車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホールとマンホールカード第16弾 in 愛媛県砥部町

2020年11月30日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

伊予郡砥部町(とべちょう)は愛媛県のほぼ中央、松山平野の南端に位置する町です。北部は重信川を隔てて松山市、西部は伊予市、東部は伊予郡松前町、上浮穴郡久万高原町、南部は喜多郡内子町に隣接。北部は重信川に注ぐ砥部川が中央部を流れる盆地状の地形で、南部に向かうにつれ標高が高くなり、北ケ森(1010メートル)、三郷の辻(932メートル)などの高峰に囲まれた山間地域となっています。古来より良質の砥石「伊予砥」を産し、町内の一つ地区を砥山と称していましたが、周辺の地域一帯を含めて砥部と呼ぶようになった事が地名の由来です。200年以上の歴史を持つ伝統工芸品「砥部焼」で知られています。「町の木:クヌギ」「町の花:梅」を制定。

キャッチフレーズは「清流とほたる 砥部焼とみかんの町 砥部焼と豊かな自然、みんなで創る陶街道」

「陶街道五三次の五:赤坂泉」

明治22年(1889)、町村制の施行により、下浮穴郡砥部村、原町村、広田村が発足。

1897年、郡制の施行により、伊予郡の一部・下浮穴郡の一部区域をもって伊予郡が発足。

1928年、砥部村が町制を施行、第一次伊予郡砥部町が発足。

1955年、砥部町と原町村が合併、第二次砥部町が発足。

2005年、砥部町と広田村が合併、第三次砥部町が発足。現在に至っています。

マンホールには、「砥部焼きの花器や食器」「町の特産:みかん」がデザインされています。

2005年1月1日制定の町章は「砥部町の「とべ」を図案化したもので、円形は「和」を、放射線状は「将来への発展」を象徴しています。」公式HPより

砥部町イメージキャラクター『とべっち』。ミカンの顔に砥部焼の笠で、陶街道を巡りながら、砥部の良さをアピールしています。

撮影日:2013年3月26日

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マンホールカード、頂きました。

2022年1月15日、第16弾として全国41自治体で42種類(累計621自治体822種類 )のマンホールカードの配布が 開始されました。「砥部町」のマンホールカードは、「砥部焼伝統産業会館」でいただけます。

2021年に設置開始されたマンホールには「砥部焼の器」と「ミカン」がデザインされています。

「本デザインは、国の伝統的工芸品に指定されている砥部焼と町の特産品であるみかんをあしらっています。 砥部焼は240年以上の歴史を持ち、厚手の白磁に藍で色づいた淡い風合いが特徴で、全国に多くのファンがいます。 温かく素朴な出来ながら耐久性も強く、日用品として親しまれています。町の中心部には砥部焼のモニュメントが多数配置されており、訪れた人をもてなしています。 温暖な気候となだらか丘陵が続く地形は果樹栽培に適しており、みかんの栽培が盛んです。「清流とほたる、砥部焼とみかんの町」のキャッチフレーズのもと、自然と文化の融合する町を作っています。」

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惠依彌二名(えひめふたな)神社 in 愛媛県松前町

2020年11月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

松前町大字出作に鎮座される「惠依彌二名(えひめふたな)神社」。御祭神は『惠日売命(えひめのみこと)』。配神『伊予津彦命 ( いよつひこのみこと )・伊予津姫命 ( いよつひめのみこと )』。外 十四柱の神々が奉られます。

現在の社殿は1999年に松山の「伊豫豆比古命神社(椿神社)」の旧社務所を移築。拝殿内には美しい日の丸が掲げられており、とても清清しい雰囲気の神社です。

由緒「神社の創設は古く、景行天皇(西暦71年即位)の御代と伝えられ、伊予の古宮として伊予二名本宮と称していた。その後、伊予大社五大社大明神と称し現在地の北方約100mに鎮座されていたが、慶長5年(1600)の兵火により社殿等が焼失した。その6年後、時の松山藩主加藤嘉明公の命により再興され、恵日売命外十六柱が祀られており、元禄から享和の頃(1700~1800)には、八幡様として崇敬された。」愛媛県神社庁

