tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

賀名生梅林も広橋梅林も、見ごろです!(Topic)

2011年03月18日 | お知らせ
先日、拙ブログで、月ヶ瀬梅林が見ごろを迎えたとお伝えしたが、いよいよ賀名生梅林広橋梅林も見ごろを迎えた。これで奈良県の三大梅林の全てが見ごろを迎えたことになる(情報元はええ古都なら)。

賀名生梅林とは、五條市のHPによると《700年前の南北朝時代に都を追われた公家たちによって賀名生の梅の花が歌に詠まれているところからも、既にこの地の梅が香り高く咲き誇っていたことが分かります。さらに明治10年頃から果実の収穫を目的として栽培され始め、大正12年東宮殿下の御成婚を記念して5千本の苗が植えられ、その後大きく増殖されて、賀名生の梅林として知られるようになりました》。



《北曽木の丘陵を麓から中腹までおおいつくすように2万本の梅が続きます。2月下旬から3月中旬、さながら雲海のように梅の花がほころび、ほのかな香りが、山々を伝うように漂ってきます。純白や淡い紅色の梅の花は早春の陽光を浴びて、爽やかで壮観な風景を展開させます。南朝の悲しい史話を帯びて、雅やかな梅の花の色合いは、丹生川の支流に南朝のロマンを映しているようです》。

この「賀名生」という古地名は、現在は使われなくなっているが、それが復活するというニュースが出ていた。朝日新聞奈良版(3/17付)《由緒ある地名、半世紀ぶり復活》によると《南北朝時代に南朝方の「皇居」があった「賀名生(あのう)」の地名が、およそ半世紀ぶりに復活することになった。地元住民らが2月、「歴史文化の継承のため、由緒ある地名の復活を」と五條市に要望。市議会が16日、市長の地名変更の提案を議決した》。



《賀名生の地名は、1959年4月に賀名生村など3村が合併し西吉野村(2005年9月に五條市に編入)になったのを機に消滅した。今後、地方自治法に基づき県知事が告示すれば、正式に認められる。賀名生は1336年、足利尊氏に追われた後醍醐天皇が京都から吉野に移る際に立ち寄ったとされ、吉野が1348年に北朝方に攻め落とされると、後村上天皇が「皇居」を置き、南朝の拠点になった。もとの地名は「穴生」だが、尊氏が1351年に南朝に一時帰順し、京都に帰る同天皇が「願いがかなう」という意味から「加名生」としたのが由来とされている》。



一方の広橋梅林は、下市町のHPによると、《広橋峠の北側斜面、約25ヘクタールにわたって約5,000本の梅が植栽されており、2月末から3月中旬が見頃です。白梅、紅梅、そして淡桃色、一重咲き、八重咲きなど色とりどりに咲匂う梅と景色をお楽しみ下さい。また、金剛葛城両山や大和平野を見渡せる眺望も素晴らしく、青梅が実る初夏もお勧めです。散策道が整備されており、気軽にハイキングを楽しめます。梅以外にもさまざまな草花や人と触れ合えるのは広橋梅林ならではです》。

いずれの梅林も、この週末は混雑が予想される。訪問される方は、混雑する午後を避け、朝の早い時間帯に着かれることをお奨めしたい。
※写真はいずれも賀名生梅林。06.3.27に撮影
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