車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 山口県旧秋芳町(美祢市)

2024年04月30日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

旧美祢郡秋芳町(しゅうほうちょう)は山口県の西部中央に位置した町です。北は長門市、東は美東町、南は宇部市、西は美祢市と隣接。町の北部には500〜700mの中国山地の山系が連なり、比較的急峻な地形を呈し、中部は秋吉台国定公園などのカルスト地形が発達した穏やかな丘陵をなし、南部は河川の南下にしたがって緩慢な丘陵地形となっています。

町の中央部を北から南へ流れる厚東川の本支流に沿って平野部が開け、人口のほとんどは厚東川とその支流の両側に集中。北部は礫岩・砂岩、南部はチャート・粘板岩・石灰岩から成り立ち、総じて表土は厚く肥沃となっています。町の大部分が秋吉台国定公園となっており、カルスト台地の地下には多くの鍾乳洞が存在します。

「町の木:カシ」「町の花:りんどう」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により美祢郡秋吉村・岩永村・別府村・共和村が発足。

1955年、秋吉村・岩永村・別府村・共和村が合併、美祢郡秋芳町が発足。

2008年、美祢市・美東町と合併、改めて美祢市秋芳町となりました。

マンホールには、町章を中心に「特産のニジマスと梨」、「町の花:リンドウ」がデザインされています。

中央に「町の花:りんどう」、周囲に「町の木:カシ」がデザインされています。

昭和30年(1955)11月9日制定の町章は、「「シュウホウ」を図案化したもの 」

秋吉台がデザインされた仕切弁。

秋吉台がデザインされた消火栓

上記二枚は秋芳洞に至る商店街に敷設されています。

カルスト台地:秋吉台の事なら、(多分)何でも知っている『あきよしどうだい君』。さて、彼は秋芳町のキャラクター認定で良いのか?😅

撮影日:2012年11月15日&2017年12月1日

 

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ご当地マンホール in 山口県旧美東町(美祢市)

2024年04月29日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

旧美祢郡美東町(みとうちょう)は山口県の中央部、カルスト台地秋吉台の麓に位置した町です。秋芳町、山口市、宇部市、萩市、長門市に隣接。山口県の内陸部に位置する事から、夏暑く冬寒いという内陸部特有の気候。町は山間部に囲まれるかたちにあり、町内間の移動でも峠越えが必要な箇所が存在しました。

奈良時代には、町域の長登(ながのぼり)銅山が奈良東大寺大仏鋳造のための銅を産出していたことがあり、寛永年間には町内の銭屋に寛永通宝の鋳銭所が開かれるなど、古くから銅の産地として栄えてきました。奈良の大仏の銅をここから献上している事から奈良の大仏のふるさと」と称しています。「町の木:ヒノキ」「町の花:カキツバタ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により美祢郡大田村・綾木村・真長田村・赤郷村が発足。

1923年、大田村が町制を施行、美祢郡大田町となる。

1954年、大田町・綾木村・真長田村・赤郷村が合併、美祢郡美東町が発足。

2008年、美祢市・秋芳町と合併、美祢市美東町となりました。

マンホールにデザインタイプは無く、中央に「みとう」の文字がある規格蓋のみです。

昭和36年(1961)10月1日制定の町章は「ミトウ」を図案化したもの」

「奈良の大仏さまのふるさと 道の駅みとう」にある、大仏さまをイメージしたモニュメント。地域特有の自然や歴史、伝統、文化を活用した、魅力ある地域づくりの取り組みに対して付与される「手づくり郷土賞」のプレートが設置されています。

撮影日:2012年11月15日&2017年12月1日

 

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ご当地マンホール in 山口県美祢市&旧美祢市

2024年04月28日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

美祢市(みねし)は山口県のほぼ中心、四方を山で囲まれた山口県内で唯一海に面していない市です。2008年3月21日 、旧美祢市・秋芳町・美東町が合併し、改めて美祢市が発足しました。山口市、下関市、山陽小野田市、宇部市、中国山地を挟んで萩市、長門市に隣接。「市の木:カシ」「市の花:桜」を制定。

市域からはさまざまな化石が産出することで知られており、土地は石灰質である所が多く、国道435号が通過する大嶺地区や豊田前地区では道路沿いに石灰層や石炭層を見ることが出来ます。キャッチフレーズは「市民が夢・希望・誇りをもって暮らす交流拠点都市 美祢市」

マンホールには市域から出土する「アンモナイトの化石」がデザインされています。

2009年4月4日制定の市章は「美祢市の「M」をモチーフに、雄大なカルスト台地、緑あふれ稔りある大地、やすらぎと活力ある美祢市の姿をイメージ、白地は輝きと風(交流と調和)、グリーンは発展・調和・健康を表現しています。」公式HPより

美祢市観光マップに登場するアンモナイトの女の子。市の花:桜の髪飾りを付けていますが・・名前は不明(笑)

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旧美祢市(みねし)は山口県のほぼ中央に位置した町です。秋芳町、萩市、山口市、長門市、下関市に隣接。市名は「山(峰)に囲まれていることから、峰が美祢に転訛した」が由来とされています。日本海と瀬戸内海とのおおよそ中間、美祢市西部から下関市豊田町にかけて大嶺炭田を有しており、明治維新後に開発された大嶺炭田の無煙炭、石灰石の産出などで工業都市として発展してきました。特に大嶺炭鉱の無煙炭は、戦前の軍艦などの燃料に重宝され、また石灰石は全国有数の国内シェアを誇っていました。
説明に該当する画像が無いので、「道の駅:於福」のマスコット『福をむカエルケロくん』と早朝のツーショット(-_-;)

明治22年(1889)、町村制の施行により美祢郡大嶺村・伊佐村・於福村・東厚保村・西厚保村、豊浦郡豊田前村が発足。

1924年、伊佐村が町制を施行、美祢郡伊佐町となる。

1939年、大嶺村が町制を施行、美祢郡大嶺町となる。

1953年、豊田前村が町制を施行、豊浦郡豊田前町となる。

1954年、美祢郡大嶺町・伊佐町・於福村・東厚保村・西厚保村・豊田前町が合併、(旧)美祢市が発足。

農業集落排水のマンホールには「かせきとはなのまち」の文字と共に、中央にアンモナイトの化石。周囲に「市の花:桜」がデザインされています。

1954年9月29日制定の市章は「美祢市の「美」を図案化したもの」

撮影日:2012年11月14日&2017年12月1日

夕暮れ時のマンホール撮影は、後で絶対に「あ~あ😩」となるのです。それが分かっていても目にするとデジカメを向けてしまう。で、結局その時の画像だけが唯一のご当地マンホールになるという事もしばしば・・「あ~あ😩」

 

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ご当地マンホールと惣郷(そうごう)川橋梁 in 山口県阿武町

2024年04月27日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

阿武郡阿武町(あぶちょう)は山口県の北部、北長門海岸国定公園に面する町です。阿武郡須佐町・むつみ村・福栄村に隣接。海に面した奈古地区、宇田郷地区と山間にある福賀地区で形成。農業と漁業を基本とし、日本海側に面した奈古地区・宇田郷地区には漁港が整備され、山間部の福賀地区では農業と林業が行われています。海岸線に沿って山陰本線が通っており、特に白須川に架かる「惣郷川橋梁(そうごうがわきょうりょう)」は鉄道ファンに人気の撮影ポイントとして有名です。「町の木:くすのき」「町の花:シャクナゲ」を制定。

キャッチフレーズは「夢と笑顔あふれる「豊かで住みよい文化の町」」

明治22年(1889)、町村制の施行により阿武郡奈古村・福賀村・宇田郷村が発足。

1942年、奈古村が町制を施行、阿武郡奈古町となる。

1955年、奈古町・福賀村・宇田郷村が合併、阿武郡阿武町が発足。

マンホールには、町章を中心に「町の花:シャクナゲ」がデザインされています。

昭和41年(1966)11月1日制定の町章は「カタカナのアブを渦巻に図案化したもので、躍動と躍進を表しています。」公式HPより

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阿武町宇田惣郷にある、JR西日本山陰本線・須佐駅 - 宇田郷駅間の白須川に架かる全長189mの鉄道橋「惣郷川橋梁(そうごうがわきょうりょう)」

