tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

新鮮、大ネタ! 平群町の喜八寿司/昭和レトロ食堂(34)

2021年12月08日 | グルメガイド
竜田川(平群町)にお住まいのYさんから、「平群町吉新(よししん)の喜八寿司は、とても美味しいですよ」と教えていただいた。喜八寿司(生駒郡平群町吉新1-3-25)を地図で見ると、近鉄生駒線の平群駅から徒歩5分くらいだった。



駅からまっすぐ西へ歩き、「豆腐工房 我流」の手前の角を南(左)に折れる。昨日はあいにく1日中雨の日だったが(2021.12.7)、ふらりと訪ねてみた。


瀟洒な店構え。植え込みも、きれいに手入れされていた



お午(ひる)少し過ぎに訪ねると、お客は私1人だった。ご主人のまん前のカウンター席に陣取った。「竜田川のYさんに教えていただきました」「そうでしたか、ありがとうございます。店は建て直していますが、ウチは創業から53年になります」。ということは1968年(昭和43年)の創業、立派な昭和レトロ食堂だ。席は1階のカウンターと2階の座敷。お店の向かいには駐車場もある。


ネタはこんなに大きい。ネギが載っているのはフグ、コリコリとした食感がいい

メニューは置いてなかったので、あらかじめネットで調べておいた「上にぎり 1人前半」税別3,000円と「赤だし」税別250円を注文。出てきたのが写真の料理である。驚いたことに、ネタが新鮮な上に大きく、シャリもたっぷりだった。赤だしは厨房で奥さんが作って、席まで持ってきてくださった。白身魚のアラが入っていて、これも美味しい。


にぎりの「1人前」にヒラメ、フグ、穴子が入り「1人前半」になる(日によって変更あり)

コロナ禍で、やはり来店客は減っているそうだ。「周囲は住宅地ですから、出前がよく出るのではないですか」「昔は、特に今日のような雨の日はよく出ましたが、今はほとんどご注文をいただかないですね」。ウチのところでもそうだが、高齢の住民は配食サービス(宅配)を利用するのだろう。


大きな白身魚(ヒラメか)のアラが入り、とても美味しい

寿司ネタケースには、たくさんの新鮮魚介が並んでいるし、ご主人は立派なタコを捌(さば)いていた。「大きなタコですね、(筒井の)中央市場で仕入れたのですか?」「そうです。タコは半分だけ仕入れるという訳にはいきませんからね」と笑う。



やさしいご主人と、息の合った奥さんが営む平群の昭和レトロ寿司店、皆さんもぜひお訪ねください!
※食べログは、こちら

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サンマのなれずし/奈良新聞「雑記帳」

2021年12月07日 | 奈良にこだわる
熊野地方特産の「サンマのなれずし」について、十津川村ご出身の中村城之助さん(奈良市在住 76歳)が、奈良新聞「雑記帳」欄(2021.12.4付)に投稿されていた。このような貴重な情報が得られるので、「雑記帳」欄は見落とせない。
トップ写真は、和歌山県田辺市「道の駅奥熊野古道ほんぐう」で販売されていたもの

全文は記事画像を見ていただくとしてポイントは、サンマは熊野灘を南下して身が引き締まり、脂が適度に落ちているものを使う。毎年正月のごちそうのため、12月中旬頃に作る。サンマは50~100尾も用意する。中村家では今は作らなくなったので、ご親戚が作られたものを約35年間いただいてきた…。ぜひ、記事全文をお読みください!

