車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 岡山県旧有漢町(高梁市)

2022年01月31日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

旧上房(じょうぼう)郡有漢町(うかんちょう)は岡山県の中央部、吉備高原に位置した町です。真庭市。加賀郡吉備中央町に隣接。有漢の歴史は、承久3年(1221)相模国三浦氏の一族、秋庭三郎重信が、承久の変の戦功によって備中国有漢郷を統治するようになり、その後600年の歳月を経て明治維新をむかえました。町域は高原と山林で占められ、古くは教育文化の村として栄え、多くの文化遺産にも恵まれています。「町の木:赤松」「町の花:サクラ」「町の鳥:ウグイス」を制定。

町では、うかん常山公園の「風の舞台」に設置された七基の石の風ぐるまをシンボルモニュメントとし、「風をあつめ、風を起こす」を合言葉に広域的な地域間交流がすすめられています。

旧キャッチフレーズは「高原のオアシス・うかん ~風を集めるまち~」

明治22年(1889)、町村制の施行により、上房郡有漢村・上有漢村が発足。

1956年、有漢村・上有漢村が合併、町制を施行し上房郡有漢町が発足。

2004年、高梁市、川上郡成羽町・川上町・備中町との対等合併により、新たに高梁市となりました。

マンホールは見つけられませんでしたが、上水道関連の空気弁・消火栓・仕切弁がありました。

昭和42年(1967)9月制定の町章は「有漢の“う”の字を力強く表現しています。両有漢の合併を意味するもので、中央の円は平和を象徴し、下部の両脚は安定を、また両肩は将来の発展と飛躍を表現したもの。」合併協議会資料より

旧町役場があった一画は『綱島梁川(つなしま りょうせん)』生誕の地だそうで、近くには多分彼のものと思われる歌碑も建立されています。ここまで達筆に崩されると、文字を拾うのは難しい😓

撮影日:2010年8月11日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大元(おおもと)八幡神社 in 岡山県高梁市成羽町

2022年01月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

高梁市成羽町成羽に鎮座される「大元(おおもと)八幡神社」。御祭神は『帶仲日子命・品陀別命・息長足比賣命・稻荷大神・火雷神』。

由緒「当社は天文年間(1532~1555)三村修理太夫家親がその生国信濃国挾江から勧請した。 以来歴代成羽城主の崇敬が篤く、万治元年(1658)山崎氏が讃州から入城以来、明治維新に至るまで、成羽藩の鎮守として、社殿の造営、その他維持経営にあたった。 大正2年境外摂社稲荷神社及び高オカミ神社を合祀し、昭和3年郷社に列格した。」岡山神社庁HPより

参道入口、鳥居の前より神域を守護されるのは、大正11年(1922)5月吉日建立の狛犬さん一対。ツンととがった顔が上品だと評判だそうで、確かに石の角を使って彫られた顔はいかにも知的で賢そう。

〆柱の先に石段があり、その途中に紋幕が下げられた随神門が見えてきます。

隋神門の内より神域を守護されるのは、極彩色の神殿狛犬さん一対。カメラの位置的にこれが限界で、説明が無ければ何がどうなのかわからないと思う・・😓

更に神殿狛犬さんの後方には、これも極彩色の虎の毛皮の上に座る「矢大臣」、豹の毛皮の上に座る「左大臣」が神域を守護されています。毛皮の種類が違うのは、豹よりも虎の方が格が上という事なのだろうか??

拝殿前の石灯籠と石畳は、成羽川沿いに立地する古町一帯の灌漑用水の恩人と言われた『帯屋全久』氏によって奉納。

拝殿内には江戸時代初期の寛文8年(1668)に奉納された、県内でも最も古い絵馬の一つ「つなぎ馬図」や、延宝5丁己年(1677)奉納の「松鷹図」・「野生群馬図」。元禄丙子(1696)奉納の「麒麟図」と「鳳凰図」や、天保9年(1838)奉納の「算額」などが有るそうですが、見る事はできません。

境内摂社

参拝日:2011年8月11日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧吹屋小学校 in 岡山県高梁市成羽

2022年01月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

今回の吹屋の町歩きにあたって、ずっと以前から特別に楽しみにしていた場所があります。それがここ、2012年3月まで現役の木造校舎として国内最古とされていた「吹屋小学校(県指定重要文化財)」

明治6年(1873)に開校し、同32年(1899)に吹屋尋常高等小学校と改称して、現在の場所に移転。明治33年(1900)に、木造平屋建の東校舎・西校舎が落成。 

明治42年(1909)に本館(木造2階建)が竣工。東西校舎2棟が並列する本館玄関を中心とする左右対称の配置となっており、各棟とも寄棟造、下見板張りで、窓は引き違いになっています。

校舎が建てられたのは、吹屋が銅山とベンガラにより栄えると共に、全国的に就学率が向上し、学校規模が大きくなった明治中期の事。二重折上棹縁天井などの手の込んだ意匠、100年を経て現役使用に耐えた部材・構造であることなど、当時の吹屋を象徴する建造物ともいえます。その特徴的な構造は『江川式建築』であるとされ、江川三郎八の設計であるか、もしくはその影響を強く受けていると推測されています。

この建物は木造平屋建の西校舎。妻入り屋根正面の鏝絵は吹屋小学校の校章でしょうね。

小学校の敷地は銅山事業施設の事務所跡地で、明治31年(1898)に三菱商会によって寄付されました。銅やベンガラで栄えた吹屋町。その町の予算の数倍の巨費を投じて建てられたという吹屋小学校。黎明期の日本における学校建築は、当時の日本人の気概が感じられて、私の大好きな分野です。日本各地に残る明治期の学校建築を見ていると、いつも胸の奥に熱い塊が込み上げてきます。

本館玄関の石段下に「考える少年」像

小学校に隣接する建物は、「ラ・フォーレ吹屋」。1987年3月に廃校となった成羽町立吹屋中学校の跡地に、旧成羽町が建設した高梁市立の公共の宿です。

建物は寄席棟屋根の2階建てで外壁板には解体された吹屋中学校の部材を流用。広々とした中庭を設けるなど元の木造校舎の外観に近づけ、吹屋小学校を模した造りとなっています。実際の中学校がどんな建物だったのか知る由もありませんが、でもおそらく素敵な外観だったろうと思います。

吹屋の小学生がパソコンの授業で考えた吹屋キャラクターの「ベンガラくん」。 一度見たら忘れられないインパクトで観光客を出迎えてくれます。

訪問日:2012年8月8日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吹屋ふるさと村 in 岡山県高梁市成羽

2022年01月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

高梁市成羽町、標高550Mの山嶺にある小さな集落「吹屋」。吹屋とは、金属を精錬・鋳造する職業や職人、およびその細工場の呼称。成羽町の吹屋地区は、江戸時代から戦前にかけ日本三大銅山の町として、また江戸末期からは「ベンガラ(酸化第二鉄)」の日本唯一の産地として繁栄してきました。

旧街道沿いには、赤銅色の石州瓦に、朱のベンガラ漆喰壁の商家や町屋が立ち並び、1977年、岡山県下初の「国の重要伝統的建造物群保存地区」として選定。さらに2020年6月19日に「『ジャパンレッド』発祥の地~弁柄と銅の町・備中吹屋~」として日本遺産の認定を受けました。

高梁市観光ガイドに曰く「赤銅色の石州瓦とベンガラ色の外観で統一された、見事な町並みが整然と続く吹屋の町並み。吹屋の特異な点は、個々の屋敷が豪華さを纏うのではなく、旦那衆が相談の上で石州から宮大工の棟梁たちを招いて、町全体が統一されたコンセプトの下に建てられたという当時としては驚くべき先進的な思想にあります。これこそが吹屋の長者達が後世に残した最大の文化遺産です。」

と言う事で、最初の建物は、二百年余りに渡って弁柄の製造・販売を手がけた老舗「旧片山家住宅」。家屋は弁柄屋としての店構えを残す主屋と、弁柄製造にかかわる付属屋が立ち並び、「近世弁柄商家の典型」と高く評価され、2006年12月、国重要文化財に指定されました。

立ち並ぶ付属屋の中でさらに目を引く三階建ての弁柄蔵。そこに施された菱形文様のナマコ壁は、当時の富の象徴であったとも言われています。

片山家の向かい、切妻型・妻入形式が一際目を引く建物は「長尾屋・総本家:長尾家」。吹屋でもっとも古い建物の一つで、18世紀末のものとされています。江戸期には鉄・油等の問屋で酒造業も営む「弁柄釜元」の一つで、現在の建物は幕末から明治・大正に増改築されたものです。

道路に面した長屋門の前に「吹屋ふるさと村:初代村長『長尾隆氏』歌碑。【さびれゆく 街も翁の願いにて 槌音高く 生きてかえりおり】

妻入、入母屋造に石州本焼瓦葺の建物は「吹屋ふるさと村郷土館」。ベンガラ窯元片山浅次郎家の総支配人『片山嘉吉(当時吹屋戸長)』が分家し、本家の材木倉より良材を運び、石州の宮大工『島田網吉』によって明治12年(1879)に完成。

珍しい鼠色の漆喰壁に虫籠窓のお屋敷は「叶屋:仲田家」。玄関前には「旧天領吹屋村:庄屋 中田要助 彦助邸」の石柱が立てられています。

創業文政9年(1826)という「長尾醤油店」。弁柄色の暖簾が掛かる店先で二人がもの珍し気に見ているのは「吹屋しょうゆ」の徳利が吊るされたオブジェ。

じっくりと寝かせて醸造した醤油はとてもコクがあり、お刺身はもちろん、冷奴にも最適。まさに日本の味。

明治に入って五軒あった弁柄屋の中の一軒「東長尾屋:東長尾家」明治中期ごろの建築で平入形式。店の間の表側に張り付けてある半蔀戸格子は、地区内ではここだけだそうです。

元々、こんな様式の建物だったのか、それとも新たに景観に配慮して建築されたのか、いずれにしてもしっくりと町並みに溶け込んだ郵便局。こうした努力が多くの観光客をひきつける要因なのだろうと思います。

弁柄釜元の一軒「中野屋:中山家」。1700年代末ごろの建築のようで切妻型の妻入り形式。入り口右側の塗込の物入れと戸袋は吹屋でただ一つ。破風の塗込も特徴ある塗り方となっています。

ここから吹屋小学校へと向かったのですが、それは明日のブログで紹介する事にして、次の建物は「高梁市消防団成羽 吹屋分団第一部消防器庫」。看板が無ければ絶対に普通の家だと思ってしまうほど、町並みに溶け込んでいます。

べんがら色の壁が美しい建物は「旧那須家(旧水野旅館)」江戸末期の建物で平入形式。屋号は松乃屋と称し三菱時代の吉岡鉱山に深く関わってたとか。先住は昭和初期から親子三代に渡って旅館を営み繫栄したと云います。

真夏の日差しの下で見る、石州とベンガラが織り成す朱の世界。歩いても歩いても見つくしたと思えない町並みの中に佇んでいると、自分の周りの世界がすべて朱に染まったような錯覚を覚えます。それはこの上なく妖しく幻想的な世界。

「吹屋銅山発祥の地」と言われる下谷地区。横溝正史原作の「八墓村」のロケ地となった「広兼邸」・・・見たい場所をいくつも残したまま、吹屋の旅は、終了しました。

訪問日:2012年8月8日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホール in 岡山県旧成羽町・旧備中町(高梁市)