日本海に隣接し、橋脚の基礎も満潮時の海面から1.5mの高さまでの高い井筒基礎が据えられているのが特徴の「鉄筋コンクリートラーメン橋」。2001年には土木学会選奨土木遺産を受賞。

海からの景色も、また橋からの景色も美しいことから、撮影ポイントとして鉄道ファンの人気は高く、阿武町の観光名所にもなっています。

灰色の海から突き出す岩の上、小さく点のように見える黒いものは海鵜の群れ。

これで運よく電車が来たりなんかしたら、もうこの日の旅の運を使い果たしてしまうに違いない!・・と、私だけの奇妙なジンクスを持ち出し、「もう少しだけ」を繰り返すご亭主殿を急かし惣郷川橋梁を後にしました。

撮影日:2012年11月10日

🌸明日からは山口県美祢市の紹介です。

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明木(あきらぎ)神社 in 山口県萩市明木

2024年04月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

萩市明木に鎮座される「明木(あきらぎ)神社」。御祭神は『伊弉那岐大神・志那都比古命(しなつひこのみこと)・志那都比売命(しなつひめのみこと)・市杵島比売命・高龗神(たかおかみのかみ)・闇龗神(くらおかみのかみ)・菅原道真公』

由緒沿革「鎌倉時代公安二年(1279)に紀伊國の熊野神社より分霊を勧請。初め権現社と呼ばれ本村字原の地に鎮座。明治維新の際に現社名へ改め、貴布禰神社・雷神・厳島神社・天満宮を合祀。明治四十一年、現在地の旧菅山社に合祀遷宮。」

拝殿前には三対の狛犬さんが神域を守護されています。拝殿一番近くより神域を守護されるのは文久二年(1862)三月吉日建立の萩型狛犬さん一対。吽形さんは右足の下に小さな玉を踏み、阿形さんは流し目で後方を気にしている様子。

江戸時代建立の狛犬さんに挟まれて神域を守護されるのは明治六年(1873)十月吉日建立の萩型狛犬さん一対。牙を見せてニヒルに笑う吽形さん。口中に玉を噛み、目を細める阿形さん。

拝殿から一番遠く離れて神域を守護されるのは「文化五年(1808)十月吉祥日」建立の萩型狛犬さん一対。阿吽ともに情けなさそうな顔に見えてしまうのは何故?

 格天井の拝殿内部には、三十六歌仙の額がびっしりと飾られています。

何ともユニークな形の一枚岩を刳り貫いた手水鉢

それに負けない吐水・・・吐水・・・謎の物体(笑)

萩の神社に必須の盥型水盤。姫榊(ひさかき)の緑が瑞々しい。

思いがけなくも素敵な三対の萩狛犬さんに出会えた「明木神社」。年代ごとの相違はあるものの、基本的な萩型狛犬さんの素敵な姿が踏襲されている事にとても嬉しくなった明木神社参拝でした。

参拝日:2012年11月12日

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🌸明日は山口県阿武町の惣郷川橋梁 とご当地マンホールの紹介です。

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ご当地マンホール in 山口県旧旭村(萩市)

2024年04月25日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

旧阿武郡旭村(あさひそん)は山口県の北中部、萩市中心部と山口市のほぼ中間の山間部に位置した村です。萩市、山口市、阿東町、川上村、美東町に隣接。四方を山地に囲まれており、阿武川支流の佐々並川、明木川の流れに開けた平野に明木と佐々並の集落がありますが、それ以外はほとんど非可住地。また二つの地区の間には山地があり、両地区ともそれぞれの300~ 400m級の山に囲まれています。

江戸期に、萩藩主毛利氏が参勤交代で萩から三田尻(現・防府市)に移動するために建設された萩往還沿いに、明木・佐々並の各宿場町が発展してきました。「旭村史」に村名の由来として「古来から日本の国を表徴するに、最も由緒深い旭に因み、万象を照らし、旭日昇天の如き村の発展を祈念して、本村名を命名した」とあります。「町の木:ヒノキ」「町の花:ツツジ」を制定。