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若宮おん祭(まつり)生きた日本の芸能史/毎日新聞「かるたで知るなら」第32回

2021年12月03日 | かるたで知るなら(毎日新聞)
いよいよ師走に突入!奈良で師走といえば「おん祭(まつり)」、つまり「ザ・祭り」である。それほど重みのある祭りが、「春日若宮おん祭」なのである。「祭り始めはちゃんちゃん祭り、祭り納めはおん祭り」という俚謡もある(ちゃんちゃん祭りは、天理市・大和神社の祭礼)。

しかしコロナ禍で、昨年(2021年)に引き続き、今年も非公開(関係者のみ)で行われることになった。この伝統ある祭りについて、奈良市出身・在住の松森重博さん(NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」理事)が、コンパクトにまとめて紹介してくださったので、以下に全文を紹介する。

〈若宮おん祭 生きた日本の芸能史〉 
奈良の人々にとって、春日若宮おん祭は年末の大きな楽しみです。春日大社若宮神社のこの祭礼は、平安時代の保延2(1136)年に関白、藤原忠通(ただみち)が五穀豊穣と国民安寧を祈願して始めたとされます。連綿として続いており、国の重要無形民俗文化財に指定されています。

若宮神社の祭神、若宮様は正式には天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)で、春日大社本殿の第三殿の天児屋根命(あめのこやねのみこと)と第四殿の比売神(ひめがみ)の間に生まれたとされます。本殿の南に若宮神社本殿があります。大和士(やまとざむらい)がこもって精進潔斎をしたという大宿所(おおしゅくしょ)が餅飯殿(もちいどの)センター街の中にあり、毎年12月15日には御湯立(みゆたて)の儀など神事が行われます。

続いて17日未明に、若宮様が多数の神職に守られ、若宮神社から御旅所に移られ、遷幸の儀と暁祭(あかつきさい)が行われます。正午ごろから呼び物のお渡り式。最後の大名行列は大変な人気です。 
   
一の鳥居を東に入って、すぐの所で「松の下式(したしき)」があり、その後、御旅所で神楽、東遊(あずまあそび)、田楽、細男(せいのお)、猿楽、和舞(やまとまい)、舞楽などの神事芸能が奉納されます。大陸から伝えられたという舞楽、古くから日本に伝えられた細男など、おん祭でのみ演じられる芸能もあり、まさに生きた芸能史です。

若宮様はその日のうちに、再び若宮神社に帰られる還幸の儀が行われます。翌18日には後宴能が行われ、おん祭はフィナーレとなります。

2021年はコロナ禍のため、おん祭は神事を中心に関係者のみで行われます。若宮神社本殿は現在ご造替(ぞうたい)中で、22年秋に完成します。(奈良まほろばソムリエの会理事 松森重博)

【若宮神社】
(住 所)奈良市春日野町160
(交 通)JR・近鉄奈良駅から春日大社本殿行きバスで「春日大社本殿」下車すぐ。または、市内循環外回りバスで「春日大社表参道」下車、徒歩約10分
(駐車場)有(有料)


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古都華 vs 白いイチゴ、「イチゴ王国」奈良県で、しのぎ削り高品質イチゴを栽培!(毎日新聞奈良版)

2021年12月02日 | 奈良にこだわる
昨日(2021.12.1付)の毎日新聞奈良版に〈県産イチゴ、甘くて厳しい戦い 栽培や販売法で工夫 古都華VS淡雪など〉という記事が出ていた。「厳しい戦い」というより、古都華を栽培する「大和奈良いちご倶楽部」と、白いイチゴなど新品種を栽培する「奈良いちごラボ」が、切磋琢磨しながら高品質のイチゴを出荷しているという話だ。
※トップ写真は、巨大なハウスでイチゴを栽培する前田光樹さん。毎日新聞のサイトから拝借

私が子どもの頃、イチゴは5月の果物だった。それが今やクリスマス前に出荷され、たくさんのイチゴが載ったデコレーションケーキが出回るようになった。これは奈良県でイチゴの栽培史上、画期的な技術開発があったからだ。1972年、当時の奈良県農業試験場が、画期的な「電照保温」の技術を開発したのである(当ブログ記事は、こちら)。

通常、9月頃に植えた苗は冬季に休眠し、4月に開花・結実し、収穫できるのは5~6月頃だったが、電照保温により苗は休眠せず連続開花するので12~5月まで収穫が可能になった。そんな「イチゴ王国」奈良県では、今も美味しいイチゴを育てるべく、しのぎを削っている、というのが今回の記事である。最後に全文を引用しておく。ガンバレ、奈良県産イチゴ!

近畿最多の出荷量を誇るイチゴ産地として存在感を増す県内で、「イチゴ戦争」が勃発しつつある。県内限定で栽培される「古都華」が大阪など都市部の青果市場で知名度を拡大していることに加え、若手農業者グループが開発した「パールホワイト」や「淡雪」が高級フルーツとして海外市場に進出。若手グループと古都華グループとが栽培や販売手法を巡ってしのぎを削っている。甘くて厳しい戦いの行方は果たして――。【稲生陽】

2011年に県が開発した古都華はツヤのある赤さと糖度13~15度(一般的なイチゴは8~9度)の甘さが特徴。この数年で栽培面積が急拡大し、現在では計約10ヘクタールで栽培されている。病気に弱く、面積当たりの収穫量も少ないが、市場での平均単価は県内で一般的な「あすかルビー」の2倍に達する高級品種だ。大阪が本拠の大手百貨店のあるバイヤーは「関西の市場では古都華は最高ランクだが、いつかは需要が飽和する。競争相手の多い関東や高級路線が一般的でない地方にどこまで広げられるかは未知数」という。

県内最大の古都華産地・平群町。県内のイチゴ農家のリーダー的存在で、品種登録される前から古都華を栽培する「辻本農園」(同町)の前社長、辻本忠雄さん(66)が指導した農家約10軒が「大和奈良いちご倶楽部」として栽培している。広い栽培面積に加え、運搬用パックを二重構造に変更するなどイチゴが傷まない工夫を施し、単価の上昇も狙う。「自分たちの武器はグループ全体の出荷量。大きな市場での単価は継続的に量を出せる信用がないと上がらない。年明けには東京の市場にも進出してみせる」と鼻息を荒くする。

これに対し、15年に県内各地の若手農業者ら5軒で結成した「奈良いちごラボ」の前田光樹さん(50)=桜井市=は「我々の戦略は量より質。一粒ずつの規格を徹底的にそろえ、市場を訪れるバイヤーの目に留まるイチゴに仕上げることで成功している」と火花を散らす。農業技術者として海外で活躍後に就農した前田さんが中心となり、白くて甘い「パールホワイト」やピンクで大粒の「淡雪」など、新品種を次々開発して急激に勢力を拡大してきた。

「戦略に合わせて品種を作り、5軒が粒の大きさや(イチゴを保護する)セロハンの付け方まで細部の規格をそろえて出荷している」と前田さん。一粒ずつ重さを量って宝石のように高級感のある箱で包装する独特の売り方で、東京や大阪の市場に進出、出荷分の7~8割が海外で売られているという。売り上げは結成後6年で3倍近くに達し、今季からは広島や福岡など地方の青果市場にも出荷先を拡大する計画だ。

互いに「売り方は競合しない」と言いながら、栽培や販売に工夫を凝らす両グループ。栃木県や福岡県といった特産地に追い付け、追い越せと県内のイチゴ生産の大きなうねりとなりつつある。


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東大寺の鐘をつく大鐘家(おおがねや)6代目・川辺嘉一さん/by 日本経済新聞夕刊「関西タイムライン」

2021年12月01日 | 奈良にこだわる
昨日(2021.11.30)の日本経済新聞夕刊「関西タイムライン とことん調査隊」に、〈「柿くへば」子規の聞いた奈良の鐘音、ついたのは誰?〉という記事が出ていた。執筆されたのは奈良支局の岡本憲明さんで、NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」ガイドグループの石田一雄さんが取材に協力された。記事全文を紹介すると、

修学旅行生たちが戻ってきた世界遺産の法隆寺(奈良県斑鳩町)。五重塔や金堂を巡った後、バスガイドが必ず案内するのが、境内の鏡池の傍らに立つ正岡子規の句碑だ。「法隆寺の茶店に憩いて」の前詞とともに、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」という有名な句が刻まれている。

句碑は1916年(大正5年)、かつて茶屋のあった跡地に子規門下の俳人、松瀬青々らが建立した。刻まれた文字は子規自筆の短冊を拡大したものという。子規は1895年(明治28年)10月下旬、法隆寺を訪れ、この句を詠んだということになっている。

