車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

大直禰子(おおたたねこ)神社 in 奈良県桜井市三輪

2023年06月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

大神神社を後にして向かったのは「若宮獣燈」が指し示す先。

桜井市三輪に鎮座される「大神神社」の境外摂社で「大直禰子(おおたたねこ)神社」。御祭神は三輪の大神様の神孫『大直禰子命(おおたたねこのみこと)』。祭神の母君である『活玉依媛(いくたまよりひめ)』と、大和の国づくりを手伝ったとされる『少彦名命』が配祀されます。

由緒「御祭神大直禰子命は、御本社大物主大神の御神孫で、第十代崇神天皇の御代に神託によって茅渟県陶邑(堺)より大神神社の初代神主として召されました。大神氏の始祖であります。この神社は、奈良時代には大神寺、鎌倉時代には大御輪寺として、本地仏十一面観音(現在国宝・聖林寺安置)と併祀されていましたが、明治の神仏分離以後は大直禰子神社として祀られます」境内案内より

若宮社の拝殿は大御輪寺の本堂だった建物で、奈良時代の大神寺創建当初の部材も残っており、重要文化財の指定。

鳥居の内より神域を守護されるのは、明治43年建立の浪花系の狛犬さん一対。お腹まで届く巻き毛のたてがみが、この上なくお洒落。

境内に設けられた「御饌(みけ)石」。駒札には「この御石はお正月のご神火祭りの時に、久延彦神社に神饌をお供えする石です。知恵の神様 久延彦神社にお参りできない方はここから遥拝して下さい。」

大神神社のご祭神と活玉依媛との神婚譚に由来する「おだまき杉(緒環杉)」「活玉依姫の元に、夜な夜な大そう麗しい若者が通ってきた。姫はほどなく身ごもった為、両親は若者の素性を姫に訊ねたが、姫も分からぬまま。そこで両親は、床のまわりに赤土をまき、苧環と呼ばれる糸巻きの糸を針に通して若者の着物の裾に刺すよう教えた。翌朝、糸を辿っていくと、糸は戸の鍵穴を通って、三輪山まで続きこの杉のところで終わっていた。」奈良の昔話より

鳥居の向こうに見える大神の社前町

青い空いっぱいに広がる真っ白なうろこ雲は、秋の気配を伝えてどこまでも広がっています。

〆鳥居の先は狭井神社への参道で「くすり道」と呼ばれており、薬業関係者奉納の薬木・薬草が植えられています。時間的な制約で、鳥居前からの参拝だけで失礼させて頂きました。

三輪山の麓に鎮座される「久延彦神社」。御祭神である『久延毘古命』は、世の中の事をことごとく知っている智恵の神と古事記の中に記されています。

久延彦神社から見る大和三山。山並みの向こう、輝きを失いつつあるお日様に急かされて三輪の地を後にしました。

参拝日:2006年10月9日

 

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大神(おおみわ)神社 in 奈良県桜井市三輪

2023年06月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

桜井市三輪、「山辺の道」の始まりである三輪山の麓に鎮座される「大神神社」。式内社(名神大社)で大和国一宮。御祭神は「三輪山」を神体とする『大物主大神』。旧くは「美和乃御諸宮」、「大神大物主神社」と称し、中世以降は「三輪明神」に。明治時代に「大神神社」と改名。大鳥居は、昭和天皇御在位60年を奉祝して、昭和61年5月28日に建立。高さ32.2メートル、柱間23メートルの日本一の大鳥居で、その向こうにご神体山が美しく横たわるのが見えます。

由緒「『古事記』によれば、大物主大神が出雲の大国主神の前に現れ、国造りを成就させる為に「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」と三輪山に祀まつられることを望んだとある。『日本書記』でも、二神の問答で大物主大神は大国主神の「幸魂・奇魂」であると名乗られたとあり、三輪山に鎮まることを望まれた。この伝承では大物主大神は大国主神の別の御魂として顕現され、三輪山に鎮しずまられたという。」公式HPより

大神神社は「三輪山(三諸山)」を神体山として拝するようになっている為、ご神体が鎮まられるための本殿をもたず、拝殿から三輪山そのものを仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残します。

