ゆすはら座」が描かれています。

「ゆすはら座」

昭和41年11月3日制定の町章は「外円を開祖津野公山の家紋からとり、町民の和合と円満を、内側にローマ字の「Y」、三角で森林を現し、町の限りない未来への躍進をあらわしています。」公式HPより

撮影日:2013年3月26日

------------------------00----------------------

この日は「雲の上のホテル」に併設された温泉に入り、ここで車中泊をさせて頂きました。 お仲間無しですが、特に淋しすぎると言う事もなく、風呂上りも手伝って良く眠れました。
唯一つ問題は、駐車場が傾斜地だったので、寝返りを打つと元の位置に戻れない😅 朝の支度を終えて、梼原の町に入って気がついたのですが、ご亭主殿のサンダルがありません。ステップに置いてあったので、多分ドアを開けたときに滑り落ちたのでしょう😣
車中泊では、各地のいろんな道の駅を利用させて頂きますが、初めてのビックリ体験でした。

それはさて置き、車で旅をする私たちにとってこの様な道の駅は本当に有難く大切な場所です。

改めてその折には有難うございました🙏🙏

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土佐清水~あちこちウォッチ in 高知県土佐清水市

2020年08月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・高知県

町域のほぼ全てが「足摺宇和海国立公園」の中にある土佐清水市。当然、足摺岬以外にもステキな見どころがあります。「道の駅:めじかの里」で見かけた「ようこそ!」の看板。何処に行ったらこんな景色に出会えるのかしら?

面白不思議なものが一杯の道の駅を後に次に立ち寄ったのは「足摺海洋館」。と言っても周辺の景色と建物を見ただけで次の目的地に。何しろ時間が😓 😅

そこから少し走ったところにある海岸。小石に混じって白く見えるものが気になって近づいてみたら・・どうやら「珊瑚」のよう。

嬉しがって拾ってみました😍

日本の珊瑚史は、月灘沖で一人の漁師が桃色サンゴを釣り上げた事に始まります。 国道321号沿いの小才角休憩所には、「さんご採取発祥記念像」とその説明がありました。

国道321号線沿いを走っていると、胸ビレを広げ、今にも海中に飛び込みそうな「トビウオ」のモニュメントに遭遇。

トビウオがいたのは叶埼小橋、続く叶埼大橋には丸々と太った「カツオ」😍。

橋の上から偶然見えてしまった海岸線。あ・・足が・・・😱 と言いつつ、シャッターを切る私💦

「クジラと珊瑚と足摺岬灯台」がまるで絵画のようにデザインされたレリーフがあるのは「叶崎展望台」。車から降りた私たちを遠巻きに窺う猫ちゃんに気づき、手を差し出すと足元に擦り寄ってきた可愛い数匹の仔猫たち。

何故こんな場所に仔猫たちがいるのか・・それを考えると無性に腹立たしくて悲しくてたまりません。無責任に餌をやるのは良くないことだと言われても、必死にしがみつくこの子達をどうして邪険に扱えるでしょう。抱き上げて頭を撫でて・・・連れて帰ってやれない事を一生懸命謝って、どうか無事に生きていくんだよと何度も何度も繰り返して・・神にも仏にも祈りたい気持ちで、そこを後にしました・・・

訪問日:2013年3月24日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金剛福寺と白山神社 in 高知県土佐清水市

2020年08月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・高知県

足摺岬の先に見える「ガジヤバエ」で修行をされたと言う「弘法大師」。室戸岬で修行を重ねた「空海」は、観音菩薩が住むとされる「補陀落(ふだらく)」に最も近い場所として、この足摺岬を選んだと伝えられています。そして岬の周辺には、大師にまつわる「不思議」な名所が幾つも残されています。 

空海は祈祷を行うため、亀呼び場から亀の背中にのって不動岩に渡ったと云われています。この「亀石」は、亀呼び場の方向に向いており、その姿は今も空海に呼ばれるのを待っているようにも見えます。

海上から相当高い位置にある「汐の満干手水鉢」。岩の上には小さなくぼみがあり、満潮になると水がたまり、干潮になると水がなくなると言われています。この位置では、とても海面と繋がっているとは考えらず、まさに不思議たる所以です。

「大師が金剛福寺を創立の時に発見された石で、石の動揺によって孝心をためすと言われる」と説明のある「ゆるぎ石」。伝え聞くところによると、岩を押して、上に乗ってある石が落ちたら親不孝者なんだとか・・身に覚えのある私には試す根性はありません。さて、ご亭主殿の結果は・・😅

「平安時代中頃、賀登上人と弟子の日円上人が補陀洛(お釈迦様の住む浄土)に渡海しようとしたとき、先に弟子の日円上人が渡海してしまったことを悲しみ、賀登上人がこの岩に身を投げ出し、落ちる涙が不増不滅の水になったといわれています。」弟子に先を越されて泣き悲しむ上人・・・💧

弘法大師が修行した道のりを辿る四国八十八ヶ所のお遍路。その総距離は1100kmと言い、徒歩の場合、一般的に40日程度を要するといわれています。
ここ足摺岬には、四国最南端の霊場「蹉跎山補陀洛院金剛福寺(さだざんふだらくいんこんごうふくじ)」

手水鉢の「亀」は弘法大師様が祈祷の際に呼び出していたという亀に因んだものでしょうか。境内には他にも巨大な亀の像が鎮座しています。

とても印象に残った鍾乳石の柱・・・手前の柱には苦悩にゆがんだ人の顔が見えて・・遍路に知り人の後生を願う人の目には、この恐ろしいとも思える顔はどんな風に見えるのだろう。

「足摺山の一夜」と題する20句が刻まれた句碑

寺伝によれば、弘仁13年(822)に、嵯峨天皇から「補陀洛東門(ふだらくとうもん)」の勅額を受けた空海(弘法大師)が、三面千手観世音菩薩を刻んで堂宇を建て、安置し開創したと云われています。

ご詠歌【ふだらくやここはみさきの船の棹(さお)とるもすつるも法(のり)の蹉跎山】

------------------------00----------------------

足摺岬の最後はこの地に鎮座される、旧郷社「白山神社」。御祭神は『伊邪那岐命、伊邪那美命』。さらに「金剛福寺奥の院」に鎮座される『白皇権現』を合祀。

「元・白山権現と称し、加賀国の白山比咩神社を勧進、当初白山洞門の頂上に祀られていた。金剛福寺の守護神の一つで、土佐藩主山内氏が崇敬、社殿の修復に関わったとの記述が金剛福寺の棟札に伝わっている。大正5年(1916)に白皇山上にあった白皇権現と合祀され現在地に遷座。以後、足摺岬集落の氏神として崇敬されている。」

鳥居の内、拝殿前より神域を守護されるのは、見た目の丸っこさとは打って変わったきつい面持ちの狛犬さん一対。四国最南端のお社を守るにはこれくらいで無いと勤まらないのかもしれません。

屋根の上には「竹林の虎」

太平洋を眼下に望む足摺岬。白山神社の道路向かいに、決して大きくは有りませんが「靖国神社」が鎮座されています。「靖国で逢おう」を合言葉に散っていった多くの御霊の安らかでありますように・・・・🙏🙏

参拝日:2013年3月24日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

足摺岬 in 高知県土佐清水市

2020年08月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・高知県

市内から足摺岬に行くには、半島部の尾根を通る足摺スカイラインが最短コース。ただし、片側1車線にも関わらず、カーブ、急勾配が連続する片道13kの道程・・・私にはかなりの試練。途中で野生の狸や雉に出会ったのにはビックリしましたが、もちろん写真など撮る余裕は有りません😥

兎にも角にも、ヘロヘロになりながらたどり着いた足摺岬。「僕たちは今ここにいるんだよ。」と看板を指さすご亭主殿

現在位置を確かめたら、まずは太平洋に向かって立つ「ジョン万次郎」の後姿とご対面。

文政10年(1827)、土佐の中浜(現:土佐清水市中浜)の貧しい漁師の次男として生まれた「ジョン万次郎こと中浜万次郎」。14歳の時、仲間と共に漁に出て遭難し伊豆の鳥島に漂着。約5ヵ月後にアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって助けられ、日本人として初めてアメリカ本土へ足を踏み入れた人物となりました。

万次郎さんに挨拶を済ませ😊 ワイワイと記念スタンプを押していたら、事務所の方から「足摺岬到達証明書」と書かれた葉書をいただきました。こういう配慮って年齢に関係なく嬉しい😆

では早速、「四国最南端」の眺望を満喫。手始めは、足摺岬の展望台からさらに奥に位置する「天狗の鼻」。そこに至る遊歩道は、さしづめ「椿のトンネル」

木漏れ日の中、思い思いに生い茂る枝をかいくぐって進むと、唐突な感じで視界が開け「天狗の鼻展望所」に到着。

眼前に広がるのは雄大な太平洋、見わたす限りの太平洋😍。 感動のあまり、二度も強調してしまいました。そうして右手に小さく見えているのが「足摺岬灯台」

岬の先に見える岩礁は「ガジヤバエ」、弘法大師様が亀に乗って渡ったと伝えられています。が・・実はどの岩礁が「ガジヤバエ」なのか・・分かっていません😓

まぁまぁ・・細かいことはさておき。この素晴らしい景色を収めようと、ご亭主殿はひたすらカメラを向けズームを繰り返しています。でも結局灯台の美しい姿はモノにならず😩

茂みの中にひっそりと建立されていた足摺岬の碑・・・随分古そうに見えますが・・

一通り足摺岬を楽しんだ後は、無料の足湯「万次郎足湯」。難所といわれる道を歩きとおしたお遍路さんには最高の施設でしょうね。それにははるかに及びませんが、私たちも歩き疲れた足をほぐします😊

窓の向こうに見えるのは、高さ16m・幅17mと、花崗岩洞門では日本一の規模の「白山洞門」。温泉の蒸気で曇ったガラス越しなので鮮明ではありませんが、高知県の天然記念物に指定されています。

訪問日:2013年3月24日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする