車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

防府天満宮~其の五 in 山口県防府市松崎町

2024年05月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

防府天満宮客殿背後、左手の園内に立つ『毛利重就公』像。毛利氏二十一代当主で長門国長府藩八代藩主・のち長州藩七代藩主となります。寛政の天満宮社殿の造営、周防国分寺金堂の改修、浜の塩田開発と防府の発展に大きな足跡を残しました。

何とも言えない優しい視線を感じて足元を見れば・・綺麗な茶トラの猫さん。怖じるでもなく媚びるでもなく、僅かに首をかしげて私を見ている。ねぇ、雨に濡れるといけないよ。帰る場所が有るのなら早くそこへお帰り。

ふいと見上げた先に「御大典記念」碑。時代の確認が出来なかった為、どなたの御代の物か不明。

勤皇の女流歌人として知られる『野村望東尼』像。慶応三年冬、望東尼は社坊に投宿して七日間の断食・水垢離をし、毎日歌一首を手向けられ、倒幕を目指す志士達の戦勝を祈ったと云います。

歌碑左は【 面白き 事もなき世を面白く 住みなすものは 心なりけり 】。有名な高杉晋作辞世の句の後半を即興で読んだもので、下関市の東行庵にもこの句碑が建立されています。
歌碑右【 もののふの あたに勝坂越えつつも  祈るねきこと うけさせえたまへ  】。歌碑の石材は望東尼が流罪となった、玄界灘の姫島から運ばれたものです。

社殿後方の道を右手に進むとコンクリ塀の内に黒御影石の碑が建立されているのが見えます。
「嗚呼 海軍少年電信兵之碑」「昭和18年8月、齢、僅十四~五歳を中心とする少年達の多くが、意を決して海軍に其の身を投じ防府海軍通信学校に入校。史上最年少の海隅少年電信兵として勇敢に其の任務を遂行し、祖国の安泰を信じ護国の散華と散りし六百余名の同期の桜。焦土の異国の丘に草生す屍と化し、再び相目見えるを得ざるは痛恨の極みなり。御魂安かれと願いを籠め茲に鎮魂の碑を建立す。」碑文大意

更に「防飛二期生の碑」。碑文「昭和20年(1945年)1月25日15歳前後の1千有余名の私達は、防府海軍通信学校第二期乙種飛行予科練習生として入校、ただひたすら厳しい練習に歯を食いしばり、空腹に耐え、夜半の遠い汽笛に望郷の涙をこらえた7か月であった。その体験は、今も私達の中に生き続いている。同期生すべて古希を過ぎた今、残れる力を有志相あわせて、茲に、過ぎし日を偲び、恒久の平和を祈念し、万感の思いをこめて、この碑を建立する。 平成13年(2001年)春吉日  防飛二期生有志一同
右には、旧防府海軍通信学校乙種飛行予科練 昭和20年2月25日(3期)入隊生有志による「ああ 予科練」碑。

参道を進むと、宮市門前町の豪商が命名した霊石「紫雲石」が注連縄に護られて鎮座しています。この石に願い事をすると必ず叶うとの謂れがあるとか。私の願いは何時も同じ「二人で生きる未来・・共に健やかでいられますように」🙏

参道を更に進むと、安政二年(1855)建立の「太鼓橋と放生池」が見えてきました。

正面右手の芭蕉句碑は、文政三年(1820)に三田尻(浜方)の俳人『有時庵此由(ゆうじあんしゆう)』が建立。【 古池や  蛙飛び込む 水の音 】

長州萩の梅屋七次郎:歌碑【夢想 天満つる 香りを此処に梅の華 佳兆】

楼門の脇を抜けて梅園へ、出迎えてくれるのは「二宮金次郎像」。台座には「勤勉努力」。どのような謂れでここに置かれたのか不明。

「作曲家 鈴木淳 歌碑」、氏は防府天満宮:宮司の子息として生まれ、作曲家の道に進み多くのヒット曲を残しています。碑面は「浮雲」の歌詞ですが・・存じ上げません💦

参道に見かけた御神紋付きの四つ脚の石灯籠。一の鳥居の左右にも同じものがあり、そちらは文化十年(1813)の寄進。おそらく同じ時代のものと思われます。


二年おきに三度も訪問した防府天満宮 😊、明日の「茶室 芳松(ほうしょう)庵」でラストです。

参拝日:2013年4月17日&2015年11月14日&2017年11月30日

 

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