鳥居近くより神域を守護されるのは建立年不明の狛犬さん一対。おおらかな笑顔の阿形さんと、ちょっと口をすぼめた吽形さんが良い感じ。

御本殿に向かって左に細い参道が続き、その先に「境内社:平若神社」

「慶長五年九月十七日 ( 1600 ) 当地頭平岡大和守通房入道左近房実( 通称年若きゆえ、平若左近という ) は、毛利輝元に一味して松前城を攻め、三谷村で合戦、敗北して討ち死にす。 その亡骸を家来七人が鶴吉村、神崎村を経て持ち帰り、氏神の西側 に埋葬し、その墓前で七人の臣自刃し、主人左近と墓を並べしとか... 大正末頃、故あってこのところに移し祀られたと伝えられる。 この戦の時、西風強く兵火により神殿・幣殿・楼門・その他を焼失、その時別当時吉祥寺も焼失。その後、夜ごとに走る首なし馬の音を鎮めるため、毎年七月十二日に、鶴吉村・神崎村・出作村で大念仏供養が行われていたと伝えられている。」 境内案内

その昔、主君をしたい一身をかけて主君の亡骸を守ってこの地に埋葬の後、後を慕って従死(じゅうし)した武士たち。今はただ静かに黄泉の国にて主君と共に過ごされておりますように🙏🙏・・・・・そうして私たちは、色鮮やかなアジサイの花に見送られ、境内を後にしました。

参拝日:2011年6月13日

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ご当地マンホール in 愛媛県松前町

2020年11月28日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

伊予郡松前町(まさきちょう)は道後平野の南端に位置する町です。松山市、伊予市、伊予郡砥部町に隣接。石鎚山系に端を発した一級河川重信川を境に、道後平野の西南部に町域が開け、西は伊予灘に面し、南は伊予市をへだて四国山脈が望めますが、愛媛県内で唯一「山のない」自治体です。また江戸時代の『義農:作兵衛』の出身地としても知られます。「町の木:松」「町の花:ヒマワリ」を制定。

キャッチフレーズは「水きらめき 笑顔あふれるライフタウン・まさき」

明治22年(1889)、町村制の施行により、伊予郡松前村、岡田村、北伊予村が発足。

1922年、松前村が町制を施行、第一次伊予郡松前町が発足。

1955年、松前町、岡田村、北伊予村が合併、伊予郡松前町となりました。

マンホールには、町章を中心に「町の花:ひまわり」が大きく描かれています。

1990年3月31日制定の町章は「「ま・さ・き」を図案化し、全体で飛躍を印象づける翼を表わし、横線3本は、合併した三町村の繁栄と和を図でむすび、町の発展を象徴させています。」公式HPより

撮影日:2011年6月13日

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「義農作兵衛」

享保の大飢饉、一俵の種麦を擁しながら「農は国の基、種は農の本です。一粒の種子が、来年には百粒にも千粒にもなります。わずかの日に生きるためだけに食してしまって、どうして来年の種子ができるでしょうか。自分の身を犠牲して多くの人の命を救うことができれば私は本望です」と述べ、麦種を一粒も食することなく飢え死にしてしまった『作兵衛』。村人たちは彼の残した麦種を一粒ずつ大切に蒔くことで次の年を乗り切ったという。また、この話を聞きつけた松山藩は年貢の軽減、免除の措置を施します。作兵衛の尊い思いは、「義農精神」として受け継がれ、義農神社に建立された作兵衛の墓標には「天を敬する者は天より恵まる  地に親しむ者は地より与えられる  人を愛する者は人に報ひらる」と刻されています。

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国津比古命神社&宇佐八幡神社 in 愛媛県松山市(旧北条)

