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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 福井県越前町・旧朝日町

2016年04月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

丹生郡越前町(えちぜんちょう)は福井県の嶺北地方西端、日本海に面する町です。2005年2月1日、丹生郡旧越前町、朝日町、織田町、宮崎村が合併、改めて越前町が発足しました。福井市、鯖江市、越前市、南条郡南越前町に隣接。日本海に面した西端の越前岬より南側は若狭湾に属し、その断崖の海岸が続く越前地区の東に標高500m前後の丹生山地を隔てて独立した盆地となっている織田地区、ここから川の下流へ進み、谷間の宮崎地区を経て、朝日地区の東端部にある役場周辺は鯖江盆地と一体の平坦地となっています。古くから越前焼陶器の産地としても知られ、町内には数多くの窯元が所在。また若狭湾東端に面する越前岬は、越前加賀海岸国定公園の特別保護区に指定されています。「町の木:竹」「町の花:水仙」「町の鳥:カモメ」「町の魚:越前がに」を制定。

キャッチフレーズは「人と技 海土里(みどり) 織りなす 快適なまち -越前 E-town brand の創造-」

2005年2月1日制定の町章は「越前町のイニシャル『E』をモチーフとし、「生き生きとした町民の姿」と「人と技 海土里 みどり 織りなす快適なまち~越前」をイメージしている。」公式HPより

 

降り始めた雨の中、道すがらに見つけたのは所在不明の規格マンホールのみ。はて、これはいずこの自治体に属しているのか??

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旧丹生郡朝日町(あさひちょう)は福井県中西部に位置した町です。福井市、鯖江市、丹生郡清水町、織田町、宮崎村に隣接。町域の東部は武生盆地北西部の豊かな水田地帯、西部は丘陵性の丹生山地からなり、北部の西田中は天王川の小扇状地にのる谷口集落で、鯖江と織田、越前海岸との中継ぎ商業地として発展。機業や農機具製造等が行われてきました。またホッケーの町・マリンバの町としても知られています。「町の木:杉」「町の花:サザンカ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により丹生郡朝日村・常磐村・糸生村(いとうむら)が発足。

1946年、朝日村が町制を施行、丹生郡朝日町となる。

1951年、丹生郡常磐村大字境野・茱原・頭谷・青野・金谷区域を編入。

1955年、丹生郡糸生村と合併、改めて朝日町が発足。

2005年、越前町、織田町、宮崎村と合併、越前町となりました。

マンホールには町章を中心に「町の花:サザンカ」が四分割でデザインされています。

昭和36年(1961)4月1日制定の町章は「朝日町の「ア」の文字を図案化したもので、丸く円にすることによって町民の和と団結を表し、矢印によって町の躍進を表現しています。」合併協議会資料より

「町の花:サザンカ」がデザインされた側溝蓋

降り始めた雨は次第に激しさを増し、さすがに雨の中のマンホール探しは無理と判断。無理やり撮影できたとしても、見返して「こんなんじゃぁダメだ」となるのは目に見えている。という事で2012年の福井越前町のご当地マンホールは、旧越前町、旧織田町、旧宮崎村を残したまま、予定半ばの車泊旅と共にこれにて終了。あとはひたすら帰路を目指します。

撮影日:2012年6月16日

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陰陽道のふるさと in 福井県おおい町名田庄

2016年04月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

その昔、「安倍晴明」を題材にした小説を読み、小説から漫画に手を伸ばした時点で、描かれる主人公の妖しい美しさ&神秘さに、乙女(一応)心を鷲掴みにされてからウン十年😅

流石にそんなときめきもすっかり忘れていた今頃に、福井県の鄙びた土地で相まみえた「陰陽師」所縁の地。陰陽師と言えば京の都という謎の固定観念があったせいか、かなりビックリ。平安時代中期に陰陽頭となり代々陰陽頭を務め、陰陽道、天文道、暦道をもって朝廷に仕えた「安倍晴明」。遠い昔のワクワクが唐突に蘇ってきました。

静かな山間の一隅に建つ「陰陽道宗家 天社土御門神道 本庁天社宮」【陰陽道を捧げて ここに五百年 安家 中葉の跡どころ 此処 奥名田の加茂に詣で かえりみれば古城の跡 芒の丘に虹立ちて】「京都上賀茂神社禰宜・摂社久我神社 宮司 岡田泰輔・遺詠より」

御由緒「今から約1300年前、遣唐使、阿倍仲麻呂公は、中国で泰山府君大神の教伝と陰陽道家の法を学んだ彼は、天平七年(735)、日本に帰国する吉備真備公に、これらの知識と泰山府君大神の御神璽を託し、これにより泰山府君大神の信仰が伝えられた。翌:天平八年(736)、聖武天皇は若狭国名田庄を泰山府君祭料知行地と定めた。当初は吉備家によって守護奉斎されていたが、阿倍仲麻呂公の意思に従い、やがて安倍(土御門)家に移され、以後、代々の安倍(土御門)家では「大元尊神・泰山府君大神」として奉斎されるようになた。平安時代、安倍晴明公は泰山府君大神を陰陽道の主祭神として篤く信仰された~略~」

「天社土御門神道 本庁天社宮」

小字小谷の山麓に「土御門(安倍)家墓所拝所。

「この墓所には陰陽師安倍晴明の子孫3代(安倍有宣(1514没)、安倍有春(1569没)、安倍有脩(1577没)が祀られています。2基の五輪塔とその中間に自然石の墓標。祖先を安倍晴明とする土御門家は、代々陰陽師として朝廷に出仕してきましたが、応仁の乱(1467)の戦火を避けて、京都から所領の名田庄に住まいを移し、この地で陰陽道及び、天文・暦・易の三道を司っていました。」公式HPより

静謐という言葉がそのまま具現化されたような一画。聞こえて来るのは僅かな木々のざわめき。名も知らぬ鳥の声・・いや、もしかしたら気まぐれの風が通り過ぎる音かもしれない・・墓所拝所を終え、元来た道を下れば思いがけなく出会う茅葺の屋根の「薬師堂」

ほんの数分、まるでタイムスリップしたかのような空間に身を置き、そうして今更のような言葉を呟く・・「ああ、私の知らない景色が、こんなに身近な場所にこんなにも沢山ある」

名田庄に鎮座される「加茂神社の狛犬」目当てが、思いがけなくも貴重な場所に導かれた・・これはもう、素直に神のお導きだと感謝しよう😊

この名田庄は、古くから泰山府君大神と深い縁のある地とされています。今回は下調べ不十分の為に立ち寄れなかった「天社宮 泰山府君社 跡」「葛の葉稲荷神社」等々・・。公式HPに詳しく詳細が記されています。

「道の駅:名田庄」の敷地内で見かけた心惹かれる建物

この建物が何だったのか・・道の駅の施設内に併設されている「頭巾山青少年旅行村」の施設だったかもしれない。さすがに14年という歳月は、どんなに画像フォルダを見返しても埋められません。

訪問日:2012年7月11日

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tibineko一口メモ

「泰山府君大神」、陰陽道の主祭神で、森羅万象を司る、陰陽和合・調律の神。太一信仰とも称す。

「鎮宅霊符尊神」、宇宙根源の太一の象徴【北極星】の神。太陽、月、北斗七星、宇宙の星々を生み出し、世界の全てを司る陰陽道の神。仏教では【北辰菩薩(妙見菩薩・妙見さん)】とされる。

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加茂(かも)神社 in 福井県おおい町名田庄

2016年04月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

おおい町名田庄納田終(のたおい)に鎮座される「加茂(かも)神社」。ご祭神は『別雷神・泰山府君・善積河上大神・天御中主命・闇龗神』

由緒「納田終に、加茂大明神・御霊明神・泰山府君・善積(吉澄)河上大明神の四神が祀られていたとされる。根本の加茂社はおおよそ養老2年(718)勧請されたといわれるが、谷川家初代左衛門平貞が、貞和5年(1349)にこの神々を建立、5代清六の時・宝徳2年(1450)御霊川上神社を建立し、上ノ宮と称した。慶長5年(1600)の加茂社の棟札に、谷川家は上谷川新左衛門尉と下谷川次郎右衛門尉の2軒に分かれていたらしい。御霊明神については、安倍清明関係の神社とされていたらしく、御霊明神と吉澄河上大明神は一体的なものとして祀られていたとされる。明治41年以来、すべて加茂社に合祀される。」福井県神社庁より

一の鳥居左右より神域を守護されるのは、出雲丹後系の狛犬さん一対。「昭和二十九年(1896)八月」建立の刻。阿形さんは前足の間に仔狛さんを遊ばせています。

出雲から北前船に乗り、はるばる日本海を旅してきた狛犬さん親子。顎の下のまん丸いお腹、それよりももっと大きな毬を大切に抱きかかえて参道を見る仔狛さん。なかなかに良い面構えですね。