旧キャッチフレーズは「見て 触れて、溢れる自然に出会うむら」

明治22年(1889)、町村制の施行により阿武郡明木村・佐々並村が発足。

1955年、明木村、佐々並村が合併、阿武郡朝日村が発足。

2005年、萩市・須佐町・川上村・田万川町・むつみ村・福栄村と合併、萩市となりました。

明木市(あきらぎいち)地区・集落排水マンホール。萩市の案内に「明木農集の特徴は、太陽光パネルによる発電で施設の電力を賄っている点です。 旧旭村時代に遡れば、旭の語源が「朝日」だったため、太陽ではなく、朝日ともとれますが、 設置当時のパンフレットからも太陽光発電が根拠であるものと思われます。」と記載。 外周に村の花ツツジ。 「明木市」「集排」の文字。

昭和44年(1969)12月制定、翌、昭和45年4月1日に再制定された村章は「「ア」を円形に纏めたもの」

佐々並地区ゆるキャラ『ささみん』。1800年頃に萩往還の宿場町である佐々並の特産として作り始められた「ささなみ豆腐」から生まれました。

撮影日:2012年11月12日

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萩市と合併した「旧川上村」「旧福栄村」は未訪問の為、マンホール画像はありません。

「旧田万川町」「道の駅ゆとりパークたまがわ」に立ち寄りましたが、付近にマンホールは発見できず。

また「旧むつみ村」は、「道の駅むつみ うり坊の郷 katamata」に立ち寄りましたが、付近にマンホール類は発見できませんでした。

訪問日:2012年11月10日

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🍀明日は明木に鎮座される「明木(あきらぎ)神社」の紹介です。

 

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ご当地マンホール in 山口県旧須佐町(萩市)

2024年04月24日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・山口県

旧阿武郡須佐町(すさちょう)は山口県の北東端に位置した、日本海沿岸の町です。阿武町、むつみ村、阿東町、田万川町、県を跨いで島根県益田市、津和野町に隣接。町名となった「須佐」は「須佐之男命」が出雲の国から朝鮮半島に渡る際、神山(高山)の峰に立って航路を定めた」という神話に因んで名づけられたと云われています。町域は日本海から東側に長く、海に面した須佐地区、山間部の弥富地区と鈴野川地区からなり、主な産業は漁業。剣先イカの一本釣りを生業とする漁師が多く、活イカブランド「須佐男命(すさ みこと)いか」は同地区名のPRに大きく貢献しました。須佐港は、九州・四国・中国・近畿地方から水揚げされる「須佐男命いか」を求めるイカ業者が集まり、日本海屈指の活イカ漁港として知られています。

旧キャッチフレーズは「神話を紡ぐ町--自然にふれる町」

明治22年(1889)、町村制の施行により阿武郡須佐村、弥富村が発足。

1924年、須佐村が町制を施行、阿武郡須佐町となる。

1955年、阿武郡弥富村と合併、改めて須佐町が発足。

2005年、萩市・川上村・田万川町・むつみ村・旭村・福栄村と合併、萩市須佐となりました。

マンホールには「日本海の波が打ち寄せる須佐ホルンフェルス」がデザインされています。

ホルンフェルスは、萩市の須佐高山にある変成岩地形で、2007年、日本地質学会などが選定する「日本の地質百選」に選ばれています。「須佐地域PRキャラクター『みことくん』と須佐ホルンフェルスのポスター」

