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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

知恵の文殊・智恩寺~(ちおんじ)~其の二 in 京都府宮津市

2025年09月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

「三人寄れば文殊の知恵」という諺があります。『文殊菩薩』とは、悟りへ到る重要な要素、般若=智慧であることから「智慧」を司る仏とされています。「文殊の知恵」とは『文殊菩薩』のような、すぐれてよい知恵という意味で、受験や資格試験などの受験生が知恵にあやかるように参拝に訪れます。

智恩寺二日目は、本堂に掲げられた絵馬を紹介しようと思いますが、実にその数72面。丹後随一の質量を誇る絵馬ですが、実際に見るのと画像に残すのとではあまりにも勝手が違いすぎて、位置的に綺麗に写せたものに限定しました。

最初はお寺さんに相応しいのかどうか・・・否、お寺さんだから相応しい「地獄絵図」。大作過ぎて二つに分かれてしまいました。正直な話、私はこの地獄図絵と言うのが和洋を問わず苦手。天上から見下ろす仏たちは、どのような思いで地獄の責め苦に喘ぐ亡者を見ているのでしょう。

文政元年(1818)奉納の 算図」の絵馬。和算は江戸時代に発達した日本独自の数学で、ここでは、大円・小円の径を求める解法について、設問と回答が記されています。理数系が大の苦手だった私は、ただ感心して見上げるばかり😓

正徳五年(1715)奉納の忠臣蔵絵馬」。元禄十五年(1702)の赤穂浪士の吉良邸討ち入りから十四年後の奉納。現存する忠臣蔵事件を画いた絵馬としては最古で、激しい武闘の場面が生々しく描かれています。

 
HPに記載がないため不確かですが、絵馬の図柄から「加藤清正の虎退治」と推測。

右に『森 周齋』、左に「文化丁卯(1807)夏」の墨書。 漆黒の駿馬にまたがり、敵に向かって長槍を突き出す図は三国志の一場面「趙雲 阿斗を奪還して敵陣を突破する」の図と思われます。

「天保丙甲(1836)八月奉納」。二人の武士が刃を交える図は、もしかして「天橋立で父の仇討ちをする岩見重太郎の図」かな? 勝手に推測していくのもなかなか面白い。

ラストですが・・・これが一体何の場面なのかさっぱりわかりません。 裃姿の男性は侍のようですが、その前に両手を広げた人物は切られたのかそれとも飛んでいるのか😲 たじろぐように身を引く商家の主・・・う~~~ん、謎の絵馬😔❓

線香の煙にいぶされた本堂の彫刻は長い年月の間にさらに凄みを増して、まるで今にも飛び立ちそうな勢い。本当であれば阿吽の一対で残したかったけど・・きっとこの時は、写せない理由があったのでしょう。

智恩寺の絵馬は「三人寄れば文殊の知恵」の文字、「火焔形梵字を背に乗せた赤獅子」。獅子は『文殊菩薩』の使いであり、背に乗せた火焔形梵字は『文殊菩薩』を表しています。

境内の多宝塔と向かい合うところに並ぶ「石仏三体」。雪舟の「天橋立図」にも描かれており、いずれも等身で、左手宝珠を捧げ、右手は今は失われていますが、錫杖を持つ形から地蔵菩薩像と知られます。

最も保存のよい 南の一体の背に刻まれた銘文に、応永三十四年(1427)に三重郷(中郡大宮町)の大江永松が発願して造立した一千体の地蔵のうちの一体とあります。

少し離れた北側の一体は、頭部を後補されていることが惜しまれますが、体部の衣文には優れた彫刻技術が見られます。銘文から竹野郡恒枝保の三上因幡守の発願で、永亨四年(1432)に造立されたと知られます。

『和泉式部』の歌塚と伝えられる鎌倉期の筺鏡印塔。明応年間の頃、山門より600mほど南にある鶏塚から掘り出されたと伝えられ、1993年に地蔵立像の二躯と共に市文化財に指定されました。

『稲富一夢斉(祐直)』供養塔。『稲富祐直』は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、砲術家。稲富流砲術の開祖として知られ、徳川幕府の鉄砲方として国友鍛冶の組織化に尽力した人物。

文字のみが彫り付けられた「庚申塔」。地蔵立像に並んで建立されていた「宝篋印塔」

囲いの中の3個の力石は、大:約130kg、中:約100kg、小:約70kg。祭りなどの際に力比べとして用いられていたと思われますが、何時の頃からか、この石に触ると力と智恵が授かるといわれるようになりました。

力石の後方に見えるのは「豫科練供養塔」🙏🙏「予科練とは海軍少年飛行兵の称である。予科練の歴史は僅か15年余りに過ぎないが、日支事変・太平洋戦争の全期に亘り厳しい訓練を経て戦いの大空に雄飛する。戦局利あらず多くの若者が祖国同胞の為と信じ無限の未来を秘めた若い生涯を桜花よりも更に潔く祖国防衛に捧げた。英霊の永久の冥福と世界平和の礎となることを祈念し之を建てる。」碑文より