2022年01月27日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・岡山県

旧川上郡成羽町(なりわちょう)は岡山県中西部の吉備高原に位置した町です。高梁市、新見市、川上郡川上町・備中町、小田郡美星町、阿哲郡哲多町に隣接。町域の大半は高原と山林で占められ、町の中央部を流れる高梁川支流の成羽川沿いに小盆地を形成。江戸時代には成羽藩の陣屋があり、北部の吹屋地区にはかつて銅と弁柄の鉱山があり、その元締めであった広兼氏と西江氏の邸宅が往時の権勢を偲ばせています。また、備中神楽発祥の地として現在でも盛んに神楽舞が行われています。「町の木:アカマツ」「町の花:ササユリ」「町の鳥:ウグイス」を制定。

旧キャッチフレーズは「豊かで明るい文化の町 なりわ」

また成羽地区は、備中神楽発祥の地として現在でも盛んに神楽舞が行われており、1979年2月に国の重要無形民俗文化財に指定されました。「町の木:アカマツ」「町の花:ササユリ」「町の鳥:ウグイス」を制定。

旧キャッチフレーズは「豊かで明るい文化の町 なりわ」「備中神楽 発祥の町」


明治22年(1889)、町村制の施行により、川上郡東成羽村・成羽村・中村・吹屋村が発足。

1901年、東成羽村が町制を施行、川上郡成羽町(一次)となる。

1906年、成羽町と成羽村が合併、川上郡成羽町(二次)が発足。

1955年、成羽町と中村が合併して川上郡成羽町発足(三次)。翌4月、吹屋町を編入。

2004年、高梁市、川上郡川上町・備中町、上房郡有漢町との対等合併により新・高梁市となりました。

マンホールは見つけられませんでしたが、「備中神楽:素戔鳴命のオロチ退治」がデザインされたカラー消火栓がありました。

同じく、素戔嗚尊がデザインされたカラー仕切弁。

昭和4年(1930)5月23日制定の町章は「ナ・リ・ワ」を図案化したもので、ひとつの円を中心に、さらに大きい円が、次々と想像せられ、遠く、大きく拡がる波紋も中心は一つで、内部の固い団結力を示し、3本の線は外部に放射して勢いを意味し、平和と発展を象徴したもの」合併協議会資料より

吹屋地区に設置されていた町章付きの止水栓。

地名のみの排水弁・空気弁・消火栓

成羽川:神楽橋の欄干には、「備中神楽:素戔鳴命の大蛇退治」に登場する『素戔鳴命』の像が設置されています。

神楽の見所の一つである刺繡が施された衣装。登場人物が一目でそれとわかる神楽面。こんなにも手の込んだ親柱を見たのは、おそらく初めてと思われます。

橋の対岸には『奇稲田姫(​くしいなだひめ)』

「八岐大蛇」から救われた『奇稲田姫』は、出雲八重垣にて『素戔嗚命』と結婚し、共に出雲の祖神となります。

   ---------------------------------00-------------------------

旧川上郡備中町(びっちゅうちょう)は岡山県中西部の吉備高原に位置した町です。川上郡成羽町・川上町、阿哲郡哲多町・哲西町に。また県を跨いで広島県神石郡油木町・豊松村、比婆郡東城町に隣接。町域の大半は高原と山林で占められています。町の中央部を高梁川支流の成羽川が流れており、岡山県南への電力と工業用水の需要拡大に対応するために建設された日本最大規模の重力式アーチダム「新成羽川ダム」、および同時に形成された「備中湖」があります。また漆の産地であり「備中塗」などの工芸品を産し、布賀地区は、世界的に大変珍しい逸見石など鉱物・鉱石が産出されることでも知られます。「町の木:ウルシ」「町の花:ツツジ」「町の鳥:キジ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、川上郡富家村 ・平川村・湯野村が発足。

1956年、富家村、平川村、湯野村合併、町制を施行し、川上郡備中町が発足。

2004年、高梁市、上房郡有漢町、川上郡成羽町、川上町の対等合併により新・高梁市となりました。

マンホールは見つけられませんでしたが、備中町のキャラクター『ビスターくん』の消火栓を発見!。ほかにも空気弁や仕切弁が存在するようですが、調査不足でこれ一枚だけ。

昭和36年(1961)6月20日制定の町章は「円で円満を表現し、備中町の「び」と「中」を図案化し、前途の躍進を象徴したもの。」合併協議会資料より

撮影日:2010年8月11日&2012年8月8日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木野山(きのやま)八幡神社 in 岡山県高梁市津川町 