寛文4年(1664)、4代将軍徳川家綱によって再建された国重要文化財の拝殿。棟札には、金屋の茂左衛門と手代福本又次郎を番匠棟梁とし造営されたものとあり、それ以前は三ツ鳥居とそれに続く瑞垣が巡るに過ぎなかったと云います。

営造物の中において中枢の地位を占める重要文化財の三ツ鳥居(三輪鳥居)は拝殿の奥深くにあり、そこから「辺津磐座(へついわくら)」までが禁足地とされています。山中には上から「奥津(おきつ)磐座」・「中津(なかつ)磐座」「辺津磐座」があり、麓の山ノ神祭祀遺跡などからは、古墳時代中期以降の土器や勾玉などが出土しています。

二の鳥居から続く参道は神域らしい張り詰めた空気に満ち、見上げた瞬間におのずと伸びる背中。ゆっくりと深呼吸をして一礼。

手水舎で参拝者を出迎えるのは酒樽に巻き付く蛇体。祭神である『大物主神』は蛇神であると考えられ、水神または雷神としての性格を合わせ持ち、稲作豊穣、疫病除け、醸造などの神として特に信仰を集める神とされています。

手水舎の後方に「しるしの杉」「三輪の大神のあらわれた杉、神の坐す杉とされていました。しるしとは、示現のことで、当初、神杉として信仰されていたすべての杉のことを指していました。この杉も覆屋が作られ、根本だけが残っています。」公式HPより

「巳の神杉」は、大物主大神の化身とされる白蛇が棲むことから名付けられた御神木。樹齢500年とも言われ、幹の周囲には蛇の好物の卵が参拝者によってお供えされています。

「衣掛(ころもがけの)杉」は、謡曲「三輪」に知られる『玄賓(げんぴん)僧都』の衣を掛けられたという神木。周囲10メートルにおよぶ株が大切に保存されています。

心身を祓い清めるとされる祓戸の四神が祀られる「祓戸(はらえど)神社」。神社に参拝の時は先ずここにお参りをし、俗世の汚れを払うのが正しい参拝手順となります。

三輪の神と人の子である女性の恋物語を伝える「夫婦岩」。神の鎮まる磐座の一つとされ、縁結び・夫婦円満のご利益があるとされています。

古来より『大物主大神』が鎮まる神の山として信仰されてきた「三輪山」。高さ467メートル、周囲16キロメートル、面積350ヘクタールのお山は松・杉・檜などの大樹に覆われ、一木一草に至るまで神宿るものとして尊ばれてきました。木々が生み出す命の気を体いっぱいに吸い込み、次なる聖地「大神氏」の始祖が祀られる地へと向かいましょう。

参拝日:2006年10月9日

 

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海(かい)神社 in 奈良県宇陀市室生

2023年05月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

奈良県宇陀市室生三本松に鎮座される「海(かい)神社」。御祭神は『豐玉姫命』、別名「なるみの宮」とも称されます。

創建「応永三年(1396)に室生龍穴神社より善女竜王を勧請したという。尤も当社に祀る神像は鎌倉期と考証されており、中世の初頭には既に祠を構えていたと思われる。龍穴神社は祈雨・止雨の霊験厚く国家を鎮護したので貞観9年 勅諚により善女竜王の称号が授けられた。それゆえ当社も宝暦四年の郷鑑には「善女竜王社」とあり棟札にも祭神は善女竜王と記されている。ところが明治初年の神仏分離令により海神の姫「豐玉姫命」を祭神とし社号も「海神社」と改称した。海神の化身は龍神である事から本地に帰ったともいえよう。「豐玉姫命」は万物の命の源である水を統御し五穀豊穣をもたらす霊能豊かな神であらせられ、安産・鎮守の神としてもご神徳高く古くから崇敬のご至情を集めている」境内案内より

拝殿前左右より神域を守護されるのは、扁平頭でずんぐりした体系が特徴の浪花狛犬さん一対。何ともユニークな顔立ちは、その口元から見える歯の所為かもしれません。

拝殿屋根には「海」と刻まれた瓦。そういえば『豐玉姫』とは、海神が愛でる海底の真珠の神霊とも言われています。海の全く無い山奥に鎮座される「海神社」も、祈雨・止雨の神であれば特段不思議な話でも有りません。でも「善女竜王社」の方がしっくりきたのではと・・つい考えてしまいます。

「山神社」

「明治天皇遥拝所」「大正天皇遥拝所」と刻まれた石柱。

参拝日:2009年4月29日

 

