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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

総社穴馬神社 in 福井県大野市和泉

2016年06月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

大野市野尻、九頭竜川沿いに鎮座される「総社穴馬神社」。御祭神は『天照皇大神・伊弉册尊・天兒屋根命・譽田別尊』

御由緒に【氏神として相応の社がありその内八社即ち春日神社(鷲)・神明神社(長野)・立合神社(影路、野尻)・春日神社(大谷)・神明神社(米俵、久沢)・神明神社(伊勢)・白山神社(持穴、箱ヶ瀬、池ヶ島)・神明神社(下半原、上半原、東市布)の資産を以ってこの社殿を建立し、他の五社(久沢一社、荷暮二社、下半原一社、上半原一社)の祭神をも合祀しここに穴馬総社として崇敬し幾久しく郷土を偲び祖先の冥福を祈り併せて我等及びその子孫の安泰を希い願うものである】

九頭竜ダムの建設によって、九頭竜湖の水底に沈んだ和泉村の民家530戸余・・・それに至るまでの経緯は、部外者である私たちには到底知る由も有りません。

古の頃より村内の産土神として崇敬された氏神様たち。今は湖を見下ろす高台に設けられた白いコンクリート製の社殿に鎮座され、過ぎ行く時を見守っておられるようです。

拝殿横の境内周辺には、合祀された神社の社号標がいくつか残されています。木々の緑も、生い茂る草の色も違っているとしても、吹き抜ける風はきっと同じに違いない・・・・そんな事を思いながら、それぞれに手を合わせる🙏🙏🙏

本来であれば厳つい顔に刻まれる狛犬さん。こうして見ているととても優しげで、そしてとても寂しげに見えるのです。由緒から想像される当時の氏子さんたちの捨てがたい故郷への想いが、そんな風に見せているのかもしれません。

参拝日:2012年6月13日

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ご当地マンホール in 福井県旧和泉村(大野市)

2016年06月29日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・福井県

旧大野郡和泉村(いずみむら)は福井県の最東端に位置した村です。大野市に。また県を跨いで岐阜県郡上市、関市、本巣市に隣接。村域は県境付近の高い山々のそびえる場所に位置し、村内を九頭竜川が貫流。長野字船久保には、かつて「長野ダム」と呼ばれた高さ128メートルのロックフィルダム「九頭竜ダム」が、まさに聳え立っています。

山々の色を写し込む「九頭竜湖」の美しさにしばし見惚れて・・・・。「村の木:ブナ」「村の花:シャクナゲ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により大野郡下穴馬村・上穴馬村が発足。

1896年、大野郡下穴馬村から石徹白(いとしろ)村が分離独立、大野郡石徹白村となる。

1956年、下穴馬村・上穴馬村が合併、大野郡和泉村が発足。

1958年、和泉村が大野郡石徹白村三面・小谷堂を編入(残った地域は岐阜県白鳥町に編入)。

2005年、大野市に編入。これにより大野郡は消滅しました。

和泉村には独自のデザインマンホールはありませんが、唯一、村章のある防火貯水槽を見つけることが出来ました。

昭和37年(1962)6月22日制定の村章は「「い」の字を図案化し、旧下穴馬 と旧上穴馬村の合併を表現したものです。」

旧下穴馬と旧上穴馬村を象徴するかのように、和泉村の村章を挟んで「馬」がデザインされた樹木カバー。

撮影日:2012年6月13日

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篠座(しのくら)神社 in 福井県大野市

2016年06月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

大野市篠座に鎮座される「篠座(しのくら)神社」

延喜式神名帳に掲載される古社。元亀年間、朝倉氏の兵火により滅亡しましたが、大野城主『金森長近』により再興され、以降、歴代藩主より厚い保護を受けてきました。

御祭神は『大己貴大神(おおなむちのおおかみ)』、相殿に『少彦名命・市杵嶋姫命・豊受姫命・譽田別尊・木花咲耶姫命』を祀ります。

【養老元年に泰澄大師が麻生津から白山登拝を思い立ち、大野に到着したとき、南の方の林、清水湧き流れ出る所(篠座)に十日ばかり過ごされた。白山登拝の後、 再び篠座に還られたとき、虚空に声があって「我は大己貴命なり。かかる林泉の勝地であるから常に心を楽しませて降遊する」とのお告げがあり、泰澄大師は一 つの祠を営み、影降の尊容を刻んで安置申し上げた。】神社HPより