更に参道を進むと二の鳥居。奥には・・・まさかのブルーシートと大規模な足場。思わず顔を見合わせる二人・・期せずして「嘘・・・・・!」

御神馬を見上げ、足場に覆われた舞殿を透かし見てため息。流石にこの状況でこれ以上先には進めません。

 シートと足場に覆われた舞殿の左右より神域を守護されるのは、独特の丸いお鼻と垂れ下がった長い耳が特徴の、越前型狛犬さん一対。台座には「明治十八年(1885)乙酉旧九月六日」の刻。

残念ながら本殿に至る石段は足場等に邪魔され、参拝はここまで。良い狛犬さんに出会えた事を感謝し、神妙に手を合わせます。ご亭主殿・・そんなにガッカリしないで・・・😅

参拝日:2012年7月11日

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ご祭神一口メモ

「泰山府君(たいざんふくん)」、中国、山東省の東岳泰山の神に対する古称。道教では人の生死をつかさどる神。神道では素戔嗚尊に配され、仏教では閻魔王の侍者として人の善悪行為を記録するとも、地獄の一王ともいう。

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ご当地マンホール in 福井県旧名田庄村(おおい町)

2016年04月27日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・福井県

旧大飯郡名田庄村(なたしょうむら)は福井県南西の山間部、丹波山地の北斜面に位置した村です。小浜市・大飯町に。また県を跨いで滋賀県高島市。京都府綾部市、南丹市に隣接。古くより若狭と京都を結ぶ周山街道、鯖街道の杉尾峠越え、知井坂越え、堀越峠越えがあり、かつては魚介類や塩がこの道を通り運ばれていました。通称「なたのしょう」「なたんしょ」とも呼ばれ、名田庄村挙原地区に至っては、京都市までの直線距離が約5㎞と至近距離にあり、村名は平安末期に成立した荘園である名田荘に由来します。

また陰陽師の安倍晴明ら安倍氏の子孫である土御門家が、京都からこの地に移り、陰陽道の流れを受け継いでいることでも知られ、「陰陽度と暦のふるさと」として、種々の取り組みがなされています。「村の木:スギ」「村の花:シャクナゲ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、遠敷郡奥名田村・南名田村が発足。

1891年、南名田村が名称を変更、知三村(ちみむら)となる。

1955年、遠敷郡知三村、奥名田村が合併、遠敷郡名田庄村が発足。

2006年、大飯郡大飯町と合併、大飯郡おおい町となりました。

集落排水マンホールには、陰陽師にちなんだ星の中に「野鹿(のか)の」、周囲に「村の花:シャクナゲ」がデザインされています。

「「ナタ」の図案化。「ナ」で飛鳥を表し村の躍進を、「タ」の円で平和と円満を表す。」合併協議会資料より

中央に村章。下に「名田庄村」の文字がある大型マンホール。用途は不明。

村章付き・仕切弁

村章付き・側溝蓋

「水の洗濯屋さん・農業集落排水事業」の看板。全国各地、沢山の集配マンホールを画像に納めてきましたが、こんな看板は初めて見ました。集落排水(集排)の役割がこんな風にアピールされている事に、マンホーラーとしてはちょっとニンマリでした😄

撮影日:2012年7月11日

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tibineko一口メモ

「集落排水事業」、し尿、生活雑排水などの汚水等を処理・整備により、農業用用排水の水質の汚濁を防止。また、処理水の農業用水への再利用や汚泥の農地還元を行うことにより、農業の特質を生かした環境への負荷の少ない循環型社会の構築に貢献しています。

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伊射奈伎(いざなぎ)神社 in 福井県おおい町

2016年04月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

おおい町福谷に鎮座される「伊射奈伎(いざなぎ)神社」。ご祭神は『伊邪那岐命・管朝臣美知實命・大山衹尊・熊野大神』

由緒「元亀年間(1570~73)の兵戈に依り消失の難を受け創立年代・由来不詳。社伝に「延喜式神名帳記載の伊射奈伎神社は当社なり」という。棟札に、正保2年(1645)に小浜藩主酒井忠勝公、祈願の事あり社殿を補修、寛政11年(1799)、酒井忠貫公(小浜藩主九代)が、社殿を改修したと記す。元文2年(1737)に小浜の谷唯圭らによって始められた若狭三郡の天満宮25社参りの1社で、学問芸術の神として尊崇された。明治16年「天神社」を「伊射奈伎神社」と改称。」福井県神社庁より