境内の一画には、宮津の人々に愛され、今もなお美しく化粧を施された地蔵様が並びます。

境内には多くの石造物が奉納されていますが、何と言っても有名なのは「知恵の輪灯籠」。文珠水道(天橋立水路)を行き来する船の安全を祈って建立されたもので、享保11年(1726)刊行の「丹後興佐海天橋立之図」にも、この輪灯篭が描かれています。そして・・輪灯籠の輪を三回くぐれば、文殊さまの知恵をさずかると云われていますが、さすがに挑戦する根性は・・・😅

境内の松に満開の「扇子型おみくじ」

今回の智恩寺参拝、何と言っても忘れがたいのは、境内や本堂でくつろぐ沢山の猫たち。文殊堂の擬宝珠高欄付の落縁から参拝者たちを見守る猫の表情がとてつもなく穏やかで優しいのです。堂の片隅には、ちゃんとキャットフードの入ったお皿と水の皿が幾つも並べられており、猫好きの私には、思わず手を合わせたくなるような光景でした。人それぞれで好き嫌いもあるでしょうが・・そんな訳で本日のお賽銭はいつもよりも多め😊

2017年4月、文化庁により「智恩寺」は日本遺産」の「丹後ちりめん回廊」を構成する文化財のひとつに認定されました。

参拝日:2010年11月3日&2017年6月12日


知恵の文殊・智恩寺(ちおんじ)~其の一 in 京都府宮津市文殊

2025年08月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

宮津市文珠字切戸(きれと)に門を構える、臨済宗妙心寺派寺院「天橋山(てんきょうざん)智恩寺(ちおんじ)」。秘仏で重要文化財の『文殊菩薩』を本尊とします。

「切戸の文殊」、「九世戸(くせど)の文殊」、「知恵の文殊」とも呼ばれ、奈良県桜井市の安倍文殊院(安倍文殊)、山形県高畠町の 大聖寺(亀岡文殊)などとともに、日本三文殊のひとつとされます。

寺伝によれば「大同3年(808)の平城天皇の勅願寺として創建されたという。延喜年間には、醍醐天皇から勅額を下賜されたというが、以後、中世までの歴史は判然としない。当初は密教(真言宗)の寺院で、禅宗寺院になるのは南北朝時代以降である。古くから文殊信仰の霊場として知られ、謡曲「九世戸(くせのと)」の題材となっている。」Wikipediaより

現存する多宝塔は、丹後国守護代『延永春信(のぶなが はるのぶ)』によって建立され、明応10年(1501)に落成。丹後地方唯一の遺構として重文化財に指定されています。

円形の塔身の上重に相輪をあげ、下重には来迎柱が立ち、前方に須弥壇。中央に『大日如来』を安置します。

多宝塔参道近くより仏域を守護されるのは、出雲丹後構えの狛犬さん一対。

出雲構えの狛犬さんの横には、比較的新しい奉納と思われる、出雲丹後系の狛犬さん一対。丹後と出雲の関りがどんなものであったか分かりませんが、時代を超えての奉納にはそれなりの理由があるものと思われます。

文殊堂が現状のように改められたのは、明暦元年(1655)から始められた、宮津藩主京極高国による修理によるもの。 屋根はわずかに照り起(むく)りを 帯びた優美な宝形造で、正面に三間の向拝を葺き降ろしています。

本堂近くより仏域を守護されるのは、昭和33年(1958)建立の狛犬さん一対。台座には大正12年10月と刻まれています。大正生まれの先代さん、どこかで余生を過ごされていれば良いのですが・・・

国指定重要文化財の「鉄湯船」は、正応3年(1290)に河内国の鋳物師『山川貞清』により制作。元々は寺院の大湯屋で寺僧の施浴に用いる湯船として制作されたものですが、現在は手水鉢として使われています。

明治14年(1881)建立の鐘楼。本堂東側の暁雲閣に天文年間鋳造の梵鐘が吊在していましたが、嘉永年間にさらに大口径の物を改鋳し現所に移転。現梵鐘は昭和48年(1973)に再改鋳されました。

寄棟造、桟瓦葺で下層の両側に亀腹が付いた竜宮門形式の鐘楼門は、 二人の子女を相次いで亡くした宮津の商家木村正英によって、享保七年(1722)に建立。その菩提を弔うべく、二人の法名「暁山彗察」「洞雲自照」から「暁雲閣」と呼ばれています。

寛政十一年再建の庫裡は、丹後地方では数少ない本格的な禅宗様庫裡建築であり、この地方では最大の規模のものといわれています。

宮津市指定文化財の山門は明和四年(1767)九月に上棟。本格的な唐様(禅宗様)の山門としては丹後地方最大のもので、棟梁は宮津の名工『冨田庄次郎』。三間三戸の二重門で、上層には釈迦如来や十六羅漢を安置。再建に際し『後桜町天皇』から黄金を下賜されたことより「黄金閣」の扁額があげられ、爾来「黄金閣」と称されています。