2022年01月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

高梁市津川町今津、木野山神社と同じ境内に鎮座される「八幡神社」。御祭神は『仲哀天皇・,応神天皇・神功皇后・素盞嗚命・市杵嶋姫命・武甕槌命・猿田彦命』

由緒「当社は、第58代光孝天皇の仁和2年(886)8月24日の創建である。 松山城鎮守五社の一つであり、代々の領主の崇敬が篤かった。 元治元年10月3日、領主板倉勝静は長州征伐の際、武運長久のため社参献金を行っている。 大正4年12月14日村内無格社六社を合祀した。」岡山神社庁HPより

石段参道の台輪鳥居

朱塗りの随神門

門の内より神域を守護されるのは、陶器と思われる装飾性の高い唐獅子さん一対。特に阿吽の別はありませんが、きちんと向かい合うように作られています。

木野山神社と同じ境内なので横移動すれば楽なのですが、画像の為には多少の無理は・・と言う事で結構急な石段を登ってきました。

開放的な拝殿に奉納されていた絵馬は「加藤清正の虎退治」?。ちなみに「コレラ」は漢字で「虎列剌」と現わされていました。武門の誉れ高い武神の力で虎を倒す=コレラを封じる・・の願いが籠められていたのかもしれません。

拝殿の左右より神域を守護されるのは、昭和10年(1935)3月5日建立の狛犬さん一対。ふさふさと流れる尾の先を背中につけ低く身構えた姿勢。細かく見比べれば多少の違いはありますが、木野山神社の狛犬さんと奉納された日も同じ、おそらく同じ石工さんの手によるものと思われます。

拝殿から幣殿、本殿と続く社殿。真夏の日差しを受けて一際映える姿は、無条件に美しく見えます。

参拝日:2010年8月11日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木野山(きのやま)神社 in 岡山県高梁市津川町

2022年01月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

高梁市津川町今津に鎮座される「木野山(きのやま)神社」。御祭神は『大山祇命・豐玉彦命・大己貴命』。奥宮御祭神『高寵神(たかおかみ)闇寵神(くらおかみ)』

由緒「天暦9年(955)創建の古社。木野山山頂の奥宮・山麓の里宮とともに、「木野山さん」と親しまれる。文久2年(1862)、備中松山藩主:板倉侯により、軍馬飼育守護神として特に崇敬され、元治元年(1864)の長州征伐に際し武運長久祈願のため社参された。古くから流行病、精神病の霊験は殊にあらたかで明治9年から中国地方に猛威をふるったコレラの業病を免れようとする人々が昼夜の別なく参拝し、ご分霊の請待も相次いだ。」岡山神社庁HPより抜粋

参道途中より神域を守護されるのは、昭和10年(1935)3月5日建立の構え狛犬さん一対。端正な顔立ちと、背中に乗せられた豊かな美しい尾が特徴的です。

参道途中、随身門の前に建つ二の鳥居

鳥居額の上にのせられた丸い大きな石は何か意味があるものなのか? 単に乗せているだけだとしたら、落下する危険もあるし、おそらく何らかの方法で固定されていると思うのですが・・・

石段途中の随身門

随身門のうちより神域を守護されるのは、木製の狼(大神)さん一対。奥宮に祀られる二神は、その神姿が狼とされる事から「狼の木野山さま」として畏敬されています。故にこちらでの随身様もこのような大神の姿で現わされています。