拝殿左手に鎮座される「秋生神社」。昭和30年の「笹生(さそう)川ダム」建設に伴い、笹生川沿いにある上秋生(かみあきゅう)の「白山神社」、下秋生の「八幡神社」を合祀し、「篠座神社」境内に創設されました。

境内の右手奥には、「篠座目薬」として古くから眼病平癒にご利益があると伝えられる「御霊水」と天女ヶ池があり、池の中島には「境内社:磐座神社」が祀られています。

天女ヶ池の先に祀られる社は「篠座弁財天」。御祭神は『市杵島姫命』

拝殿内には木彫りと思われる異国風味の狛犬さんが、何ともいえぬ表情で出迎えてくれました。

こちらの「神馬舎」は絵馬殿も兼ねているのでしょうか?御神馬を取り囲むように四方の壁にずらっと並んだ奉納絵馬は、まさに「絵馬」の名の通り、殆どが馬の絵。

その御神馬をお守りされているのは、小さいながらも思わず「オッ!」と思わせる狛犬さん一対。形としては神殿狛犬にも似ていますが、それにしても良い出来です。

参拝を終え車中から見上げた先、ちょうど神社の後方に美しい姿の「飯降(いふり)山」が見えました。春分・秋分の日には、鳥居・社殿の延長線上である山頂に日が沈むと言い、その神秘な姿を「御岳(おたけ)さん」と呼び、神の山と伝えられています。

参拝日:2017年9月30日

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越前大野城(えちぜんおおのじょう) in 福井県大野市

2016年06月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

古くから、越前・美濃両国を結ぶ交通の要所として栄えてきた大野。天正3年、『織田信長』より越前一向一揆を平定した恩賞として越前国大野郡内の三万石を与えられた『金森長近』は、最初の居城であった戌山城の近く亀山に、四年の歳月をかけて越前大野城を築きました。

また、築城と共に城下の整備にも着手し、京都に似た碁盤目状の城下町を形成。今もその面影を残す大野の町並は「北陸の小京都」とも呼ばれ、400年以上の歴史を持つ「七間朝市」と共に、多くの人たちが訪れる観光名所として知られています。

大野城への登城には「西登り口、南登り口、北登り口」の3ヶ所があります。観光案内所で頂いた説明では、「南登り口は景観も良く登りやすい、大野城まで徒歩約20分」とあったので、ここからお城を目指すことにしました。観光用に建てられた「城門」をくぐり、長い坂道を歩くのですが、生憎の小雨に祟られ、歩き難い事、この上ない(^^;)

登山道の途中に、安政年間に大野藩が建造した洋式帆船大野丸の碑。蝦夷地開拓と交易のため蝦夷地との間を幾度も往復した「大野丸」でしたが、元治元年(1864)八月、根室沖で座礁、沈没したとあります。

息を切らしつつ辿り着いた休憩所、出迎えてくれたのは、大野藩七代藩主『土井利忠(どい としただ)公』像。彼の業績はネットでググっていただければ詳細がありますが、困窮した藩の財政を官民一体となって成し遂げ、後の世までも「名君」と呼ばれた人物です。

やっと城門に到着!ですが、実はこれも模擬城門(^^;) まぁそれでも雰囲気だけはお城の入り口まで来た!と思えるのですから、やはり「形」を整えると言うのは凄い事なのです(笑)

更に長い坂道を上った先がちょっとした広場になっており、目指す天守も目の前です。天守台の右手に見える石段は、駕籠に乗ったまま登城できることから、「駕籠道」と呼ばれています。

現在山頂に建つ天守は、昭和43年に往時の絵図や、創建当時の同時期の他の城の天守を元に、鉄筋コンクリート構造によって推定再建されたものだそうです。もとは望楼付きの大天守に小天守、天狗櫓が付属された、複合連結式の天守だったそうで、現天守は、史実に基づいた復元再建ではないとのこと。とこれは説明版の受け売りで、実は何がどう違うのかよくわかっていません(^^;)