智恩寺は御朱印を頂くため2017年6月に再参拝しており、画像もその分だけ多く残されています。明日は本堂内の奉納絵馬や、境内に残された石造物などを紹介します。

参拝日:2010年11月3日


天橋立~其の二 in 京都府宮津市

2025年08月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

宮津湾に面した白砂青松の海岸は、波の穏やかな海水浴場としても有名で、シーズンにはファミリーを中心とした多くの海水浴客でにぎわいます。が、流石に11月ともなれば、海辺で遊ぼうなどと言う酔狂な人もいないようで、打ち寄せる波音もおだやかです。

天橋立~其の一では「昭和天皇」の御製を紹介しました。~其の二では『大正天皇』恩寵の碑。昭和25年(1950)、ジェーン台風の災害復旧に向け天皇陛下から励ましのお言葉を頂いたことを記念して建立された記念碑ですが、松林の奥なので見え難いですね。

天橋立神社の近くに展示されている大砲は、長さ 6m40cm・重量 約5トンの「40径安式15センチ砲身」。明治35年(1902)にイギリス、アームストロング社で製造。軍艦春日に搭載され、海軍思想普及の為に海軍大臣より下付されました。

「岩見重太郎仇討の場」

剣豪として名高い『岩見重太郎』は、父の仇『広瀬軍蔵、鳴尾権三、大川佐衛門』を追って丹後の宮津に来ましたが、三人は重太郎を恐れて領主:京極家に隠れていました。そこで、京極家に乞うて仇討ちを許され、寛永9年(1632)9月20日、天橋立の濃松において三人を討ち倒し、ついにその本望をとげたと伝えられています。

仇討の場の近くには「岩見重太郎試し斬りの石」と伝えられる石が現在も残っています。この岩見重太郎ですが、『薄田隼人(すすきだ かねすけ)』と同一人とされ、大阪冬の陣では豊臣方の武将として大いに戦って名をとどろかせましたが、翌・夏の陣において戦死したと言われています。

岩見重太郎試し斬りの石の近くに「萬籟(ばんらい)の句碑」。【 橋立や 幾松か根の 友がらみ 】 。萬籟の孫である荒木金兵衛が、祖父の50回忌の供養に花崗岩のベンチを設置し、その台石に萬籟の句を刻んだものです。

約5,000本の松がある天橋立、その一画に「千貫」もあろうかという大きな松があり、土地の人々は「千貫松」と呼び親しんできました。それにあやかってかどうか「天橋立の松に愛称を付ける実行委員会」によって、幾つかの松にはそれぞれに名称がつけられています。これは一本の松が三又になっている事で「三人寄れば文殊の知恵」から引用された「知恵の松」

倒木して根元の跡だけが残された「晶子の松」等々・・15点の松それぞれに新たな名前が付けられました。いつかこれらの名前も千貫松のように後世に語り継がれるのでしょうか?

歩き疲れて座り込んだ私の代わりにご亭主殿が見つけてくれた「芭蕉句碑」。江戸墨田川の景をよんだもので、ちなみに芭蕉は天橋立に来たという記録は無いそうです。この句碑は、芭蕉の塚がないのを残念に思った宮津の俳句仲間によって選ばれた句で、1767年に文殊堂境内に建立。明治になって、この地に移されました。

 【 一声の 江に横たふや ほととぎす 】

伊弉諾尊が天から通うために作られたという梯子、その梯子が倒れて出来たのが「天橋立」。と・・・・・『丹後国風土記』では、そう伝承として伝えています。

崩れかかっていた空模様、雲行きは一段と怪しくなり雨に振り込まれる前に車に引き返す事にしました。駐車場にと急ぎながらも、ついつい手が勝手にデジカメのシャッターを😅 「丹後ちりめん」は無理だけど「知恵の餅」は食べたかったな。

雨が止んだら、天橋立をもう少し先まで歩きたかったのですが、無情にも大粒の雨。このまま時間をつぶすのも惜しいという事で、車内で昼食を済ませ、阿蘇海沿いに車を走らせて「籠神社」へと向うことにしました。

訪問日:2010年11月3日

三年後の2014年11月、J🐣さんが参加して、二度目の丹後方面車泊で、ほんの少し天橋立に足を踏み入れてきました。

元伊勢籠神社参拝の後だったので、前回到達し損ねた方向から30分ほど歩いただけですが、それでもやっぱり前回同様に感動できました😄 白砂が広がる宮津湾側。

阿蘇海側から見る「笠松公園」。ひっきりなしに往復するリフト。

天橋立の大垣側、船越と呼ばれる地点にある「船越の松」

天橋立の出口?で見かけた「全国建称マラソン発祥の地」碑。最近は【○○発祥の地】なんて聞くと、とにかく訪ねてみたい変な野次馬根性が芽生えてしまって困ったものです😩。