黒漆の体に血の色を思わせる赤く塗られた口中、鋭い牙・・なのに見開かれた目は驚くほどきれいで優しく、じっと見ていると不思議な迫力を持って迫ってきます。

「明治にはいって最初のコレラが発生したのは明治10年9月。清国(中国)のアモイに流行していたコレラが、米艦によって運ばれたものである。この年の流行で患者1万4千、死者8千人を出した。コレラの流行はそれからも絶えず繰り返され、明治時代のコレラによる死者の総数は37万人となった。」日本コレラ史より
瀬戸内市の神社参拝の際、ほとんどの神社の境内に木野山神社から勧請された祠や社が祀られていました。死者を見送る儀式さえ許されないコレラという死病に対して・・神頼みは唯一の手段であったのかもしれません。

祈願絵馬は、「丸に剣木」の御神紋を間に向かい合う阿吽の狼神

境内末社。社名・御祭神共に不明

参拝日:2010年8月11日

記事を書きながら思ったのは、2020年、中国武漢を発祥として世界中を襲った「コロナ」の事。2022年1月17日時点での感染者は3億4千万人強 !死者: 5,585,224人。私たちは正しく恐れ、この脅威をやり過ごすしかない・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八重籬(やえがき)神社 in 岡山県高梁市内山下

2022年01月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

高梁市内山下に鎮座される「八重籬(やえがき)神社」。御祭神は板倉氏の始祖『板倉伊賀守勝重・板倉周防守重宗』

由緒「寛政五年、松山城主板倉周防守勝政の創建。板倉氏の始祖伊賀守勝重を祀る。神祇道管領長吉田良倶朝臣が「宗源の神宣」を以って八重籬霊社とし、特に大権現の尊号を奉った。由来、備中松山五万石藩領全域を崇敬区とし、その維持は専ら藩財政でまかなわれた。御根小屋(現:岡山県立高梁高等学校)内の馬場に奉安していたが、文政13年(1830)に現在地に改築された。明治十八年二代公重宗を合祀すると共に郷社に、大正六年県社に昇格した。」岡山神社庁HPより

真横を伯備線が通る境内、参拝中にも轟音と共に列車が駆け抜けていきますが、その瞬間がすぎれば、何事もなかったかのような静謐な境内。

社号標と一の鳥居。鳥居左右、玉垣の前に文政13年(1832)9月奉納の石灯籠。

石段の先に随神門。内には長い時を過ごされたと思われる随神様が、それぞれの位置より神域を守護されておられます。

拝殿前左右より神域を守護される狛犬さん一対。台座を設けず低い位置に置かれているため、写真撮影の後は腰が・・・😣

拝殿前左右より神域を守護されるのは、台座に「江戸外様御家中」奉納と刻まれた、寛政7年(1795)建立の団扇尾を持つ狛犬さん一対。220年以上の長い時間、藩祖が祀られる宮を見守っています。

「藩祖:板倉勝静が御根小屋の一隅に建てた「臥牛亭」。農耕の神を祀って五穀豊穣を祈り、時には自ら畑を耕して農民の労苦を偲び、眼下に広がる城下の町並みを眺めて、領民に思いを馳せたと伝えられている。廃城令により、旧藩時代の建造物は全て撤去されるなか、山田方谷の計らいで蓮華寺境内に移築。後年、崖崩れにより亭が傾いた為、八重籬神社境内に再度移築され、今日に至る。」現地碑文より

恒例の随神門留め蓋の飾り瓦、阿吽ともに画像の方向が同じなので間違われそうですが、吽形は玉に結ばれた紐を咥えています。

御神紋は「板倉巴」、または「九曜巴」とも呼ばれます。

参拝日:2010年8月11日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧高梁尋常高等小学校本館 in 岡山県高梁市向町

2022年01月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

高梁市内の町歩きを切り上げ、高梁市向町まで車で移動。高梁市内最後のお目当ては、明治37年(1904)に建築された木造二階建校舎「旧高梁尋常高等小学校本館」。

施工者は地元大工の『妹尾友太郎』。用材は臥牛山国有林のモミの大木を使用。無節で柾目の良材を入念に施工してあり、現在もほとんど狂いがない状態を保っています。1階は職員室・生徒控室として、2階の講堂は豪壮な二重折上格天井になっており、明治の代表的な学校建築として市重要文化財に指定されています。