これが小天守と呼ばれる「天狗櫓」、こうして外から見る分には、お城はやっぱりそれなりに魅力があり、ここまで来た苦労が報われると言うもの(笑)、でも内部は当然、近代的建築の博物館。正直その手の内容にはあまり興味が無いので入城はせず、周囲の散策だけに時間を費やしました。

当時の姿を今に留めるものは山頂の石垣と堀などごく僅か。その石垣に設けられた急な石段は「武者登り」。階段を上った先が枡形になっており、容易に敵の侵入を許さない構造になっています。

眼下に見える大野の町並み、小雨の中にけぶる山並みは幻想的で美しく。言葉もなくその景色に見とれていると、目白押しのスケジュールの存在を忘れてしまいそうになります。

天守の直ぐ近くに、山の緑を映しこんだ「お福池」。名前の由縁は『金森長近』の正室・『お福』からだそうですが、こんな山の上なのに枯れない池があるというのは驚きです。

大野市は四方を山々に囲まれた盆地に位置します。幾つかの気象条件がそろった時に見ることができると言う「天空の城」。ちなみに時期は11月頃 時間は夜明け~午前9時頃、前日の湿度が高く、前日の日中と翌日朝方の気温差が大きいこと 風が弱いこと等々・・この条件が揃ったとき雲海が現れ、まるで城が浮かんでいるように見えるんだそうです。そんな条件をクリアするのは絶対に無理なので、観光案内所で頂いたポスターで我慢(笑)

  

大野城はその後、土井氏が定着するまで何度も城主が入れ替わり、安永4年(1775)には城を焼失しています。その後の寛政7年(1795)に天守を除いて再建が成され、明治までは大野藩の藩庁が置かれていました。やがて迎えた明治維新後、城の部材は入札により商人などに払い下げられ、約290年の越前大野城の歴史に幕が下ろされました。

「勝山頂上 海抜249m 1983年10月23日」 「越前大野城(おおのじょう)」は2017年、「続日本100名城」(138番)に選定されました。

訪問日:2012年6月13日

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柳廼社(やなぎのやしろ) in 福井県大野市

2016年06月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

大野市亀山、亀山の登り口に鎮座される「柳廼社(やなぎのやしろ)」。御祭神は名君と謳われた幕末の藩主『土井利忠公』。社名は利忠公の雅号である「柳涯(りゅうがい)」に由来します。

参道鳥居の左手に、明治22年(1889)建築の裁判所を移築した「大野市民俗資料館」。明治から昭和にかけての生活用品が展示されていますが、とりあえず周辺だけを見て満足(笑)

「柳廼社」の創建は明治15年、元は柳町通りに鎮座されていましたが、のちに現在地に移されました。

拝殿の明るさに比較して薄暗く見える本殿ですが、これは一重に参拝した年の違いと、その日のお天気のせい。でもこんなに違って見えるんですね・・(^^;)

拝殿前より神域を守護されるのは、低く構えの姿勢で参拝者を見る狛犬さん一対。お顔も全体の形も角ばっていて、ちょっと異質な感じ。それがまたご亭主殿には魅力的だったようで、嬉しそうにお顔を撫でています。

顎のあたりを撫でられてこんな姿勢を取る仔・・・うちにも居るね~と笑いあった事が悲しく懐かしい。

境内には、『土井利忠公』を支えた三人の家老の顕彰碑が建立されています。『内山良休翁』は地場産業奨励に尽力し、「藩店:大野屋」を大阪等に三十店余開き、直接販売を通して利益を上げ、藩財政の立て直しを図りました。『中村矩倫翁』は、藩政改革の際に政務の一切を委任され、士風刷新に尽力。『寛斎先生(内山隆佐)』は蝦夷地開拓、大野丸建造に尽力したとあります。

拝殿の左に鎮座されるのは創建当初の「柳廼社」の古い拝殿。隣には朱の鳥居の稲荷社も鎮座されます。

この奥に見える道は大野城址への上り口へと続いています。当初「大野城址」は予定していなかったのですが、ここまで来て登り口を見てしまったら、もう行くしかないでしょう😁。

参拝日:2012年6月13日

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大野城下:御清水巡りの町歩き~其の三 in 福井県大野市

2016年06月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

楽しい買い物タイムも終わり、そろそろもと来た方向に向かう事にしましょうか。城下町ならではの旧跡は「武家屋敷旧内山家」。幕末期、大野藩の財政再建に大きな功績を残した家老『内山良休・隆佐』兄弟を輩出した屋敷です。