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宇陀松山重要伝統的建造物群保存地区 in 奈良県宇陀市大宇陀

2023年05月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

天武・持統天皇の時代、宮中行事でもあった薬狩りが阿騎野で行われたと文献に残る宇陀松山。古の昔より、阿騎野は、天皇の狩場や牧場があった場所として発展してきました。

宇陀松山が拓かれたのは、戦国時代に「宇陀三将」と呼ばれた一人、秋山氏の築いた秋山城の城下町を起源とします。その後豊臣秀長配下の大名により現在の町並みの原型が形成、地名も阿貴町から松山町に改められたとされています。

江戸時代には、宇陀松山藩の陣屋町として、元禄7年(1694)に江戸幕府の天領となってからは商業地として栄え、明治時代には宇陀郡役所や裁判所がおかれるなど地域の中心として発展してきた大宇陀。

往時の繁栄を伝える物はそこかしこに残されており、町歩きの楽しさに格別の趣を垣間見せてくれます。大きく「天寿丸」と書かれた看板が目を引き、松山地区のシンボルともされる建物。

江戸時代末期の細川家住宅を修復し、1994年に宇陀市大宇陀歴史文化館「薬の館」として開館。細川家は、文化3年(1806)に薬商を営み、天保7年(1836)には人参五臓圓・天寿丸という腹薬を販売しました。唐破風付きの看板が、当時の繁栄を今に伝えています。

松山と薬草との関わりは、江戸時代に開園した「森野旧薬園」に象徴されます。葛粉の製造を営んでいた11代目『森野藤助』は、享保14年(1729年)に幕府から派遣された採薬使に随行し、薬草採取に従事。その功績により幕府から薬草の種や苗を与えられました。自宅の裏山に開いた薬園には今も約250種類の薬草木が四季折々に来園者の目を楽しませてくれます。「森野旧薬園」は、「小石川植物園」と並ぶ日本最古の民間の薬草園として国の史跡に指定されています。

切妻造の建物に、すっかりと色あせてしまった看板が幾つも架かる「黒川本家」「山ノ坊屋」の屋号で吉野葛を商っていました。江戸時代中期の建築で間口10間半は、酒蔵通りの久保酒造と並んでこの一帯では最も広く、通りに貫禄を添えています。宇陀は「吉野葛」の産地として全国的に有名で、顧客に『谷崎潤一郎』の名が残されています。

薬の館の隣にある「山邊義徳家住宅」。かって宇陀紙の総元締めを家業としており、今も当時の藩札の原版や宿札などが残されているとか。入り口左側の千本格子の下に犬矢来を置き、厨子(つし)二階の虫籠窓は小さく、古い商家の状態がよく保存されています。天明5年(1785)の建築は宇陀松山で最も古く、奈良県文化財の指定を受けています。

松山地区まちづくりセンター「千軒舎」。明治時代前期の建築とされ、薬屋・歯科医院として使われていた「内藤家住宅」を改修。松山地区の観光拠点として一般開放されています。

江戸時代後期の建築で、片側入母屋・平入の伝統的町家「森田家住宅」。屋号を「諸木野屋」といい、1階前面の戸袋には「五龍園」と書かれた看板が残されています。当時は薬や雑貨を商っていたそうですが、明治初年には商売をやめ、今は空き家となっていました。

長い石段が続く「神楽岡神社」の参道脇に建つ「都司家住宅」。屋号を「更紗屋」といい、主屋には明治4年(1871)の愛宕祈祷札があり、明治元年頃の建築と伝わっています。宇陀の領主であった秋山氏の菩提寺・慶恩寺の晋山式の時には、都司家が僧侶の支度控えに利用され、この玄関から僧侶が出入りしたと云われています。

川沿いに建つ古い学校舎のような建物は明治36年に旧松山町役場として建設された、松山地区の中では比較的大きな建物。その後、工業学校、土木事務所等を経て、現在は大宇陀福祉会館として利用されています。

松山藩時代の面影を残す「史跡:宇陀松山の西門」。江戸時代初期の建築とされる「旧松山西口関門」で、建築当時のままの位置に残されています。

黒漆喰の外壁が美しい「久保酒造」。明治時代に「登徳造商店」として現在の店舗の場所から少し離れた村の中で創業。その後、大正時代に入り、現在の場所に移って今に至ります。