訪問日:2014年11月22日


天橋立~其の一 in 京都府宮津市

2025年08月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都府北部、日本海の宮津湾にある「天橋立」。宮城県陸奥の「松島」・広島県安芸の「宮島」とともに、日本三景の一つとして知られています。

宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる全長3.6キロメートルの湾口砂州には、約5000本もの松が生い茂り、古代より奇勝・名勝として知られてきました。

何千年もの歳月をかけて自然がつくりだした神秘の造形「天橋立」。念願かなっての訪問、最初の見所は、天保十五年に大阪の商人『大和屋藤兵衛』が文殊船着き場の灯明台とすべく寄付した「文殊港の灯明台」

文殊堂のある陸地と天橋立とを結ぶ「小天橋」は、船が通るたびに90度旋回する「廻旋橋」。大正12年(1923)に人力で動く橋が完成。その後大型船舶の増加で、昭和32年(1957)から電動式になりました。

「天の橋立」歩きの第一歩は、昭和26年(1951)11月13日、『昭和天皇』が戦後の民情ご視察のため山陰地方をご巡幸の際、当地にご宿泊した折にご下賜された御製(書は元侍従長:入江相政氏)

めずらしく 晴れわたりりたる 朝なぎの 浦わにうかぶ 天の橋立 】

古代から近世に至るまで、多くの文人墨客に愛された天橋立。彼らはその感動を歌に託しました。もっとも有名なものでは百人一首に登場する『小式部内侍』【 大江山  いく野の道の 遠ければ  まだふみもみず  天橋立 】や、和泉式部の【 神の代に  神の通いし 道なれや 雲井に続く 天橋立 】が良く知られています。

画像は百人一首とは無関係の「波切地蔵尊」。その昔、海から大きな波が押し寄せ、村人たちは山の方へと皆逃げたところ、この地蔵様の所で大波が止まり、村人を救ったという言い伝えが残されています。

切戸によって遮断された天橋立をつなぐもう一つの橋「大天橋」を渡ると、いよいよ「日本三景・天橋立」。

【 人おして 回旋橋のひらく時 くろ雲うごく 天の橋立  】『与謝野 晶子』
【 小雨はれ  みどりとあけの虹ながる 与謝の細江の 朝のさざ波 】『与謝野 寛』

砂州にある一本道は公路としても利用され、自転車、50㏄のバイクが通行可能。橋立茶屋近くにはレンタサイクルのお店もあり、観光客に人気のようです。

松林の中に伸びる道・・この画像だけを見たら、ここが海の中にできた砂州だとはとても信じられないほど。

そんな松林の先に建立された『与謝 蕪村』句碑。蕪村は、松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人で、俳画の大成者としても知られています。【 はし立や 松は月日の こぼれ種 】

蕪村の句碑の近くに鎮座される「天橋立神社」。正面に『豊受大神』、向かって左に『大川大明神』、右に『八大龍王(海神)』を奉ります。

詳細は定かではありませんが、文殊信仰が流行した平安末期から鎌倉時代にかけて、文殊堂境内鎮守として祀られたものと言われています。

鳥居の内より神域を守護されるのは、出雲丹後系の狛犬さん一対。しっかりと整った顔立ちは、生い茂る松が過酷な海風から守ってくれるからでしょうか?

龍神伝説が残る天橋立。知恵の輪灯篭の灯りは、この龍神を呼ぶ為であったとも云われています。

天橋立神社の手水は、四面海水の中にありながら真水が湧くことから「磯清水」と称され、古来不思議な名水として知られています。井戸に湧く清水はいかなる時も絶えることなく、昭和60年(1985)に名水百選に認定されました。(飲用不可ですが、普通に綺麗な真水です。)

磯清水碑。平安時代中期の歌人『和泉式部』【 橋立の 松の下なる磯清水 都なりせば 君も汲ままし 】と詠ったと伝えられています。

天橋立、まだまだ見所は尽きませんが、この続きは明日のブログで

訪問日:2010年11月3日


元伊勢籠(もといせこの)神社 in 京都府宮津市大垣

2025年08月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

宮津市大垣、天橋立の北側に鎮座される「籠(この)神社」。式内社(名神大社)で、丹後国一宮。元伊勢の一社で「元伊勢籠神社」とも称し、また「元伊勢根本宮」「内宮元宮」「籠守大権現」「籠宮大明神」とも称します。

御祭神は、社家・海部氏の祖神とされる『彦火明 (ひこほあかりのみこと)(別名:天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命)』。

海部宮司家4代目の祖とされる『彦火明命』は、天孫『邇邇藝命(ににぎのみこと)』の兄弟神で、天祖から「息津(おきつ)鏡・邊津(へつ)鏡」を賜り、海の奥宮である冠島に降臨。丹後・丹波地方に養蚕や稲作を広め開拓された神とされます。