2020年11月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

松山市八反地に鎮座される「式内社:国津比古命(くにつひこのみこと)神社」。御祭神は『天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)』

創建由緒「当社は延喜式神名帳に所載の古社で、文徳天皇仁寿元年正六位上を授与。 応神天皇の御宇に物部阿佐利が風早の国造に任じられて、饒速日命、宇麻志摩遅命を祭祀せられた。物部氏、風早氏は氏神として尊崇し、神田、神器を奉献され、社名は初め櫛玉饒速日命神社と称したが、阿佐利命を合祀して国津比古命神社と改めた。 後に頭日八幡宮と改称したが、中御門天皇の享保年中に旧号に復した。」愛媛県神社庁

二の鳥居脇より神域を守護されるのは、天保9年(1838)8月吉日建立の狛犬さん一対。阿吽共にとても穏やかな笑みを浮かべて参拝者を出迎えてくれます。

鳥居の先にはさらに石段が延びており、登りきった先の左手に国津比古命神社楼門が端正な姿を見せています。

愛媛県指定有形文化財の楼門は「慶安二年(1649)に市内阿沼美神社に建立されたものを元禄年間(1688-1703)に、この地に移したと伝えられるが、建立年については、慶長十年(1605)に初代松山城主加藤嘉明が建立したもとという説もある。」松山市教育委員会

内陣には随身様が守護の任に当たられているのですが・・・間違って夜間に出会ってしまったら・・😱、全速力で泣き叫びながら逃げる自信あり。

石段はさらに続き、その先にやっと拝殿が見えてきました。大切に保存されていた「石額」は延宝九年の鳥居扁額として用いられたものですが、諸事情あって保管されることになった旨が説明されています。

楼門の右手奥、櫛玉比賣命神社の社号標の横に続く石段を登ると、『櫛玉比賣命(くしたまひめのみこと)』をご祭神とする「式内社:櫛玉比賣命神社」の境内に至ります。

由緒に「軽島豊明朝臣物部阿佐利を風早の国造として下らしめると、其祖饒速日命の妃を祭祀し櫛玉比売命神社と称した。」愛媛県神社庁

一つの境内に御祭神の社殿と向き合うように鎮座される后神「櫛玉比賣命神社」・・神様の世界であっても、夫婦神が同じ地にいられるのは、とても素敵だと思いませんか😊

【元 朝 や  揆(き) い ま 到 る  第 一 鼓】井上春甫

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松山市磯河内に鎮座される「宇佐八幡神社」。御祭神は『足仲彦命、誉田別命、気長足姫命、天照皇大神、宗像三女神』

一の鳥居内より神域を守護されるのは天保9年(1838)8月吉日建立の構えタイプの狛犬さん一対。「石工・中谷元右衛門」。 阿吽共に尾を高く上げており、吽形さんだけが、いかにも大事そうに玉を抱えています。

由緒に「往古安波居坂に日女宮の古祠あり天照大神を祭る、延暦二三年厳島宮より三女神を合祀、延長元年宇佐八幡宮を勧請す。天慶年中河野好方祈願し藤原純友を討ちて凱旋奉幣す。其後河野氏栗上氏議して現在の地に遷し宇佐八幡宮と称す。」愛媛県神社庁

本来であれば社殿もしくは本殿の画像を添えるはずなのですが、〆鳥居の奥に続く三重太鼓橋のような石段に恐れをなし、参拝はここにて済まさて頂きました。🙏🙏

参拝日:2011年6月12日

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ご当地マンホール in 愛媛県旧北条市(松山市)