擬洋風建築の校舎は、現在「高梁市郷土資料館」として活用され、館内には江戸時代から昭和初期にかけての生活用具など3,000点が展示されています。

とりわけ私の大好きな木製の看板には、その字面だけで世相が推し量れるものもあり、非常に興味をそそられます。

改めて正面から・・・手前に空気を読まない方が写りこんでいるのは愛嬌と言う事で😆

小学校の校舎には絶対と言うほど欠かせない存在であった『二宮金次郎像』。ここの金次郎さん、どちらかと言うと中性的な雰囲気に見えますが、実際はそんなでも無く、多分にカメラの角度が見せる錯覚のようです。

何らかの理由でここに移された道標や石仏。「左ハ まつやま 右ハ む〇ノみち」「双体地蔵仏板碑」

側には詳細が記された駒札もあったのに、ちゃんと画像に残しておけばよかったと、今頃になっての後悔。

資料館車寄せの右に立つ銅像は、幕末期の儒家で陽明学者でもあった『山田方谷』。備中松山藩の藩政改革や教育に尽くし、幕末の混乱期には藩主を隠居させる事で松山藩と領民を滅亡から救い、後に「備中聖人」と称された人物。

彼について語りだすと二時間くらいは優に要してしまうので、詳しく知りたい方は是非とも「山田方谷」でググってみてください。幕末史に名を残す様々な人物との関りなど・・幕末の歴史がさらに深く垣間見えてきます。

訪問日:2010年8月11日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御前(おんざき)神社 in 岡山県高梁市御前

2022年01月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岡山県

高梁市御前町に鎮座される「御前(おんざき)神社」。御祭神は吉備津神社に祀られる『丑寅御前(うしとらみさき)』と思われますが、確証はありません。

由緒「第四十九代光仁天皇の宝亀五年八月、吉備真備公が賀陽郡二位山岩屋から備中松山泉岡に遷座したのが本神社の創建である。爾後秋葉三郎重信が松山城主となり、一国一城の総鎮守として崇敬した。元和三年九月池田長幸が再建。天保十年二月火災により炎上、弘化二年板倉勝職が再建。慶応二年に類焼、明治十四年再建した。昭和二十一年二月郷社に列せられた。」岡山神社庁HPより

二の鳥居、鳥居の奥、両側に見える末社のような建物は、いわゆる随神舎のようです。

二の鳥居に廻らされた玉垣、傍らには 「播州赤穂藩士:寄進」の駒札

参道を真っ直ぐに拝殿、

拝殿内より神域を守護される随神様、置かれている場所の加減だったのかどうか、画像に残っているのは右大臣のみ。

随神様と同じ場所にあって神域を守護されるのは、木製の神殿狛犬さん一対。どれほどの時間が流れたのか分かりませんが、多分吽形さんは鮮やかな碧に彩色されていたと思われます。でも正直な話・・出来れば夜には出会いたくないお顔😱

拝殿前左右より神域を守護されるのは、石工:『近江邑 長蔵』弘化3年(1846)5月建立の狛犬さん一対。表情が八重籬神社の狛犬さんと似通っており、同じ石工さんの手になるものかと思うも・・確証はありません。

恒例の留め蓋の飾り瓦は、元気に飛び跳ねる獅子一対。ここでも真夏の日差しに邪魔されて、同じ方向からの画像です。

御崎神社の参道に建てられた木造の鐘撞堂。慶安四年(1651)に藩主:水谷勝隆が城下の民に十二時候を教えるため、矢掛の冶工:高草彦之丞に鋳造させ建立。鐘撞堂の南隣には、一棟長屋があり、吉岡浅五郎・藤本又兵衛・木口庄助などの報時を担当していた武士の名が見られる事から、責任のある重職だったと思われます。時鐘は第二次世界大戦の折に放出され現在は鐘撞堂のみが残されています。

参拝日:2010年8月11日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする