




ネレトヴァ渓谷に架かる古い石橋が良く知られています。この古橋を含む旧市街は、2005年にユネスコの世界遺産に認定されています



「スタリ・モスト(スラブ語で「古い橋」)と呼ばれます。この橋の両岸にモスタルの街が発展し、人は宗教を超えて深く付き合い、結婚し、子供を育て、つまり共存共栄に重要な役割を果たした「平和の架け橋」の様な存在でした。この平和をうち砕いたのが、ボスニアの内戦で、ムスリム人とクロアチア人がこの橋を挟んでにらみ合い、対峙しなければなりませんでした




現在の橋の袂には、「93年を忘れるな」という文字盤の石碑が立っています。


石橋から、旧市街のメインストリートを歩いてみると、今でもムスリムの雰囲気です。
新市街地も、整然たる街並みで見事です。


今度は、サラエヴォへとびます。サラエヴォは、旧ユーゴを象徴したような都市で、カトリック、セルビア正教、イスラム教と3つの宗教、それ以上の複雑な異なった民族構成で、内戦の傷跡が最も生々しく残る都市です



1914年6月28日、いわゆるサラエヴォ事件が起こります。この地を訪れたオーストリア・ハンガリー帝国の王位継承者、フェルディナンド大公と妻ソフィア夫妻が、ラティンスキー橋の袂で、テロリストに狙われ、狙撃され、命を落としたのです。やったのはセルビア人の青年ということで、オーストリアはセルビアに宣戦布告して、これが第一次世界大戦になっていくわけです。現地ガイドの説明を聞いていると、テロリストの放った一発目の銃弾は皇太子の頭部を直撃し、2発目は妻ソフィアの腹部を貫通し、妊娠中だったソフィアは胎児とともに命を落とした、などといういたたまれない話が出てきますが、英語ガイドの話を通訳するのも仕事である以上、「やめて下さい」とも言えないし、「血なまぐさい話は聞きたくない」と言っても、話の核心部分がボケてしまうため、そうも言えません。自分で発言を選べませんから、通訳も辛い仕事です


内線の傷跡も癒えず、街中、銃弾後や破壊の後がまだまだ消えませんが、「バルカンの火薬庫」の代名詞のようなこの町にあって、ラティンスキ-橋は、自ら今後「平和の架け橋」になろうという決意を固めたかのように、静寂と沈黙を守りながら、サラエヴォの行く末を見据えています。
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