2020年11月26日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・愛媛県

旧北条市(ほうじょうし)は愛媛県中予地方、高縄半島の西側に位置した市です。松山市、越智郡玉川町・菊間町、海を隔てて温泉郡中島町に隣接。市域の西は瀬戸内海に面し、ゆるやかな山地と海岸との間に平地が広がっており、ゆるやかな山裾を利用したゴルフ場が多くみられます。平安時代末期から16世紀後半まで、水軍を率いた河野氏がこの地を治め、江戸期には松山藩領と大洲藩領とに分割して統治されていましたが、替地により松山藩領となりました。北条港の沖合いには愛媛県指定天然記念物「九州鹿」の生息地で知られる「北条鹿島」があり、周遊船や渡船で渡る事もできます「市の木:楠」「市の花:愛媛あやめ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、風早郡北条村・難波村・正岡村・浅海村・立岩村・河野村・粟井村が発足。

1897年、郡制の施行により、温泉郡・久米郡・風早郡・和気郡、伊予郡・下浮穴郡の各一部の区域をもって、改めて温泉郡が発足。

1898年、北条村が町制を施行、温泉郡北条町が発足。

1951年、北条町が難波村、正岡村と合併、第二次温泉郡北条町が発足。

1955年、北条町が浅海村、立岩村、河野村、粟井村と合併、第三次温泉郡北条町が発足。

1958年、温泉郡北条町が市制を施行、北条市が発足。

2005年、温泉郡中島町とともに松山市へ編入されました。

マンホールには「野生シカの生息する北条鹿島」と、「市の花:愛媛あやめ」がデザインされています。

こちらには正岡子規の句【涼しさや 馬も海向く 粟井坂】と「北条鹿島」がデザインされています。

上とよく似たデザインですが、こちらには地元出身の仙波花叟の句【腰折という名もおかし春の山】と、「市の花:愛媛あやめ」。

伊予北条駅の駅案内パネルは「野生シカの生息する鹿島の駅」。駅舎の前には一対の「野生シカ」のモニュメント。

昭和33年(1958)11月1日制定の市章は「「北」の文字を図案化して融和と進展、波頭で観光鹿島の風光明媚を表しています。」合併協議会資料より

撮影日:2011年6月12日

(※)芸予諸島本島にある旧温泉郡中島町は未訪問の為、マンホール情報は有りません。

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松山市内の訪問を終えて北条に向う前日に車泊させていただいた、「道の駅:風早の郷風和里」。瀬戸内海に面し、季節には美しいだるま夕陽が見える名所としても有名です。物産館も施設も充実しており、お買い物なども楽しめてとてもよい所でしたが・・・真夜中に何度も道の駅の周りを周回する暴走族に眠れない夜を過ごした事が残念でした。

ともあれ、車で旅をする私達にとって、こうした施設は、本当にありがたく大切な場所です。

改めて、その折は有難うございました🙏🙏

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日招(ひまねき)八幡大神社 in 愛媛県松山市

2020年11月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

松山市保免西に鎮座される「日招(ひまねき)八幡大神社」。御祭神は『品陀和気命、息長帯姫命、宗像三女神』。

〆鳥居の奥にたつ神門、その先は不自然なほどの明るさ。一瞬、戸惑いを覚えるほど・・下調べをした時、そんなに境内広かったかな?

神門内より神域を守護されるのは、長い時を此処で過されたのが窺える随身さま。

境内には仮殿以外に社殿は無く、周囲に結果が張り巡らされた基礎の石組みが残されています。どうやら参拝はこの仮殿でということで・・もしかして社殿の建替えとかが成されるのでしょうか?

由緒「崇峻天皇2年(589)筑紫より宗像大神を当地に勧請し、門嶋宮と称した。大同年間(806~809)痘瘡を患った大納言雄友卿が当社に祈願すると平癒したことから伊予痘瘡宮と呼ばれ崇敬を集めた。 元慶2年(878年)石清水八幡宮より八幡宮を勧請し石清水八幡宮と称するようになった。元暦元年(1184)佐々木高綱入国の際に砥部城主、荏原城主と合戦となり勝敗の決まらないまま日没となる時当社に祈願し軍扇で入日を招くと日が差昇り勝利を得ることができたことから日招八幡宮と改めた。」愛媛県神社庁

