古くから、越前・美濃両国を結ぶ交通の要所として栄えてきた大野。天正3年、『織田信長』より越前一向一揆を平定した恩賞として越前国大野郡内の三万石を与えられた『金森長近』は、最初の居城であった戌山城の近く亀山に、四年の歳月をかけて越前大野城を築きました。

また、築城と共に城下の整備にも着手し、京都に似た碁盤目状の城下町を形成。今もその面影を残す大野の町並は「北陸の小京都」とも呼ばれ、400年以上の歴史を持つ「七間朝市」と共に、多くの人たちが訪れる観光名所として知られています。

大野城への登城には「西登り口、南登り口、北登り口」の3ヶ所があります。観光案内所で頂いた説明では、「南登り口は景観も良く登りやすい、大野城まで徒歩約20分」とあったので、ここからお城を目指すことにしました。観光用に建てられた「城門」をくぐり、長い坂道を歩くのですが、生憎の小雨に祟られ、歩き難い事、この上ない(^^;)

登山道の途中に、安政年間に大野藩が建造した洋式帆船大野丸の碑。蝦夷地開拓と交易のため蝦夷地との間を幾度も往復した「大野丸」でしたが、元治元年(1864)八月、根室沖で座礁、沈没したとあります。

息を切らしつつ辿り着いた休憩所、出迎えてくれたのは、大野藩七代藩主『土井利忠(どい としただ)公』像。彼の業績はネットでググっていただければ詳細がありますが、困窮した藩の財政を官民一体となって成し遂げ、後の世までも「名君」と呼ばれた人物です。

やっと城門に到着!ですが、実はこれも模擬城門(^^;) まぁそれでも雰囲気だけはお城の入り口まで来た!と思えるのですから、やはり「形」を整えると言うのは凄い事なのです(笑)

更に長い坂道を上った先がちょっとした広場になっており、目指す天守も目の前です。天守台の右手に見える石段は、駕籠に乗ったまま登城できることから、「駕籠道」と呼ばれています。

現在山頂に建つ天守は、昭和43年に往時の絵図や、創建当時の同時期の他の城の天守を元に、鉄筋コンクリート構造によって推定再建されたものだそうです。もとは望楼付きの大天守に小天守、天狗櫓が付属された、複合連結式の天守だったそうで、現天守は、史実に基づいた復元再建ではないとのこと。とこれは説明版の受け売りで、実は何がどう違うのかよくわかっていません(^^;)


これが小天守と呼ばれる「天狗櫓」、こうして外から見る分には、お城はやっぱりそれなりに魅力があり、ここまで来た苦労が報われると言うもの(笑)、でも内部は当然、近代的建築の博物館。正直その手の内容にはあまり興味が無いので入城はせず、周囲の散策だけに時間を費やしました。

当時の姿を今に留めるものは山頂の石垣と堀などごく僅か。その石垣に設けられた急な石段は「武者登り」。階段を上った先が枡形になっており、容易に敵の侵入を許さない構造になっています。

眼下に見える大野の町並み、小雨の中にけぶる山並みは幻想的で美しく。言葉もなくその景色に見とれていると、目白押しのスケジュールの存在を忘れてしまいそうになります。

天守の直ぐ近くに、山の緑を映しこんだ「お福池」。名前の由縁は『金森長近』の正室・『お福』からだそうですが、こんな山の上なのに枯れない池があるというのは驚きです。

大野市は四方を山々に囲まれた盆地に位置します。幾つかの気象条件がそろった時に見ることができると言う「天空の城」。ちなみに時期は11月頃 時間は夜明け~午前9時頃、前日の湿度が高く、前日の日中と翌日朝方の気温差が大きいこと 風が弱いこと等々・・この条件が揃ったとき雲海が現れ、まるで城が浮かんでいるように見えるんだそうです。そんな条件をクリアするのは絶対に無理なので、観光案内所で頂いたポスターで我慢(笑)

大野城はその後、土井氏が定着するまで何度も城主が入れ替わり、安永4年(1775)には城を焼失しています。その後の寛政7年(1795)に天守を除いて再建が成され、明治までは大野藩の藩庁が置かれていました。やがて迎えた明治維新後、城の部材は入札により商人などに払い下げられ、約290年の越前大野城の歴史に幕が下ろされました。

「勝山頂上 海抜249m 1983年10月23日」 「越前大野城(おおのじょう)」は2017年、「続日本100名城」(138番)に選定されました。

訪問日:2012年6月13日