「神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮の地眞名井原に匏宮(よさのみや)と申して豊受大神をお祀りして来ました。その御縁故によって第十代崇神天皇の御代に天照大神が倭国笠縫邑からお遷りになり、天照大神と豊受大神を吉佐宮(よさのみや)という宮号で四年間ご一緒にお祀り申し上げました。その後天照大神は第十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになりました。その故事により当社は伊勢神宮内宮の元宮、更に外宮の元宮という意味で「元伊勢」と呼ばれております。両大神が伊勢にお遷りの後、養老三年に本宮を奥宮眞名井神社(吉佐宮)の地から、現今の籠神社の地へとお遷して、社名を吉佐宮から籠宮(このみや)と改め、天孫彦火明命を主祭神としてお祀りしました。旧社名の匏宮の「匏(よさ)」と吉佐宮の「吉佐(よさ)」という宮号は現在も郡名(与謝郡)や海の名称(与謝の海)となって継承されて来ております。」公式HPより

民謡に【伊勢へ詣らば元伊勢詣れ 元伊勢お伊勢の故郷じゃ 伊勢の神風 海山越えて 天橋立 吹き渡る】

「元伊勢」とは、天皇の大殿内に祀られていた『天照大神』が、皇女である『豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)』に託され、宮中を出られてから奈良、美濃・淡海と巡行し、伊勢の五十鈴川の河上に御鎮座されるまでの間、一時的にお祀りされた二十数カ所の宮々を云います。

また、それとは別に天照大神のお告げによって丹波国・与佐の魚井原(まないはら)にいる丹波道主(たにわのみちぬし)の娘『八乎止女(やおとめ)』のお祀りする『豊受大神』が、『天照大神』の食事を司る神として伊勢に迎えられた為、この魚井原の宮も「元伊勢」と云います。
絵馬に書かれた「真名井龍神」は、魚井原に湧く御神水を司る水神の眷属を表します。

鳥居からまっすぐの参道、神門前より神域を守護されるのは、国重要文化財指定の狛犬さん一対。千木がつけられた覆い屋の中でどっしりと構える阿形さん、まじまじと見惚れる御亭主殿に「なんか文句あるのか?」とガン見😅

説明に「凝灰岩製の石造狛犬は安土桃山時代の作」で、この狛犬が橋立に現れては人を驚かせたりと悪さをしたので、天正年間(1573年-1592年)に岩見重太郎に斬られたという伝説が残されている」。阿形さんの割れた右前足は、その時の刀傷だとか・・😲

桧皮葺の拝殿は美しく、それに続く本殿は伊勢神宮と同じ神明造で、府指定文化財。画像では見えにくいのですが、本殿欄干の擬宝珠は「五色の座玉」で、格式の高い神社を表すと伝えられています。

拝殿横の玉垣内は禁足地となっており、苔の庭に 「天然記念物・産霊岩(むすひいわ)」、またの名を「神生み岩」が鎮座。

「摂社:蛭子神社(恵比寿神社)」。御祭神は『彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)、倭宿彌命(やまとのすくねのみこと)』、彦火火出見命は大化以前の本宮主祭神。社殿は一間社流造銅板葺で、京都府の有形文化財に指定されています。倭宿彌命は、彦火火出見命の第四代になり、海部宮司家(あまべぐうじけ)四代目、大倭国造・倭直(やまとのあたい)。

画像左より境内社「猿田彦神社」「春日大明神社」。右奥に小さく「天照大神和魂社」

「摂社:真名井稲荷神社」。御祭神は『宇迦御魂、保食神、豊受比売』

明治末期まで奥宮真名井神社に鎮座されていましたが、1991年に本宮境内に移転再建されました。

朱乗りの鳥居前より神域を守護されるのは何故か、阿吽それぞれが金銀の玉を持つ龍神さん。

裏参道入り口より神域を守護されるのは、天保2年(1831)辛卯建立の出雲構えの狛犬さん。精悍な顔立ちにきりりとした構えが美しい一対です。

小さな神池に作られた亀。その背中に本物の亀が乗っている様子が何とも可愛らしく。蛭子神社の御祭神:倭宿彌命は神武天皇が明石についた折に亀に乗って現われ、道案内をしたと云われています。

「古代:御生(みあ)れの庭」

「大和さざれ石」

境内の外れに建立されていた句碑

2017年4月、文化庁により「元伊勢籠神社」は日本遺産」の「丹後ちりめん回廊」を構成する文化財のひとつに認定されました。

参拝日:2010年11月3日

(2014年11月22日:御朱印参拝のみ、J🐣さん同行)

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ひとしきり降り続いた雨は、誰かの日ごろの行いが良かったのか、参拝が終わるまで小休止で、無事に参拝を終える事が出来ました。今日の日程は異常とも思えるほど密で、最後は駆け足に近い状態でしたが、気持ち的には物凄く充実。雨上がりの夕焼け空は遊覧船乗り場も、彼方に見える天橋立も茜色に染めて怪しいほどの美しさです。