昭和30年(1955)1月1日制定の町章は「三つの「ス」を囲んだもの」

「時刻表の父:手塚猛昌 顕彰之碑。須佐町の出身で、日本最初の月刊時刻表とされる「汽車汽船旅行案内」を発行した人物。

おや、ホームに電車が入ってきましたね。こんな光景に出会うと、何故か無性に電車に乗りたくなります。

須佐駅にいる須佐観光PRキャラクター『海野みことちゃん』の等身大パネル。右手に抱え持っているのは、お友達の「須佐男命いか」・・らしい😅

撮影日:2012年11月10日

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🌸明日は旧旭村ご当地マンホールの紹介です。

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萩市内重伝地区の街歩き~其の二 in 山口県萩市

2024年04月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

白壁の一画に設けられた簀戸の向こうに広がる錦秋の鮮やかさ。思わず足を止めてまじまじと目を凝らしてみても、見えるのはただ錦秋の赤や黄。

萩市呉服町の一画に門を構える「旧佐伯丹下家屋敷」。萩藩大組に属し、幕末期に、「直目付」「撫育方仕組掛」「奥番頭役」など藩の要職を歴任しました。

佐伯家に隣接して門を構える「木戸孝允旧宅」。桂小五郎の名で知られ「維新の三傑」と詠われた木戸孝允が、生まれてから江戸に出るまでの約20年間を過ごした家です。

江戸屋横丁を抜けて菊屋横丁へ。通り全部を埋め尽くすような豪壮な屋敷は「菊屋家住宅」。菊屋家は、室町期の守護大名大内氏の山口統治時代には武士でしたが、大内氏滅亡後、慶長9年(1604年)、初代となる菊屋友味が毛利輝元に 従って萩に入り、萩城築城の際には有力町人として支えました。

国指定重要文化財となっている主屋・金蔵・米蔵で構成される白壁・なまこ壁は、まさに圧巻の一言。この路地は「菊屋横町」と呼ばれ、その美しい景観から「日本の道100選」にも選ばれています。

萩市南古萩町、菊屋横丁の一画に門を構える「高杉晋作誕生地」

高杉晋作誕生地近くにある「晋作広場」に、2011年10月に建立された「高杉晋作立志像」。腰に両刀をたばさみ、羽織、袴で彼方を見つめる若き日の晋作。目線の先にあるものは何だったのでしょう。

身分制度にとらわれないという初めての軍隊奇兵隊を組織し、類い希な統率力でそれを率いるとともに、英米仏蘭の四カ国連合による一斉砲撃で壊滅的な打撃を受けた長州藩の講話使節となり、毅然とした態度で対応にあたった晋作。まことに良い男です!

「中の総門跡」

萩市南古萩町・菊屋横町にある、第26代内閣総理大臣「田中義一生誕地」。萩博物館そばの「素水園」に建立された『田中義一像』

毛利家の奇数代藩主が祀られている「東光寺」。総門、三門、鐘楼、大雄宝殿はいずれも国の重要文化財に指定された名刹ですが・・流石に時間切れ😅

訪問日:2012年11月13日

🌸明日は、合併して萩市となった旧須佐町のご当地マンホール紹介です。

 

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住吉神社 in 山口県萩市浜崎町

2024年04月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

萩市浜崎町、萩重要伝統的建造物保存地区に選定されている浜崎地区に鎮座される「住吉神社」。御祭神は『表筒男命・中筒男命・底筒男命・神功皇后』。

由緒「明暦元年(1655)に摂津国堺の住吉大社から勧請したと伝えられる。承応元年(1652)に浜崎の船持が商売のため大坂へ上がった節、難風に遭い、住吉宮を勧進すると祈ったところ助かったので、帰国後藩に申し出て、勧進が許されたという。はじめ鶴江の恵比須の森に鎮座したのち、現在地に社殿を建立した。萩藩の御船倉・御客屋両役所のお抱えで、防長両国の諸祈祷を命じられた。」

拝殿内の神額は黒漆と金の円額・・最初見た時は大判の皿に書かれているのかと思いましたが、違ったようで。このタイプの社号額にはあまりお目にかかった事がありません。何かの謂れがあるのか・・解らないと気になるんですよね。

拝殿前より神域を守護されるのは、文化七年(1810)六月吉祥日建立の、萩狛犬さん一対。阿形さんは玉を歯で噛み締め、吽形さんはいつものように右足の下に玉を踏みしめています。

耳の付け根に穿たれた穴、左右対称に流れる尾の毛並みの美しさ。顎の下に流れてカールするたてがみの優雅さ・・吽形さん、間違いなくイケメン男子です😆

二段重ねの台座四面(16面)にはすべて異なった浮き彫りが施されており、それだけでも奉納者の心意気が伝わってきます。

拝殿向拝彫刻は龍

貫彫刻は獅子と象。「金谷神社」の社殿彫刻と非常によく似ており、もしかしたら同じ方の作品かもしれません。

鳥居近くに建立されていた亀趺、萩の神社で亀趺を見たのは金谷神社に次いで二例目です。

ツンと上げた鼻が「こんなもの何でもないわい」と言ってるようで・・亀趺の顔にも色々と表情があって結構嵌ります(^-^)

街歩きの途次で偶然お見掛けした神社参拝、予想外の素晴らしい萩狛犬に出会えて、ご亭主殿大喜び。時間に急かされて素通りしなくて良かった!!

参拝日:2012年11月13日

🌸明日は、あれこれ詰め込んだ萩市町歩きのラストです。

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萩市内重伝地区の街歩き~其の一 in 山口県萩市

2024年04月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

山口県南部に源を発する「阿武川」は、途中から「松本川」と「橋下川」に分かれ、日本海に注ぎ込んでいます。江戸時代、この2本の支流が運ぶ土砂によってつくられた三角州の上に、毛利氏が治める長州藩の本拠地となった城下町:萩が形成されました。

萩市今古萩(いまふるはぎ)の一画にある「市指定史跡:野山獄跡」。「野山獄は」藩政時代の獄屋敷で士分(武士階級)の者を収容する上牢です。正面には「野山獄十有弌烈士之碑」。毛利元昭の篆額で大正13年(1924)に建立されました。🙏

また向かって右手奥には「十一烈士絶命之處」の碑。左手奥には野山獄ゆかりの人々の慰霊のため、吉田松陰筆蹟の文字を組み合わせて作った「合霊碑」の石碑が昭和49年(1974)11月に、今古萩町町内会によって建立。🙏

道路を挟んで「市指定史跡:岩倉獄跡」。「岩倉獄」は藩政時代の獄屋敷で、下牢として庶民を収容した所です。吉田松陰の従者で、松陰ともに海外密航を企て失敗した金子重輔は岩倉獄に投じられ、入牢から70日余り後の安政2年正月11日、25歳を一期として不帰の人となりました。🙏

正面向かって右手に、萩出身の首相「田中義一」の書になる「金子重輔君絶命之處」。正面左手には、吉田松陰の詠んだ「獄中聞渋木生赴」が建立されています。

萩市東浜崎町、浜崎重要伝統的建造物群保存地区に残る「旧萩藩御船倉」。 藩主の御座船や軍船を格納した船倉で、慶長13年(1608)、萩城築城後まもなく建てられたといわれます。両側と奥に玄武岩で壁を築き、上部に瓦屋根を葺き、前面には木製扉。

説明を見るまで萩城の門の一つかと勘違いしていましたが・・こんな入口の城門なんて有り得ませんよね😅

萩市浜崎町の一画に建つ「旧山村家住宅」。江戸時代後期に町年寄りを務めた大型の町家で、明治に入って山村家が購入。山村家をはじめ、浜崎の旧家に伝わる品々や浜崎に関する資料等が展示されており、浜崎地区まち歩きの拠点となっています。

2棟の主屋、2棟の土蔵、離屋からなる、江戸時代後期に建てられた大型の町家で、この地方には珍しい「表屋造り」という建築方法が用いられています。

屋敷内には多種多様の縁起物、飾り物、港町らしい大漁旗などが飾られており、まるで取って置きのおもちゃ箱をひっくり返したような楽しさ。

確かな歴史に裏打ちされた品々は、どれ一つとっても見飽きる事がありません。

まるでどこかの住宅メーカーに登場する、マスコットキャラクターを彷彿させる内倉😊

このあと偶然お見掛けした「住吉神社」は、明日のブログで紹介。

浜崎新町上ノ丁筋にある「梅屋七兵衛旧宅」。代々浜崎町で北国問屋を営む家に生まれ、七兵衛の代には藩の武具方の用達も行っていました。旧宅は、七兵衛が晩年を過ごした隠居屋で本町筋から一筋奥まった場所に敷地を構え、門から長いアプローチを経て、庭園を抜け、主屋に至る造りとなっています。

堀内地区と共に萩観光の中心地でもある呉服町。一直線に続く長い塀に沿って、街歩きはもう少し続きます。

訪問日:2012年11月13日

🍀明日は萩市浜崎帳に鎮座される「住吉神社」の紹介です。

 

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