仮殿の手前左右より神域を守護されるのは、嘉永7年(1854)4月吉日建立の狛犬さん。阿吽共にイカ耳でサザエのような巻き毛を身にまとい、綺麗に装飾された玉に寄りかかっています。 そして吽形さんの玉の上には、一生懸命に親狛を見上げる小さな子狛の姿も

境内の一画に置かれた「おとよ石」「昔、松山城が造られたごろのことなんよ。 松前の港には、大名から送られた紋入りの 石垣用の石が山のようにあってな。 この石を、毎日たくさんのおたたさんが 頭にのせて、松山へ運びよった。その中の一人、 おとよは長い勤めじゃけん疲れきっとったけど、 その日も勤めに出たんよ。 一つ丸に二の字の入った石は、大きいので、 だれも顔を見合わせて運ばなんだ。 ほやけどおとよは、「私が勤めましょう。」 と言うたんよ。みんなは、止めたけんど、 「これくらいのことがでけんようでは、御城主様にすまん。」 と言うて運び始めたんよ。出合を過ぎるへんから おくれがちになって、よろめいとった足も、日招神社の ところまで来て、とうとう前に進まんようになって、 倒れてしもたんよ。 それで、このけなげなおとよをあわれんで、その石を、 「おとよ石」といい、この神社に残すことにしたんよ。」 松山のむかし話

昔話にケチをつけるのはタブーですが、あ・え・て!! 何人かで協力して運ぶという発想は無いんか😡!!

参拝日:2011年6月12日

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伊予絣会館と鍵谷カナ頌功堂 in 愛媛県松山市

2020年11月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

松山市久万の台にある「民芸・伊予かすり会館」。2011年の松山市内神社巡りで参拝した「三島神社」とは、道路を挟んだ向かい側に位置しています。
体調を崩し車で待機していた私は、このかすり会館が気になって仕方ありませんでした。 夫婦共に長く着物の世界に関わってきた関係もあり、織物関連の施設は格別に興味があります。 が、その時は次々と予定が詰まっており、とてもここで時間を費やすことは出来なかったのです。

2013年の再訪で来館が実現したのは、松山城リベンジの夢を打ち砕いた雨のせい。今度こそは、美しい青空の下でと決意も新たに臨んだ以上😠 妥協は出来ません。そこで一日、どこかで・・となった時、思い出したのです!このかすり会館の存在を。

会館の屋根の軒丸瓦には、絣の文字が紋の様に刻まれているし。鬼瓦には絣の代表柄「井桁」、この柄は松山市のマンホールにも描かれていましたよね。でもって、この井桁、敷地のそこかしこにあって、思わずウフッ😄

三月ということもあって、館内には彩りも華やかなオリジナルの雛飾り。猫好きにはたまらない「猫のお雛様」、それはもう、当初の目的を一瞬忘れてしまいそうになったほど、足が動かない💦

かすり資料館では「伊村式整経機」をはじめとした、伊予絣に関する様々な資料の展示に加え、実際に機織りの実演も見せて頂けます。

伊予絣(いよかすり)」とは、愛媛県松山市で製造されている絣の総称で、「久留米絣、備後絣」とともに日本三大絣の一つ。江戸時代後期、今出(松山市西垣生町付近)在住であった『鍵谷カナ』が独力で織出したといわれています。

ふとん絣とも呼ばれる大絣等の文様は実に奔放自在、明治の中頃から大正にかけては日本の絣生産のおおよそ半分を占め、明治37年(1904)には生産量日本一を記録しました。

