車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 山口県旧徳山市(周南市)

2024年05月20日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

徳山市(とくやまし)は山口県の南東部に位置した市です。防府市、下松市、新南陽市、鹿野町、徳地町、熊毛町に隣接。港湾や道路、鉄道などの恵まれた交通基盤を生かし、昭和30年代から石油化学コンビナートをはじめとする企業立地が進み、周南臨海工業地帯の中心都市として発展を続けてきました。

徳山の地名は、中世の頃に野上庄と呼ばれた地域が毛利氏に引き継がれ、慶安3年(1650)9月に『毛利就隆』が下松から住まいを移した際、当時藩政の安定していた阿波徳島と備前岡山からそれぞれ一字をとって「徳山」と改めた事にちなむと云われています。庁舎の敷地内の胸像は『野村 恒造』。徳山藩士の二男で明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員を務めた人物だそうです。「市の木:樟」「市の花:サルビア」を制定。

徳山市を説明するのに「日本の縮図」あるいは「日本の1/1000のモデル」と言う言葉があります。これは、面積が約340平方km、人口が約11万人で日本全体の約1/1000であること。山地が70%以上に対し平地はわずか7%、この7%の平地に全人口の7割が住んでいること。後背地は農山村地域で一部に過疎地があり、また離島もあること。

臨海部には原材料海外依存型の化学・石油等の工場群が立ち並んでいること。産業就業構造がほぼ同じこと。これらは、わが国の経済発展の道とほぼ同じ軌跡をたどってきたこと・・などによるものです。

明治22年(1889)、町村制の施行により都濃郡(つのぐん)徳山村・富田村・加見村・久米村・太華村・福川村・大津島村・夜市村・戸田村・湯野村・須金村・須々万村・中須村・長穂村・向道村が発足。

1900年、徳山村が町制を施行、都濃郡徳山町となる。

1912年、福川村が町制を施行、都濃郡福川町(第1次)となる。

1915年、富田村が町制を施行、都濃郡富田町となる。

1941年、富岡村が富田町に編入。

1935年、都濃郡徳山町が市制を施行、徳山市となる。

1940年、太華村が町制を施行・改称して都濃郡櫛浜町となる。

1942年、徳山市が都濃郡加見村・久米村を編入。

1944年、都濃郡櫛浜町・富田町・福川町・大津島村・夜市村・戸田村・湯野村が徳山市と合併、改めて徳山市が発足。

1949年、徳山市のうち旧村域が分立、都濃郡福川町(第2次)が発足して離脱。

1954年、都濃郡須々万村・中須村・長穂村が合併、都濃郡都濃町(第1次)が発足。

1955年、都濃町が須金村大字金峰および須万の一部と合併、改めて都濃町(第2次)が発足。

1955年、徳山市が都濃郡向道村を編入。

1962年、徳山市大字中須南字滝ノ口が下松市に編入。

1966年、徳山市が都濃町を編入。

2003年、新南陽市・鹿野町・熊毛町と合併、周南市となりました。

マンホールには全体に「市の花:サルビア」がデザインされています。

全くデザインの異なった「市の花:サルビア」のマンホール。個人的にはこちらのデザインの方が凝っていて素敵です。

「フグはえ縄漁発祥の地」である、粭(すくも)島のマンホールには「真ん丸に膨らんだ二匹のフグ」がデザインされています。

桜馬場通りのマンホールには、桜馬場にちなんで「満開の桜の木」がデザインされています。

湯野温泉地区マンホールには、「こけしのような人型と温泉マークで湯の字」がデザインされています。

1953年11月26日制定の市章は「「近代的都市として繁栄する徳山の「とく」を飛躍と向上のかたちに表現されています。」旧HPより

消火栓

仕切弁

空気弁

撮影日:2015年11月15日&2017年11月29日

🌸明日は湯野地区に残る「県指定有形文化財:山田家本屋」の紹介です。

コメント (5)
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