この後は「道の駅:舟屋の里伊根」まで走って、そちらで車中泊をさせて頂きます。綺麗な夕焼けだったのにまたして降り出した雨・・国道から直ぐのだだっ広い駐車場は、舟屋の里伊根のずっと下にある第二駐車場だと気づかず・・・???の中でとにかく就寝準備。しかもご亭主殿は喉の痛みにまして熱まで出てきた様で、自ら痛み止めを飲むと言い出しました。これは間違いなく緊急事態・・もしかしたら明日はこのまま自宅へ直行という選択になるかもしれません。

経過はともあれ、こうして車で旅をする私たちにとって「道の駅」の存在は本当に有難く大切な場所です。今回は駐車場をお借りするだけになりましたが、その節は本当に有難うございました。🙏🙏

 


山王宮(さんのうぐう)日吉神社 in 京都府宮津市宮町

2025年08月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

宮津市宮町、宮津湾を望む松ヶ丘を神域として鎮座される「山王宮(さんのうぐう)日吉神社」。御祭神は『大山咋命(おおやまくいのみこと)、大己貴命(おおむちのみこと)

「社記によれば、平安時代に宮津郷内唯一の古社である杉末神社の境内に、近江の国より「日吉大社」を勧請。江戸時代に入り、歴代宮津藩主は山王宮を宮津の総氏神として藩の守護神とし、神域中央に本殿を始めとする社殿が藩主により次々と造営され、宮津郷の総産土神とされた。」

春の祭礼「山王祭」は江戸時代には宮津藩祭と定められ、藩士もその行列に参加。宮津祭とも呼ばれ、地元では「さんのうさん」、「ひよしさん」と呼び親しまれています。

神社入り口の石段参道より神域を守護されるのは、お顔の造作もあやふやになってしまった出雲丹後系の狛犬さん一対。特に阿形さんは、その造作ゆえに損傷が際立ちます。

想像以上に長い石段参道ですが、途中に息を継げる場所もあり、軟弱者の私も何とか自力で参拝できそう😅 朱塗りの柵に囲まれて天を突くのは、樹齢一千年ともいわれる「御神木・椎」。人間がどんなに長生きできたとしても100年そこそこ・・その10倍の年月を生きてきた御神木の圧倒的なパワーが後押ししてくれます。

石段参道半ばより神域を守護されるのは、出雲丹後系の狛犬さん一対。キリリと伸ばした背筋が印象的。

境内正面、入母屋・銅板葺きの拝殿は、天保5年(1834)に藩主『本荘宗發』によって創建されたもの。府登録文化財の指定。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、何とも素朴な顔立ちの狛犬さん一対。体に似合わず太短い足とか、ぺったんこの頭とか😊 始め狛犬を連想させ、妙に愛着を感じさせます。

府指定文化財本殿は向拝のある檜皮葺・入母屋造りで、貞享5年(1688)、宮津藩主『阿部正邦』により再建。扉上には「三猿像」を配した蛙又があるそうですが見逃したようです。

拝殿前に、江戸時代末期の宮津藩主『本庄宗秀』が寄進したという「八角石灯籠」。全体的に丸を基調としたフォルムは、どこかの民族人形のようで、可愛いというのが第一印象です。

府登録文化財の「境内社:恵比須神社」。御祭神は『事代主命』

「境内社:琴平神社」。御祭神は『大物主命』

琴平神社の拝所左右より神域を守護されるのは、珍しく岡崎タイプの狛犬さん一対。なりが小さいからなのか、何だか可愛い😊

府登録文化財の「境内社:船魂(ふなだま)神社」。御祭神は『猿田彦命』

社殿の縁より神域を守護されるのは、出雲丹後の狛犬さん一対。広くはない隙間にはまり込む様に身をすくめる姿に思わず笑が・・

「境内社:致命壮烈社(ちめいそうれつしゃ)」。御祭神は『護国の御英霊』

神馬の腹掛けの神紋は16枚菊

明日は、山王宮日吉神社の摂社となってしまいましたが、宮津郷内唯一の古社である摂社「杉末神社」を紹介します。

参拝日:2010年11月3日

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『大山咋命(おおやまくいのみこと)』、山王。松尾大社・日吉大社の祭神

『大己貴命(おおむちのみこと)。大国主神、大三輪神、国造りの神、蛇神とされる。


夢コスモス園 in 京都府亀岡市吉川町

2025年08月25日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

亀岡市吉川町穴川地区で毎年10月になると開催される「亀岡・夢コスモス園」。亀岡運動公園体育館の隣、約4.2haの広大な園内には、20種800万本のコスモスが咲き誇り、まさしく関西一の呼び名にふさわしい光景が広がります。

品種が色分けされて並ぶ花畑。視界いっぱいに広がる花の渦の中に埋もれて見上げる空の鮮やかさ。ふと見上げた彼方にうっすらと濃く丹波の山々が顔をのぞかせ、そしてまた鮮やかな花々が視界を埋め尽くす。

休耕田などを利用したコスモス園とか、何度か見に行ったけれど、こんなにも様々に色鮮やかな花に埋もれるなんて、多分初めての経験ではないかしら?