展示されている絣の実物はどれもこれも、そのまま和風のインテリアとして使えそうなデザインばかり。暖簾はありきたりかな?、いっそランプシェードに貼り付けて・・

考えることは誰しも同じと見えて、ケースの中にはこんな屏風が懐かしいお人形たちと一緒に展示されています。

懐かしい「阿波木偶人形」は巡礼のお弓。継ぎ合わせた着物がいかにもつらい旅を想像させて、叶うことなら抱きしめたい衝動に駆られそうな風情。

美術館の展示のように、額縁に収められた伊予絣の文様。庶民の暮らしの中に溶け込んでいた品々はいつしか姿を消し、そして新たに伝統工芸品として命を吹き返しました。

かすり会館の記念スタンプは、会館前に建立されていた子規の句碑と同じ、
【花木槿 家ある限り 機の音】 目を閉じると、軽快な機織の音が聞こえる気がします。

松山市の今出地区には、伊予絣創始者の鍵谷カナの功績を讃え、伊予織物同業組合が建設した「鍵谷カナ:頌功堂」があり、2011年に訪問していました。

鉄筋コンクリート造の八角堂の中央に『鍵谷カナ』頌功碑。8本のエンタシスの柱と斗組により反りの強い本瓦葺八角屋根を支える特徴的な姿形をしています。設計は、愛媛県庁本館や萬翠荘と同じ『木子七郎』。国の登録有形文化財に指定されています。

 

【朝鵙(あさもず)二 夕鵙(ゆうもず)二 かすり 織りすゝむ】村上霽月

村上霽月の弟子三由 孝太郎:句碑明日引かん 鴨なる深き 眠りかな

たまたま近くに見かけた竜宮門。瓦の面白さに引かれて画像に残したのですが、帰宅後にそこが『鍵谷カナ』のお墓がある「長楽寺」だったと知った時の「そうだったんだ・・」と思った、あの不思議な感じが忘れられません。

訪問日:2011年6月12日&2013年3月27日

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波賀部(はかべ)神社 in 愛媛県松山市

2020年11月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

松山市高井町に鎮座される「波賀部(はかべ)神社」。御祭神は『大山積命、高靇神、雷神』。配神として『寛王命(かんのうのみこと)』を奉ります。

〆柱の奥に鎮座される「波賀部神社」。境内の後方には、松山市指定記念物(史跡)の「波賀部神社古墳」があります。

由緒「聖武天皇の御代、神亀5年(728)、伊予の豪族越智玉純が、大三島より勧請し、石井郷一宮三島大明神と称した。 後に、嵯峨天皇の皇子寛王が、伊予の国司として赴任されたが、貞観18年(876)この地で亡くなられ、神社の傍らに遺骸を葬り、神霊を合祀したことから、社号を墓邊神社と改称した。後世、墓の字を忌み波賀部神社に改めた。」愛媛県神社庁

参道途中より神域を守護されるのは、体の三分の一はありそうな玉を持つ狛犬さん。あまりにも大きな玉なので二足歩行の姿勢😅

優雅な曲線を描く注連縄に守られた拝殿。その後方に広がる緑の一帯に残る墳丘。これは松山平野に現存する前方後円墳の中でも最大級のものといいます。

拝殿正面の切妻屋根の上では勇ましく龍を追う雷神の姿。・・この辺りでは龍と雷神は一対の存在なのでしょうか? 「阿沼美神社」の奉納額でも似た構図を見ました。

棟瓦の中に潜む猛虎は龍を追いかけ、その口には龍の宝剣が咥えられています。それが龍の尾から出たものなのか、それとも雷神から与えられたものなのか・・・・

飾り瓦と言えば留蓋の獅子は定番ですが、私は今までにこんな異形の獅子を見た事がありません。皮膚を覆うのは獅子の毛並みではなく鱗。角はまさに鬼のもの、重く垂れ下がった瞼・・鬼師の意図は何所にあったのでしょう。

拝殿内には沢山の奉納絵馬がありましたが、比較的きちんと撮れた「唐獅子」。もしかして留蓋の獅子のお手本にされたのでしょうか?鋭い目つきは恐怖さえ感じさせます。そして右は・・・何と!「鮫の顎」