拝殿前石段下左右より神域を守護されるのは、首が短く頭は扁平で豊かな鬣を肩から腕に流す狛犬さん一対。

台座には「支那事変記念  昭和十六年(1941)四月吉日」の刻。強面そうでいながら、妙に人懐こく明るい顔立ちの狛犬さんが奉納された八か月後、米国の巧みな挑発によって、日本は戦争へと突き進みます。が・・・それはまた別の話。

石段を登って拝殿へ。玉垣内のうち左右より神域を守護されるのは、出雲丹後系の狛犬さん一対。台座には「天保十四年(1843)癸卯正月吉日」建立の刻。左右対称でない一対の狛犬さん、こうしてみると吽形さんはずいぶんと上から目線。抗議するかに見える阿形さんの表情がなかなかに良いです。

本殿覆い屋の内左右より神域を守護されるの建立・奉納年不明の狛犬さん一対。相応の年代を経たものと思われますが、覆い屋の内という好条件が幸いし、非常にきれいな状態。

境内社:稲荷神社

朱塗り鳥居の内左右より神域を守護されるのは、建立年不明の出雲丹後の狛犬さん一対。風雨に晒された長い年月は。出雲丹後独得の厳めしさを拭い去り、気のいいお爺ちゃん風の風味すら漂わせています。

虚(うろ)に祀られる碑と石灯籠

拝殿の傍らにそびえる御神木「とが(ツガの別名)」。おおい町指定天然記念物。幹周/3.50m、樹高/30m。 幹周実測値/3.78m。

参拝日:2012年7月11日

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ご当地マンホール in 福井県おおい町&旧大飯町

2016年04月25日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・福井県

大飯郡おおい町は福井県の南西部に位置する市です。2006年3月3日、大飯郡大飯町と遠敷郡名田庄村が合併して発足しました。小浜市、大飯郡高浜町に、また県を跨いで京都府南丹市、綾部市、さらに滋賀県高島市に隣接。町域の90%を占める山林と、若狭湾国定公園に面し、リアス式海岸の続く若狭湾の支湾:小浜湾の南部と南川上流部および丹波高地に連なる豊かな自然に囲まれた町です。また北陸地方の最西端にある若狭地方に町の主要な建物があることから、若西(じゃくせい)ともよばれました。「町の木:やまもも」「町の花:さくら」を制定。

キャッチフレーズは「住む人に豊かさを、訪れる人に感動を~おおい町ふるさと創生物語~」

2017年の訪問では、立ち寄り地が偏っていた為、新しい自治体章のマンホール類は見つけられませんでした。2006年3月3日制定の町章は「おおい町の頭文字「O」を図案化したもの」

おおい町公式マスコットキャラクター「うみりん」は、青戸の入り江に輝く海や清流きらめく山里など、おおい町の豊かな自然がモチーフ。前向きな性格。 町の特産品の「きのこ」や「自然薯」「アマダイ」「梅」などが大好きだそうです。

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旧大飯郡大飯町(おおいちょう)は福井県の南西部、リアス式海岸の続く若狭湾に面した町です。小浜市、遠敷郡名田庄村、大飯郡高浜町に。さらに県を跨いで京都府綾部市に隣接。町の北部は若狭湾を小浜湾と高浜湾とに分つ大島半島で、同半島の付根部分に小浜湾から西に細く青戸の入江が入込みます。町域は全面積の約八割が山林で過疎の町とされましたが、1970年代から大飯原子力発電所の誘致を契機に財政力指数が全国市区町村で10位以内の財政背景から様々な整備が行われ、上水道、下水道、ケーブルテレビおよびブロードバンドインターネット接続の世帯普及率は100%を達成しました。

 「町の木:ヤマモモ」「町の花:ツツジ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、大飯郡佐分利村、本郷村、大島村が発足。

1955年、大飯郡佐分利村、本郷村、大島村が合併、大飯郡大飯町が発足。

経済的に豊かな町ですが、マンホールは町章のある規格蓋のみ。なぜか大きな工業地帯などを有する自治体は、マンホールにお金を使わないケースが散見されます^^;