千代の松・稲戸屋などの醸造元である「芳村酒造」。建物の年代は昭和16年と新しいものの、格子・卯建・黒漆喰などの伝統的な町屋の要素を持ち、特に主屋南側の2段卯建は見事。

寒冷地であり、良質な水に恵まれたこの地は、また日本酒づくりにも最適な土地。地区の中心を南北に走る旧伊勢街道の南端は酒蔵通りと呼ばれ、今も軒先に杉玉を吊るした酒蔵の構えを見る事が出来ます。

上に小さく西の文字「右:大峰山上」、上に小さく南の文字「左:京 大坂」と刻まれた道標。

明治22年の町村制施行によって発足し、昭和17年の大宇陀町発足時に消滅した「神戸村道路元票」。目立たない存在ですが、宇陀松山地区の歴史を物語るものです。

松山地区には珍しい洋館は明治期に建てられた旧郵便局らしいのですが、この建物に関しては情報が今一つ不足。

こちらは今も現役の「久保医院」。丸い眼鏡が似合いそうなお医者さんが、にこにこ顔で「今日はどうしましたか?」と聞いてくれそう。

「琴平神社 愛宕神社」社号碑

どちらの神域を守護されていたのか不明ですが、浪花系の狛犬さん一対。かなりの年数をこちらで過ごされたようで、貫禄たっぷりの表情。

大樽が看板の「奈良一:奈良漬本舗  いせ弥」。奥に見えるのは「銘菓:きみごろも本舗 松月堂」。何もかもがしっとりと落ち着いて、ただそこを歩くだけで不思議なほど気持ちが穏やかになる・・・

こんな素晴らしい町並みが残されていることに、この町並みを残し続けて下さっている地元の方々に、私たちはただ感謝の思いで一杯です。

訪問日:2009年7月11日

 

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當麻寺門前町~ in 奈良県葛城市當麻

2023年05月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

予備知識の不十分さが露呈された當麻寺の冬牡丹でしたが、それでも花は綺麗でした。私たちが何を期待しているのかなんて花には関係の無い事で、強いて言うなら調査不足だった自分たちの責任かと(笑)
それはさておき、流石に古い歴史に裏打ちされた當麻寺だけに、実は仁王門から続く門前町も中々見ごたえがあるのです。

門前町の画像は、本格的にマンホール収集を目的で歩いた時のものなので、枚数としては非常に少なく・且つお粗末なのですが、それでもお蔵入りさせるには惜しい町並(^^;)。

江戸時代以前より、多くの参拝客で賑わったであろう當麻寺門前には、そうした参拝客の為の旅籠が多くあり、今も往時を偲ばせる佇まいが残されています。『釜めし 玉や』さんは、築160年余の「元旅籠:玉屋」。建物は登録有形文化財の指定を受けています。

こちらでの一番の収穫は何と言ってもこの「鶴松図」の鏝絵!!ご亭主殿はバイクに乗ったまま待機していた為、現物を見たのは私だけ。後でたいそう悔しがっておりました(笑)

他にも「米屋・菊屋・扇屋・大坂屋」など多くの旅籠があったそうですが、今はそれを教えるものは何も残っていません。それでも立ち並ぶ家屋はどれも素晴らしく、いかにもな雰囲気を漂わせています。

黒漆喰の壁から飛び出ているのは、かなりの太さの木の枝・・・現役でいるのか、それとももう枯れてしまったのか・・ここからでは知る良しも有りません。

参道途中で見かけた天満宮のお社。素通りは憚られ、でも時間に急かれての駆け足参拝。

拝殿前より神域を守護されるのは、関西ではお馴染みの、いかめしいお顔の狛犬さん一対。足元にまかれた細い注連縄、拝殿のものとお揃いでしょうか。

マンホール撮影のためと言いながら、ついつい横道に逸れてしまう私、バイクにまたがってゆっくりと移動するご亭主殿の顔は・・想像しない事にします(笑)

當麻の里に展開される「白鳳ロマンの道」。そこには様々な歴史が今も息づいています。大津の皇子が眠る二上山。相撲取りの祖とされる『当麻蹴速(たいまのけはや)』の塚も残されています。聖徳太子中條姫・・・古代の歴史が好きな人なら、一度は耳にした事のある人たちが確かにこの場所にいて、生きて、泣いて、笑って・・・それはまさに壮大な歴史ロマンの舞台でもあった場所。