拝殿の東に鎮座されるのは「境内社:一事神社」。右に「境内社:太刀打神社」

拝殿西に鎮座されるのは「境内社:朝日社」、右に「境内社:床浦神社」

同じく拝殿西手前に鎮座されるのは「境内社:生目神社」、右に「境内社:金刀比羅神社」

少し後方に回れば、横穴式石室の露出部分なども見る事ができたのでしょうが、その当時は次の目的地に行く事が先決。調査不足もありますが、時間的に余裕がありませんでした。

参拝日:2011年6月12日

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久万ノ台三島神社 in 愛媛県松山市

2020年11月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

松山市久万ノ台に鎮座される「三島神社」。御祭神は『大山積命、高靇命、雷神』。この辺りは『大山積命、高靇命、雷神』の三座を祭神とする神社が多く、御神紋も同じ「折敷に波三文字」。

長い石段の先、鳥居と拝殿が見えてきました・・と言っても、私は車で待機中。流石に痛み止めが追いつかなくなりました。

由緒「往昔、古宮山俗に柴山と称する地に鎮座、社殿は河野玉純の創立という。現在地は元お旅所であったが延宝6年7月奉遷、河野小六郎行恒が氏神社として崇敬した。」愛媛県神社庁

石段上より神域を守護されるのは、弘化3年(1846)8月吉日建立のイカ耳狛犬さん一対。吽形さんの足元では、台座から滑り落ちそうな子狛が必死によじ登っています。雨に濡れている所為なのか、阿吽ともに、何とも気だるそうな顔。

撮影を終わらせて車に戻ってきたご亭主殿、待ちかねた私、早速デジカメを受け取って画像のチェック😆

狛犬:阿「何だぁ~?俺っちの所には、いつものチッコイ相棒は来ないのか」

狛犬:吽「チッ、野郎一人かい、色気のねぇ話だぜ」

狛犬:子「あ~、そんな事いっちゃいけないんだよ~!神さんにしかられちゃうんだよ~」

留蓋獅子:「へへ~ぇ!!聞いたぞ~聞いたぞ~。雷神さんにいいつけてや~ろぉ!」

ご亭主殿:「・・・・tibinekosanさん・・あんた疲れてるんだよ」

参拝日:2011年6月12日

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諸山積(もろやまづみ)神社 in 愛媛県松山市

2020年11月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・愛媛県

松山市船ヶ谷町に鎮座される「諸山積(もろやまづみ)神社」。御祭神は『大山祇神(おおやまつみのかみ)、高靇神(たかおかみのかみ)、雷神(いかづちのかみ)』

由緒「往昔白人嶺にあって、浦戸明神と称えたが、和銅5年に大三島より高龗神、雷神を勧請し、三島別宮地の御前とも称したという。」愛媛県神社庁

参道参道石段下より神域を守護されるのは、慶応3年(1867)4月吉祥日建立の構え狛犬さん。高く上げた尾の先まで気合が籠められた、かなり強面の一対です。

境内二つ目の手水舎の隣にはかなり古そうな井戸があり、同じように瓦葺の屋根が設けられています。

神井戸の近くより神域を守護されるのは、何とも不思議な雰囲気を持った狛犬さん。阿形さんの顔は何らかのアクシデントに襲われたようですが、それを跳ね返すほどの笑顔を浮かべているように見えます。

「折敷に波三文字」の御神紋を浮き彫りにした重ねの天水桶を左右に、静かに鎮座する拝殿。一文字に架けられた注連縄が清々しく見えます。

拝殿中央、注連縄の支え紐を顎枕に寛ぐのは「玉眼の龍」。ここでは雷神の攻撃を受けずにいられるのか、顔立ちも至ってのんびり😊

拝殿屋根の留蓋の獅子一対。龍が頼りにならないと思っているのか、参道の狛犬さんに負けないくらいの強面😅。

【白芙蓉 か細く首のかたぶくに さらさら時の 流れやまずも】五百木小平

参拝日:2011年6月12日

長い石段参道から降りるとき、「ポンジュース」の工場が見えました。ああ・・愛媛だものね。そうかぁ~ポンジュースなんだ😄

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