昭和34年(1959)7月制定の町章は「ローマ字の「O「とカタカナの「イ」を組み合わせて町名を象徴したもので、円形は町の輪を意味し、「イ」の各先端はペンによる文化の発展を表微している。円経と「イ」型によって形成された三つの白い空間は三つの町のそれぞれの町の主要産業である農・林・漁業を表す」合併協議会資料より

訪問先が市街地で無かったせいか、画像に残せたのは「汚水」「仕切弁」のみという、かなりお粗末な結果となりました😥。

大飯原子力発電所を擁する大飯町マスコットキャラクターは「アトミッくん」。体は町名の「大」。頭は若狭湾の波・・であろうと想像します。名前以外の情報がすでに皆無となっており、断定は避けておきます😅。

撮影日:2012年7月11日

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一乗谷朝倉氏復原町並 in 福井県福井市中央

2016年04月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

「戦国時代、朝倉氏5代103年にわたり越前の国を支配し、栄華を極めた城下町跡は、町並みがほぼ完全な姿で発掘。復原された武家屋敷や町屋は、中に入って展示を見ることもでき、当時の生活の様子を垣間見ることもできます。」福井ドットコムより

南北を城戸に囲まれた約1.7キロメートルの谷間に形成された町並。100尺(約30m)を基準に計画的に町割がなされた町並みは京都のように整然としていたと推定。1995年には発掘結果や史料等を参考に200メートルにわたって当時の町並みが復元され、復原町並として公開。町並み全部の原寸大立体模型は日本初です。

朝倉館から一乗谷川を隔てた場所には周囲に土塁をめぐらした大屋敷が立ち並んでいたと推定されます。 現在は、復原町並としてそれらのうち一軒を史料等を参考に、30坪の主殿を中心に門、庭園、蔵、納屋、井戸、厠等の全てが再現されています。

囲炉裏と水場が屋内にしつらえられた台所。

左手奥の中央には「井戸」。手前には「厠(トイレ)」が復元されています。

侍屋敷跡

小規模な建物が細く並んだ町家。平面復原地区、城戸の近くもびっしりと町屋が並んでおり、人口密度が相当高かったと推定されています。

復原町並内には10軒の町屋が復元され、裏庭、井戸、厠などもきちんと再現されています。

染物屋の内庭には染料の入った瓶がいくつも並んでおり、ハンカチの藍染め体験 なども出来るようです。

こちらは陶器の商い中。ご主人が作った陶器を奥様が販売。奥の間からこっそりと顔を覗かせるのは、お客様が来ている間は店の間に出てこないようにの言いつけをちゃんと守っている男の子。「お客様、この小鉢など如何ですか?」「そうねぇ~、とっても手にしっくりだし・・セットで揃えようかしら。」

などと(笑)、他に人がいないものだから、好き勝手に想像を膨らませながら町歩きを楽しむ二人。ほぼ貸切状態とはいえ、全く無人というわけではありません。私達と同じようにマンホールカードを貰いに来た方とお話が弾み、記念写真の撮りあいなども。同好の士というものは不思議と気安くなれるのです。

訪問日:2018年10月16日

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一乗谷朝倉氏遺跡 in 福井県福井市一乗谷

2016年04月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

福井市城戸ノ内町、九頭竜川支流の足羽川の、さらに支流である一乗谷川沿いの谷あいに残る「一乗谷朝倉氏遺跡」

平原復元地区では、当時は砂利を敷いてあった道路、その道路に沿って計画的に区画された戦国城下町の跡を見ることができます。一部ですが、礎石や井戸、溝などの当時の石を使った露出展示がされています。戦国時代の城下町全体が遺跡となって残された、全国でもまれな大規模遺跡。昭和46年に278haが国の特別史跡に指定。以来、50年以上にわたり、発掘調査と整備が続けられてきました。

どこを切り取っても美しい・・美しいという言葉が陳腐に聞こえるほど、整然と歴史の1ページを語りかける風景に、私達は時間を忘れて身を浸し、心を開放させる。それは二度の訪問でも変わらない感動を与えてくれます。

朝倉氏遺跡と聞くと真っ先に思い浮かぶのは、朝倉館跡正面の堀に面して建つ、幅2.3メートルの唐破風造り屋根の「唐門」。門は朝倉氏の遺構ではなく、のちに建てられていた松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝えられます。

現存するものは江戸時代中期頃に再建されたもので、門表には朝倉家の紋「三ッ木瓜」。

背後の高台には、南陽寺跡、湯殿跡、中の御殿跡、諏訪館跡があり、当主一族の住居が集まって建てられていた事が解明されています。

第5代当主朝倉義景が住んだ「朝倉館跡」。約6,500㎡の敷地の三方は土塁と濠で囲まれています。

上城戸の土塁、幅13メートル、高さ5メートル、長さ50メートル。

発掘された館跡には「常御殿、主殿、会所、茶室、台所、厩、蔵」。更には日本最古の花壇などが配置されていました。

館の東側山際にある「館跡庭園」。力強い滝の護岸石組を持ち、その洗練された石組に京都との文化の交流が感じられます。

館跡の東南隅旧松雲院墓地内に「朝倉義景墓所」。朝倉義景は、天正元年(1573)8月20日、大野六坊賢松寺で一族の景鏡の裏切りにより自刃。法名は『松雲院殿太球宗光大居士』。墓は天正四年(1576)に村民の建てた小祠が始まりで、寛文3年(1663)、福井藩主松平光通によって現在の墓塔が立てられました。

遺跡全体は国の重要文化財・特別史跡・特別名勝に指定。三重の指定は全国でも珍しく、動機がマンホールカード目当てだった事などとっくに忘れ、二度に渡る貴重な遺跡の見学を楽しんできました。

道路を挟んだ先に展開される復原町並をもう一度しっかり目に焼き付け、一乗谷朝倉氏遺跡を後にします。

訪問日:2017年9月30日&2018年10月16日

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足羽川頭首工 in 福井県福井市安波賀中島町

2016年04月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

福井市安波賀中島町にある「道の駅 一乗谷あさくら水の駅」のシンボル「三連水車。朝の日差しの中で見る「水のある風景」と言うのは、実に絵になる爽やかさ。

この水の駅から徒歩ですぐ、昭和38年に県営足羽川地区用排水改良事業により上流に各用水を統合した「農業用水: 足羽川頭首工」を見ることができます。

まるで侍長屋を想像させる佇まいの堰柱(せきばしら)は「戦国大名朝倉氏遺跡の玄関口に位置することや周辺農村集落との調和を図る観点から、ゲート巻上室上屋は、朝倉氏時代の武家屋敷や周辺切妻屋根古民家をモチーフにしている。」水土里ネットより。・・なるほど、納得。

道の駅に来て初めてその存在を知った足羽川の土木遺産。HPに「フローティングタイプ全可動」とか書かれていても、それがどのようなものなのか、そもそも何の事なのかさえまるっきり解っていません。ゆえに説明も全部公式HPからの引用ですが、画像の下手さは置いといて、実に絵になる光景。

記念碑的存在として展示されていた「旧頭首工堰柱」

「足羽の清流」記念碑

訪問日:2017年9月30日

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2017年の福井県の旅はJ🐣さんが一緒で、こちらの「道の駅:一乗谷あさくら水の駅」様にて車中泊をさせていただきました。閉館前に購入できた「白岳仙」にご亭主殿はニコニコ上機嫌。朝一番で見る「足羽川頭首工」の凛とした姿に惚れ惚れし、気持ちの良いスタートになりました。

車で旅をする私達にとってこのような施設は本当に有り難く大切な場所です。改めて、その折は有難うございました。🙏🙏🙏

 

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龍野神社 in 福井県福井市舞屋町

2016年04月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

福井市舞屋町に鎮座される「龍野神社」。御祭神は『速玉男神・事解男神・伊弉册尊』

入母屋造りコンクリート製の拝殿・流造の本殿・・参拝はできましたが、カメラを向けるのが何となく憚られる雰囲気。沢山の祭提灯に迎えられての参拝。拝殿前左右より神域を守護されるのは「昭和12年(1937)4月4日 二棟式記念」建立の金沢型狛犬さん一対。阿は子狛を連れ、吽は巻物を咥え且つ玉を手にしています。日吉神社に続く二対目。ご亭主殿、更にテンションが上ります。

阿形さんの前足の間にすっぽりと収まり、足先に頬を擦り付けて下を見る仔狛の仕草が・・はっきり言って悶絶ものの愛らしさ。

そして吽形さんはがっきりと巻物を咥えて正面を凝視。

尾の造作もとても派手な狛犬です。

御神輿は待機中なのか、お役目終了なのか不明

社殿等を撮影するには些か場違いな感じで、結局狛犬さんだけの撮影で境内を後にしました。

参拝日:2017年10月1日

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