明治34年(1901)4月、この場所に福井県立福井中学校大野分校が開校。明治38年に「福井県立大野中学校」となり、昭和23年の学制改革により高等学校として発足。1993年の学舎移転に伴い、92年間の歴史を記念した「大野中学校・大野高等学校跡の碑」が建立されました。

さぁ、いよいよ最後の御清水です。水の町として知られた大野には、湧水地が街のいたるところにあります。なかでも泉町の御清水は環境庁名水百選にも選ばれた味わい豊かな水で、古くはお殿様のご用水として使われていたことから「殿様清水」とも呼ばれています。

2012年と2018年の訪問では、こちらで美味しいお水をたっぷりと頂いて帰りました。おかげで帰宅してからの珈琲タイムが待ち遠しいほど・・・本当に感謝です。

「殿様清水」の直ぐ近くに、「羽二重伝習所跡」の小さな碑があります。【明治時代、福井を中心に輸出用羽二重織物の 生産が盛んになり本町においても生産が開始されました。 大野の機業場の一つである斎藤機業場は 明治25年に創業。 創業者の『斎藤顕氏』は明治27年に機業敷地内に 羽二重伝習所を設け、京都などの先進地から 新しい織機を導入し技術者を招いて 織物技術の普及、向上に努めました。 この伝習所が大野で輸出用羽二重の生産が 盛んになるきっかけとなったと言われています。】説明版より

また敷地内には「芹川用水」と刻まれた碑も建立。南部の湧き水を集めて流れる水路は、義景清水付近で2手に分かれ、一方は新堀から赤根川に、もう一方は本町と柳町の間を通って水落町に至ります。

武家屋敷地の東を流れる芹川用水、その排水路はいまも江戸時代のものが使われているそうです。

マンホールカードを頂く為に立ち寄った「本願清水イトヨの里」、観光目的ではないので「イトヨ」が生息している場所も未確認のままです(^^;) もう少し真面目に周囲の散策をするんだったと、後になって後悔。まぁ・・いつもの事です。

訪問日:2012年6月13日&2018年10月15日

 

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大野城下:御清水巡りの町歩き~其の二 in 福井県大野市

2016年06月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

大野の名物?と言えば、なんと言っても七間通りで開催される「七間朝市」

毎年春分の日~大晦日までの朝7時~11時頃、農家のおばちゃん達が丹精込めて育てた農産物や、お手製のスイーツ、手仕事の工芸品などが並べられ、賑やかなやり取りがそこかしこで聞かれます。

大野市の観光キャラクター『うぐピー・うめピー』も顔出しになって朝市の賑わいに花を添えています。

とあるお宅の中二階の壁に、ご亭主どの大好物の「鍾馗さん」を見つけて、思わず興奮(笑) 北陸地方の旅で「鍾馗さん」に出合ったのはもしかして今回が初めてかもしれません。

ちなみに「鍾馗さん」が睨みを利かせる屋敷の前には、「越前之国 大野藩札両替所跡(明治五年十一月)」「越前之国 郵便発祥之地(明治四年四月二十日)」の碑が建てられています。

独特の香ばしい香りに誘われてふらっと立ち寄った先は「山元醤油味噌」。90年間、昔ながらの木桶で熟成させて作る醤油は、かすかな甘みさえ感じられ、手作り醤油ならではの深い旨味が脳内を刺激します(笑)

つい今しがたまで、J🐣さんとお醤油を吟味していたと思ってたのに、不意に姿を消したご亭主殿。きょろきょろと辺りを見回し、探していたら、とあるお店の中に。明治時代後期より、清酒「花垣」醸造元として100年をこえる歴史を歩んできた「南部酒造」さん、さすがと思わせる佇まいに、ご亭主殿、思わず足が吸い寄せられたようです。

その「南部酒造さん」の角に、醸造用にくみ上げている地下水を手軽に飲めるように開放した「七間清水」があります。とりあえずこちらでも一口、柔らかい味わいは、少し歩きつかれて渇いたのどを優しく潤してくれました。

あっちにふらり、こっちにふらり、なるべく荷物にならないように買い物は控えようねといっていたのに、いつの間にか両手一杯の荷物(^^;)