上記の看板が有る「二上ふるさと公園」の一画に、何処に続くのか分らない石段。ご亭主殿は無謀にもチャレンジしかけましたが、三十段ほどであっさりと引き下がりました(笑)。この石段、実は四百五十六段もあったそうで・・・引き返してくれて良かった(^^;)

訪問日:2009年7月11日

 

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當麻寺(たいまでら)の冬牡丹 in 奈良県葛城市當麻

2023年05月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

寒牡丹と言えば石光寺ですが、実はここからさほど遠くない場所にもう一箇所、牡丹の寺と呼ばれる寺院があります。
二上山(にじょうざん、ふたかみやま)の麓に位置し、開基は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされる「二上山:當麻寺(たいまでら)」。西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」を本尊とし、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られています。

境内には数々の重要文化財級の建物を擁し、規模の大きさでは関西でも屈指の名刹。参道石段の突き当たりに建つ仁王門には、過ぎてきた歴史をじっと見据えてきた二体の仁王が阿吽の呼吸で立っています。

境内は広く、私たちの他に人影は無し。とても静かな冬景色の下に重要文化財である奥院楼門、その先にも内側にもやはり人影は無く、ひたすらに静か。

大和の国の西に位置にし、二つの頂上をもつ二上山。夕陽が二つの峰の中間に沈むことから、西方極楽浄土の入口、死者の魂がおもむく先であると考えられてきた二上山。

その神体山を背景に建つ重要文化財の奥院本堂の欄間には、楽を奏で、天空を舞う艶やかな天女の姿。

歩を進めるごとに出会う御仏の姿・・御仏を慰める御塔の数々・・

春になったらこの木はどんな風に装いをこらすのだろう?花の下に埋もれて眠りたいと詠った西行法師も、この桜を見たら目を細めたのではなかろうか・・

どこもかしこも仏の座す場に相応しく静謐で、何もかもが研ぎ澄まされて、そのくせ心地よい柔らかさ。

・・・・・と、ここまで書き進めて思い出したのですが(笑)、私はお寺に参拝に来たのではなく、當麻寺の寒牡丹を見に来たのです。あ!もちろん参拝はいたしました。でもほら、本堂の傍らに・・

西方極楽浄土を模した庭園にも、ほんのりと優しい藁苞が見えています。

広い境内のそこかしこに散らばる藁苞を探し、綺麗に咲く牡丹に見とれていましたが・・・・、どうも石光寺で見た寒牡丹とは様子が違っています。花はどれも美しく匂うばかりですが、あの寒さに耐える独特の凛とした佇まいが感じられない。

何より、花を咲かせる為に自らそぎ落とす筈の葉が、青々と花を包んでいるではないですか。

そうか!!ここのは寒牡丹ではなくて冬牡丹だったのか・・・・こういう書き方をしたからと言って、決して冬牡丹がダメと言うのではないし、寒牡丹に比べて見劣りするわけでもありません。実際に画像で見ても分るように、こんなにもあでやかで美しく、まさに百花の王たる姿です。

けれども、厳しい冬に耐えて咲く寒牡丹を・・と思っていた為、そうではないという気持ちがついつい勝ってしまいました。よく調べれば「こもを被った愛らしい冬ボタン」の記載もあったのに・・・・・

今思えば、時間に急かされてじっくりと境内の諸々を拝観できなかった事が惜しまれる。これほどの名刹に訪れておきながら・・ああ、もう何十回繰り返したか分からない、毎度おなじみの後悔 (>_< )

訪問日:2007年12月24日

 

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石光寺(せっこうじ)の寒牡丹 in 奈良県葛城市染野

2023年05月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

初夏に真冬の記事というのも如何なものかと、毎度の如くご亭主殿に笑われましたが、過去に遡ったブログならではの矛盾と割り切って(^_^;)

真冬の牡丹が見たい・・・唐突な発言にご亭主殿は「鳩に豆鉄砲」(笑)。真冬の牡丹には「冬牡丹」と「寒牡丹」があるそうですが、私が見たいのは、ほっこりと藁苞(わらづと)に守られた寒牡丹。そこで寒牡丹で有名な「石光寺(せっこうじ)」まで、真冬の寒さにもめげず(笑)バイクタンデムで出かけることに。