お昼時は、「丹波味わい市」で買っておいた出来立ての「黒豆ごはん」に「栗炊き込みご飯」。この丹波栗の大きな事😆、何だかとっても幸せな気分。

幸せ気分をさらに盛り上げてくれるのが生バンドによる「コスモス演奏会」。カントリーウエスタンの軽快な音にのって、ついついお箸が進み、心が弾みます。

目と耳と舌で存分に楽しんだ後は、再び満開の花の渦の中に。花に浮かれた私たちを出迎えてくれるのは、思い思いに趣向を凝らした「案山子たち」

その時々の時代を反映してか、流行りの映画を題材にしたものが多く並んでいます。創作案山子コンテスト人気投票、私の一押しは「パイレーツオブカリビアンのジョニーディップ」。御亭主殿は。不思議なボディの「スーパーマン」に一票でした。

五感の全部で秋のひと時を満喫した亀岡・夢コスモス園。最後はお土産用の花摘み(有料)。どれにしようかと迷うほど色とりどりのコスモスに心が揺れてます😀

「オータムビューティ」

「ソナタ」

「シーシェル(ピンク)」

「イエローキャンパス」

「ピコティ」

「ダブルクリック」

「サイケ(ホワイト)」

訪問日:2006年10月14日


ふらり亀岡~あちこちウォッチ in 京都府亀岡市

2025年08月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

亀岡市稗田野町、稗田野神社参拝の折にちらりと見かけた「大石酒造・酒の館の酒蔵見学」の看板。丹波と言えば有名な「丹波杜氏」、関西の著名な酒蔵では欠かす事のできない丹波杜氏本場の酒蔵見学・・これはもう素通りできません。

開放された屋外の建物内にも、私には用途の分からない道具たちが整然と並べられており、一つずつきっちりと見て回ったら、余裕で時間オーバーの予感😓

店内に入り、酒蔵を見せて頂きたいのですがと伝えたら、自由に見学くださいと二階へ案内されました。

「ここは戦前から戦後にかけて清酒の仕込蔵として使用した本造蔵です。内部の貯蔵庫は、明治時代の建物で約100年間、原種の貯蔵庫として使用してまいりました。一階は釜場と船場があり、それに仕込桶やタンクが設置されており二階は酛に麹をつくる室があります。」

タンクが並べられた「旧貯蔵庫」の神秘的な静けさ。「製麹室」の奥には白い布をかけられた麹が静かに目覚めを待っています。

館内には酒造りの道具などの他に、本当に種々雑多な「モノたち」が所狭しと並べられています。

古い時代の酒瓶に看板、お酒を楽しむための種々の道具、何もかも目新しくて、何故か懐かしい不思議な感覚。

壁に掛けられたゆかしい飾、もう少し広い玄関だったら真似てみたいね。

思いがけない楽しい時間を過ごし、御亭主殿のたってのお願いで😁「翁鶴:甘辛セット」。私用には「丹波黒豆きんつば」をお土産に酒蔵を後にしました。

「稗田野神社」近くで見かけた「とこなげ山」の碑。帰宅後に調べた所、空海が白鹿に導かれ、松の枝に独鈷杵を見つけた場所とされ、「獨鈷抛(とこなげ)山:千手寺」という名刹があるらしい・・「床」ではなく「獨鈷」なのねと、妙に納得。

街道沿いに二箇所だけ設置されている「人形浄瑠璃台灯篭型バス停」。亀岡市稗田野町地域に伝わる「佐伯灯篭」の舞台となる台灯篭を模したものです。

国指定重要無形民俗文化財「佐伯灯籠」は、五穀豊穣を祈願し、祖霊の冥福を祈る4つの神社の合同祭礼。人形浄瑠璃は、台灯籠と呼ばれる移動式の舞台で演じられる催し物で、独特の構造を持つ35㎝ほどの串人形を1人で操るのが特徴です。

こんな小さな人形たちが紡ぎ出す浄瑠璃の世界・・いつか本物を見てみたいね。

国道372号線篠山街道は灯篭街道と呼ばれ、道路沿いにいくつもの「切子灯籠」がたてられています。

案内には「歴史遺産が多く点在する国道372号線に、灯籠83基、バス停二基を設置し、「灯篭街道」として歴史の舞台を訪ねてほしいとの願いをこめ整備した」旨が記されています。

訪問日:2009年5月30日&2010年6月28日


龍潭寺(りょうたんじ) in 京都府亀岡市薭田野町

2025年08月24日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

亀岡市稗田野町太田東谷に門を構える臨済宗妙心寺派「金剛山:龍潭寺(りょうたんじ)」。京都の世界遺産・「龍安寺」、南丹市八木町の「龍興寺」とともに「妙心寺派の三龍寺」と呼ばれます。

「妙心寺第六世『雪江宗深』が庵を設け、大梅寺というお寺とした後、弟子である『特芳禅傑』が移り住み開山。古い室町時代の典籍や絵画などが数多く残され寺宝とされています。昔から子供のかん虫に効き目があると広く信仰を集めてきました。」

境内にあった露岩を生かした庭園は、府の名勝に指定されているようですが・・庭園というありきたりの言葉では言い表せない、神秘で幽玄な景色が広がっています。

庭園の一画に「故陸軍歩兵二等卒堤市之助碑」

底の深さも見分けられない池の畔、うち捨てられたかのように苔むす巨石・・・生い茂る草木

名もなき石仏たちは一つに集められ、幾年も、行きかう人々を静かに迎え、見送ってきたのでしょう。

経蔵の屋根から境内を見守る龍の姿が目に残る・・

木々に隠れるように左手に建つ「経蔵」、右手に「開山堂」が並びます。

経蔵の天井から下界を見下ろす龍の圧倒的な力強さ。できれば真下から写したかったのですが・・

あれもこれも、見た筈なのに何にも残していない・・まるで素通りしてしまった感が否めません。本来であればもう少し丁寧に参拝しなければと思いつつ、次を急いでしまうこの貧乏性、改善できそうにありません😅

参拝日:2010年6月28日


穴太寺(あなおじ)in 京都府亀岡市曽我部町

2025年08月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

亀岡市曽我部町穴太東辻に門を構える天台宗寺院「菩提山・穴太寺(あなおじ)」『薬師薬師如来』を本尊とします。西国三十三所第二十一番札所、御本尊は『聖観世音菩薩』。

 宝永2年(1705)の再建とされる仁王門(京都府指定有形文化財)の内陣より境内を守護される仁王像。木肌の感じからそれほど新しいとも思えませんが、ボディビルダーのような上半身が朱の色と相まって独特の雰囲気を醸し出しています。

穴太寺観音縁起によれば「慶雲2年(705)、文武天皇の勅願により大伴古麻呂が開創したとされる。応仁の乱の戦火によって伽藍が被害を受ける。天正年間(1573年 - 1593年)には、明智光秀の丹波攻めに巻き込まれて焼失。17世紀中頃に行廣上人が再興。享保13年(1728)に本堂が焼失するが、享保20年(1735)に再建している。明治29年(1896)に本堂の天井裏から釈迦涅槃像が発見された。」

京都府指定有形文化財の本堂 は、享保20年(1735)の再建。内陣に鎌倉時代の作とされる木造釈迦涅槃像(なで仏)が安置され、布団が掛けられており、自分の体の病のある部分と同じ涅槃像の体の部分を触ると参拝者の病気がよくなると伝わります。

今回「涅槃像」は拝観できませんが、本堂の縁に座し、人々の痛みを和らげるとされる「賓頭盧(おびんづる)さま)」を撫でさせていただきました。こちらの賓頭盧さま・・見知った人に妙に似ていて、何故だか目の奥に熱いものが・・

広い境内には沢山の伽藍があり、半数以上が府または市の文化財に指定されています。仁王門を入ってすぐの左手に建つ「多宝塔 」は、京都府指定有形文化財。文化元年(1804)の再建。

朱塗りの玉垣の中に鎮座される「鎮守堂(天満宮)」。18世紀中期の建立とされ、府登録文化財に指定されています。

玉垣の内より聖域を守護されるのは浪花系の狛犬さん一対。しっかりと四肢を踏ん張りつつ、にこやかに参拝者を出迎えてくれます。

「仁王門」をくぐった直ぐ右手に、亀岡市指定有形文化財の「鐘楼」。宝暦9年(1759)の建立。

本堂の屋根より境内を見守る留め蓋の獅子さん。一見同じように見えますが瓦が焼かれた土地によってそれぞれに特徴があり、それを見るのも私たちの楽しみの一つ。

できれば阿吽の一対で画像に残したいのですが、何しろおいでになる場所が高所過ぎて、その上持っているデジカメはお財布にやさしい代物なので😅

もっと余裕をもって参拝すれば、まだまだ多くの建築物に出会えたのですが、どうしても一度外に出るとあそこもここもと欲張って後で「しまった!」と後悔することになります。と言いつつ、毎回同じ後悔を繰り返しています😁

ご詠歌【かかる世に 生まれあふ身のあな憂(う)やと 思はで頼め 十声一声(とこえひとこえ)】

穴太寺の近くに建之されていた「圓山応挙誕生地」碑。江戸時代、1733年、円山応挙は、丹波国桑田郡穴太村(亀岡市)の農業・丸山藤左衛門の次男に生まれ、9歳のころ金剛寺に小僧として入門。絵の才能を見出され狩野派:石田幽沈に弟子入りし、その後写実を基本とした円山派を樹立します。「足のない幽霊」を描き始めた最初の画家とも言われています。

参拝日:2010年6月28日