それでも旅の楽しさは、ご当地の美味しいものに出会うこと、待つ人へのお土産選び、何だかんだと賑やかに笑いながら歩いていた私達の足を止めたのは・・・・ヽ(゚ロ゚;) 

・・・・なんだか、見てはいけないものを見てしまった・・そんな感じです。

「御清水巡りの町歩き」~其の三に続きます

訪問日:2012年6月13日&2017年9月30日

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須部神社:恵比寿神社 in 福井県若狭町(旧三方町)

2016年06月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

若狭町末野字神ヶ谷に鎮座される「須部神社:恵比寿神社」。御祭神は『蛭子大神(恵比須大神)・ 大国主大神(大己貴命)・陶津耳之命(すえつみみのみこと)』

町指定重要文化財の朱塗りの鳥居は、正保2年(1645)、若狭藩主『酒井忠勝公』より寄進。生憎の逆光で、朱塗りと分からないのが辛いところ(^^;)

「当式内:須部神社は御祭神により 恵比須神社(えびすさん) また  西の神さん と称されております。須部神社の創祀は、養老2年(718)9月28日 恵比須大神が末野の地に顕れ、翌養老3年(719)3月23日 社殿を建て祀ったと伝えられております。陶津耳之命はこの郷土末野(陶恵又は須恵)の産土の神として祀られています。往古(約千三百年前)よりこの地には祝部(はふりべ)土器、須恵器が産出され、陶業を司る祖神、文化発展の神として崇敬されています。」公式HPより

朱塗りの鳥居を潜り割拝殿を奥に進むと、非常に開放的で明るい拝殿へと至ります。

その拝殿横より神域を守護されるのは、何タイプに分類すればよいのか迷ってしまう、安政6年(1859)己未3月建立の狛犬さん一対。耳元から顎にかけての毛並み、体に刻まれた獅子紋等々、いずれも個性的で記憶に残る狛犬です。

台座の足元には、越前かむろ型狛犬さん。なぜか画像はこの二枚とアップが一枚のみ・・・右の画像が相方の後ろ姿であれば良いなと心底思います(^^;)

さらに足元にはもっと小型のかむろ型狛犬さん一対。かむろという言葉からこれほどかけ離れた顔立ちと言うのも、ある意味面白すぎます。

境内の一画に奉納されていた「鯛」は、昭和25年(1950)10月大祭日建立。御祭神の恵比須大神は、漁業の守護神とされます。

御祭神の蛭子大神は、幼にして親に離れご努力の末、生業の道を拓かれた生い立ちと御実蹟により「子共之守り神」として特殊信仰がなされています。

鐘楼

参拝日:2012年7月10日

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御神名一口メモ

『陶津耳之命(すえつみみのみこと)』、「大物主神」の妻となった「活玉依毘売」の父。

 

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宇波西(うわせ)神社 in 福井県若狭町(旧三方町)

2016年06月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

若狭町気山字寺谷に鎮座される「宇波西(うわせ)神社」。御祭神は『彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)』延喜式神名帳では名神大社に列し、北陸道の352座の神社の中で唯一、月次・新嘗の幣帛に預る神社とされます。

由緒「社伝によれば、御祭神鵜草葺不合尊と伝えられ御母豊玉姫が海辺で鵜の羽などを葺草にまぜて産殿の屋根を葺かれ、それができあがらないうちに御安産されたので右のような御名を奉られたという。 古来漁猟又安産の守護神として崇敬されている。古伝によると文武天皇の大宝元年(701)日向浦に垂跡あって、同年3月8日に上野谷に遷られ、大同元年(806)3月8日更に現在の地に御鎮座されたという。 建武・元亀年間再度兵火の為に炎上。現在殿は嘉永4年(1851)に造営された。」福井神社庁HPより

神橋を渡った先はさらなる神域。

清めの水を吐くのは「鵜」。はるかな昔、『鸕鶿草葺不合尊』の所在を漁師の六郎右衛門に伝えたことから、此処では「鵜」が神使いとされています。

手水鉢は三百二十余年前、浦見川開削を成し遂げた『行方久兵衛』が寄進したもので「寛文三年癸卯(みずのとう)暦 五月吉日施主敬白」と刻まれています。

手水舎の傍らに奉納された石灯籠、よく見ると宝珠の部分に小さな狛犬が乗っかています。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、出雲丹後系の狛犬さん一対。阿形さんは左に子狛を連れ、吽形さんは毬らしきものに右手をかけています。

阿形さんの足元からこっそりと振り返る仔狛さん。大切な尾が欠けてしまったのがとても痛々しい・・・

拝殿の向背には「波間に戯れる鵜」。ふつうであれば「龍」が使われる場所の大半が「鵜」にとって変わられ、いかに「鵜」が重要な役目を果たしたかが、随所に示されています。

祈願絵馬に描かれているのは、毎年4月8日に宇波西まつりで「王の舞」を演じる舞人がつける鼻高の朱面。豊作や豊漁、そして国の平安を祈って演じられる「王の舞」は中世頃より始まったと言い伝えられており、他の二つの舞と共に国の選択無形民俗文化財に指定されています。

社殿左側 の境内に、樹高:約 28m、幹回り:5.07m、樹齢800年以上といわれる、町指定天然記念物の御神木の大杉。幹の先端は、明治にあった大火の延焼で枯れ、また平成になってからの落雷を幹に受け、樹皮がはがれることもあったそうです。多くの人の手によって守られてきた御神木は、大きく枝を広げ空に向かって聳え立っています。

参拝日:2012年7月10日

 

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ご当地マンホール in 福井県旧三方町(若狭町)

2016年06月10日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・福井県

旧三方郡三方町(みかたちょう)は福井県の西部、綾南地域に位置した町です。遠敷郡上中町・三方郡美浜町・小浜市に、さらに800m級の比較的低い山々を境に滋賀県高浜市と隣接。国指定の名勝で、若狭湾国定公園に属する「三方五湖」のある町として、また我がご亭主殿共々に敬愛する「大日本帝国海軍軍人:第六潜水艇艇長・佐久間勉氏」の出身地として知られています。「町の木:しい」「町の花:梅」を制定。

旧キャッチフレーズは、「いつもあなたの“みかた”です」

明治22年(1889)、町村制の施行により、三方郡八村・西田村・十村が発足。

1953年、八村・西田村が合併、三方郡三方町が発足。

1954年、三方郡十村を編入。

2005年、遠敷郡上中町と合併、三方上中郡若狭町となりました。

マンホールには「三方五湖」「梅丈岳」「町の花:梅」と、特産の「梅の実」が描かれています。

昭和34年(1957)4月1日制定の町章は「平和と将来の発展を表したもの。中の丸は平和を表し、「三方」の三を図案化したもの。△は 将 来の発展と、「三方」の方を表し、三方五湖を図案化。全体は梅の花を表現。」合併協議会資料より

規格タイプの農業用水仕切弁

撮影日:2008年6月1日

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忘れがたい記憶

2001年8月16日、タンデムで出かけた三方町で、三方五湖周遊の遊覧船を楽しんだことがあります。トップの画像はその帰路のもので、この後、カーブを曲がり切れず、引きずられるように横転。投げ出された体はそのままの姿勢で5m先まで・・・音のない真っ白な世界の先に、なぜか、頑固でわからずやだった父の顔が見える。泣くような声で私を呼ぶ声が聞こえる。ふっと・・目を開けた先はヒビだらけのシールド、その向こうに広がる青い空。現実の色を取り戻した瞬間、体中を襲う痛み。「ごめんね、ごめんね」とうわごとの様に繰り返しながら抱き起すご亭主殿の上着に染み出す血の色・・生きてる・・と思った瞬間涙が止まらず、まるで子供のように泣いていた私・・・その間にも、窓からこちらを見ながら何台かの車がすぐ横を通り過ぎていく。満身創痍のマグナ君にのり、町中で最初に見つけた小児科の玄関をたたいて応急処置をしていただき。ぼろぼろの体で、それでも見慣れた家々の灯りが近づき、無事に自宅にたどり着けた時の安堵感は、とても言葉では表せません。夜間救急外来で、ぐしゃっと骨折した指のレントゲンを見せられて、改めて無事に我が家に帰れたことを真剣に感謝しました。以来、長く若狭方面へのタンデムが出来なかった苦い思い出があります。バイクから車に変わっても、その恐怖を克服する為に実に七年の歳月を要しました。

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