葛城市染野にある浄土宗寺院「慈雲山:石光寺」「役小角の開山と伝えられ、出土遺物等から飛鳥時代後期(白鳳期)の創建とみられる。『元亨釈書』等に記載される縁起によれば、天智天皇(在位668〜671年)の時代、霊光を放つ大石が見つかり、天皇の勅命を受けてこの石に弥勒如来を彫らせ、堂宇を建立したのが始まりとされる。」Wikipediaより

関西花の寺 二十番、牡丹・芍薬・寒牡丹と中将姫伝説で知られており、屋根の瓦には鬼と共に、美しい牡丹が咲いています。

拝観受付を済ませたら早速境内の花園へ。柔らかい藁苞の群れを見ただけで寒さも吹き飛びます。中を覗けば、この寒さの中でも凛とした美しさと花の王たる気品を持った姿が。

『寒牡丹は、自然の中に咲き、子孫を残すために必死に生きています。冬は風がきつく、昆虫がいないので風に運んでもらいます。風で茎が折れないように寒牡丹は花首が柔軟に出来ています。だから、茎の色やカタチにも味わいが出るのです。自らの意思でムダな葉っぱはそぎ落とすなど、省力化しながら息を潜め、ここぞという時に一気に花を咲かせる寒牡丹。これが二季咲きの牡丹の生きる知恵なのでしょうね。』

上記は石光寺のご住職様の言葉ですが、寒牡丹の説明は、まさにこの文章につきます。あとはもう、ただひたすら、美しく咲き誇る寒牡丹を愛でることに専念して。

「石光寺」は中将姫伝説ゆかりの寺院としても有名で、境内には中将姫が蓮糸曼荼羅を織成する際に蓮糸を染めたという井戸「染めの井」と、その糸を干したという「糸掛桜」が伝えられ、その為「染寺」と通称されています。

余談ですが、中将姫生誕地とされる奈良市の「誕生寺」。その境内には「中将姫産湯の井戸」もあるそうです。偶然通りかかったものの、あの時は門の前を素通りしただけ・・思い出すと・・悔しい(笑)。

名残は尽きませんがそろそろ次の目的地にむかわねば。受付奥の休憩所で頂いた熱いお茶に冷えた体もほっこり。見れば奥まった一画に『役小角』の像が安置されています。

厨子の前には、小角が伝えたとされる「肉桂」。近寄って匂いをかいで見ると、ほんのかすかですが、独特のニッキの香がします。どれほどの年月を経たものなのか分りませんが、これほどの肉桂があるのは多分、凄い事なのでしょう。

ネットや観光案内でしか知らなかった「寒牡丹」、念願かなって実際にその美しさに触れる事ができました。柔らかな藁苞は母の胎内のように深く温かく、牡丹を包み込んでそこに存在しています。

参拝日:2007年12月24日

 

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橿原(かしはら)神宮 in 奈良県橿原市久米町

2023年05月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

畝傍山の東麓、橿原市久米町に鎮座される「橿原(かしはら)神宮」。御祭神は『神武天皇・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)』。

第一代の天皇であり我が国建国の始祖となられる『神武天皇』を祀るため、畝傍橿原宮があったとされるこの地に、明治天皇により、明治23年(1890)4月2日に官幣大社として創建。内拝殿の奥に鎮座される本殿(重要文化財)は、安政2年(1855)に建てられた京都御所賢所ですが、ここからではわずかに幣殿の千木が見えるのみ。

素木建:八脚門で切妻造:銅板葺の「南神門」。その向こうに整然と静まる境内。

緩やかな稜線を見せる畝傍山を背景に建つ入母屋造の外拝殿。秋の日暮れは殊の外早く、参拝者の姿もまばらになった境内。日暮れ前の穏やかな光の中に見るその佇まいは、神々しいほどの気に満たされています。

外拝殿回廊 内側より

外拝殿回廊 外側より

神楽殿

北神門は、大正4年に建造された唐破風造の平唐門。もと正門だったものですが生憎と修復中。足場の隙間からわずかに唐破風の一部が見えました。

外拝殿向かって右手に置かれた「さざれ石」

板塀に囲まれ、白い玉石を敷きつめた方形の庭「祓戸」。祭典に先立ち、宮司以下祭員が修祓(しゅばつ)を行う場所です。(修祓=身を祓い清める)