法隆寺で「時の鐘」を打つのは、境内の西北にある西円堂の鐘楼だ。午前8時から午後4時まで2時間おきに1日5回、時刻の数だけ寺の職員が交代で鐘をつく。現在の鐘は1993年に新しくしたものだが、子規が聞いたのは西円堂の鐘だったのか。

ところが専門家の間では、この句はフィクションという説がある。子規が法隆寺を参拝した当日は午後から時雨が降ったと記録に残る。長年、法隆寺のガイドを務める「門前宿和空法隆寺」企画部長の中江太志さんは「子規が法隆寺を訪れたことすら虚構という説もあります」。

子規は1895年4月、日清戦争の従軍記者として中国大陸に渡ったが、無理がたたり5月に帰国の船中で喀血(かっけつ)。神戸や須磨で療養した後、松山に帰郷し、友人の夏目漱石の下宿先に2カ月近く居候する。柴田宵曲著「評伝正岡子規」によると、10月19日に帰京すべく松山をたったが、その途上、腰骨が痛み出して歩行が困難となり、癒えるのを待って大阪、奈良に遊んだ。

子規が奈良で3日ほど滞在したのは東大寺近くの老舗旅館「對山楼角定」(現在は天平倶楽部)。そこから法隆寺まで約15㌔の距離があり、今なら車で30分ほどだが、当時は汽車なら1時間超はかかっただろう。奈良女子大学名誉教授で俳人の故和田悟朗氏は、法隆寺を詠んだ子規の句は嘱目吟(目に触れたものを即興的に詠むこと)の実感が希薄と指摘し、「腰を痛めていた子規が本当に法隆寺まで行ったかどうか、疑問だ」(「子規と法隆寺」)と提起した。

では、子規はどこで鐘音を聞いたのか。子規は随筆に奈良の宿で御所柿を食べながら東大寺の鐘を聞いたと書き残している。夕食後、宿の下働きの少女が大きなどんぶりに山のように柿を持ってきた。「柿も旨(うま)い。場所もいい。余はうっとりとしているとボーンという釣鐘の音が一つ聞こえた」(「くだもの―御所柿を食ひし事」)。この時、「柿くへば鐘が鳴るなり」という着想を得て、その体験を「法隆寺」に置き換えたのか。

奈良の歴史に詳しいNPO法人奈良まほろばソムリエの会の石田一雄さんが「子規が聞いたのは午後8時の初夜の鐘で、今も毎日1回、同時刻に鳴らされる。鐘をつくのは明治から代々、大鐘家の屋号を持つ川辺家の人々です」と教えてくれた。大鐘は通称「奈良太郎」。重さ26.3トンの国宝だ。鐘楼の近くに住む川辺家では毎日、鐘をつく奉仕の代わりに、鐘楼の中で土産物商売を許されてきた。

午後8時前、鐘楼の前で待っていると大鐘家6代目、川辺嘉一さん(68)がやってきた。鐘をつくのは3分間に計18回。「この鐘は奈良時代の寺創建当時から今も現役。東大寺をつくった聖武天皇が聞いていた同じ鐘音が今も聞けるんです」。子規が聞いたのは川辺さんの曽祖父の祖父にあたる初代のついた鐘音だ。

法隆寺に古くから残る「法隆寺日記」には子規来訪の記録はないが、そうかといって子規が法隆寺を参拝しなかったと判断はできない。法隆寺か東大寺か。川辺さんは「そこら辺はアバウトにしておくのがロマンではないですか」と話している。(岡本憲明)


正岡子規が聞いたのは東大寺の鐘の音だった、という話は私も当ブログで「鐘が鳴るなり東大寺」として紹介したことがある。また子規の俳句は、夏目漱石の句「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」にヒントを得て作られたという説も紹介した。

いずれにしても、私は今でも柿を食べるたびに「鐘が鳴るなり」の句が頭に浮かぶ。やはりのこの俳句は、名句ということなのだろう。
コメント (1)
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