2007年の干支「亥」が描かれた巨大絵馬も、あと二ヶ月ほどで新しい主役に取って代わられます。「亥(い、がい)」は「とざす」の意で、草木の生命力が種の中に閉じ込められた状態を表すとされます。それが日本で猪になったのは、単に動物に置き換えて覚えやすくする為だったとか(^^;)

南神門前広場の南方、奈良時代に造成された「深田池」は面積は約1万5000坪。畝傍山の南斜面から流れ込む雨水を水源とし、鴨やサギなどの憩いの場にもなっています。

第一鳥居と第二鳥居の間に設けられた「神橋」

第一鳥居に沈む夕日に見送られ、橿原の社を後にしました。

参拝日:2007年10月20日

 

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藤原宮跡(ふじわらきゅうせき) in 奈良県橿原市高殿町

2023年05月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

橿原市高殿町、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城【藤原京】。日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城でもあり、16年後に平城京に遷都されるまで、日本の首都とされた地です。

藤原宮 大極殿院閤門跡:列柱

列柱の後背に見える「耳成山」

持統天皇が飛鳥から藤原の地に都を遷したのは694年。新たな都の造営は、天武天皇の願いであった中央集権国家の確立には欠かせない一大事業でした。その大きさは、東西方向約5.3km、南北方向4.8kmと、平城京、平安京をしのぐ古代最大の都であったと言われています。

今は大極殿基壇跡を残すのみとなりましたが、現在でも藤原宮及び藤原京の発掘調査が続けられています。

歴史的風土特別保存地区に指定された広大な宮跡。10月上旬~10月下旬には、約30,000平方メートルに7種類のコスモス300万本が一面に咲き誇り、古の都もかすむ程の鮮やかな花に埋もれます。

耳成山を背景に

朝堂院東門 列柱と天香具山を背景に

訪問日:2007年10月20日

 

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おふさ観音 in 奈良県橿原市小房町

2023年05月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・奈良県

橿原市小房町にある高野山真言宗:別格本山「十無量山観音寺」。イングリッシュローズが咲き乱れる境内の様子から「花まんだらの寺」として知られています。

「慶安3年(1650年)4月、この辺りにあった鯉ヶ淵という池の中から白い亀に乗った観音菩薩が現れ、それを発見した付近に住む娘おふさが小さな堂を建立して比叡山延暦寺北谷にあった観音院の本尊・十一面観音を譲り受けて祀ったことが起源とされている。」Wikipediaより

春と秋、イングリッシュローズを中心に約2,300種類のバラが咲き誇る庭。花を用いて曼荼羅を境内に表現する・・・仏の世界には詳しくないので何がどうで曼荼羅となるのか分からないという罰当たりですが・・ごめんなさい。

境内の一画にバラに埋もれるようにいた亀さん、屋根の上にいた筈なのに、地上に降りたのはバラの香りに誘われたからですか?

バラの花独特の甘い香に包まれていると、ここがお寺の境内と言う事を忘れてしまいそうです。だから時折顔を見せる観音様のお姿に、ああ、そうだ、ここはお寺なんだと足を止め、そうして改めて手を合わせる二人。

ここにある薔薇は、副住職を中心に寺内の方々によって、1995年から少しずつ増やしていったもので、1種類1株を基本に、近年は特にイングリッシュローズを中心に丹精こめて育てられています。美しい薔薇の香に包まれる世界は、仏の曼荼羅にも通じるものとして多くの人に愛されているのだとか。

境内の一画に見つけた鳥居の奥、奉られているのはどのような神でしょう?華やかなバラの花に見守られる狛犬さんたちの表情も心なしか和らいで見えます。

自然界が生み出した美しい花は、神や仏に愛され、人の手を借りてより一層美しく変化し、神や仏の住まう場所を美しく華やかに彩り、人々の心を癒してくれるのです。

境内の奥にはお茶をいただける場所もあり、こんな風にしっとりした庭園を眺める事もできます。バラと言うとそれだけで「洋」をイメージしますが、実は意外とそうでもないのかも・・お寺や神社にとっても良く似合う梅も桜も、考えてみれば「バラ科」の植物ですよね。

参拝日:2006年11月8日

 

コメント (2)
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