藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

深山 霞の「霞的心」 緊急追加

2013-01-09 20:28:14 | 社会・経済

「憂う」について考える。(6-2)

大阪市立高校バスケット部の事件で、クラブ顧問を擁護する意見が出始めた。

これに私は「憂い」を禁じえない。擁護する意見の大半が、嘗てこの顧問教師が数々の実績を上げてきたことをあげている。事実そうであろう。だがここで、冷静に過去の栄光がどのような形で成し遂げられたのか、考えてみる必要がある。

正々堂々の勝負をして勝ち得たものなのか、はたまた相手のシュートに対しファールをしてまで阻止し、俗にいう勝つだけのバスケットを行ってきたのではないか、と危惧するのである。おそらく後者であろう。指導者が自らの名誉や、地位のための指導を行うと必ずやこうした事犯を引き起こすのである。

前回の記事でこうした指導者の元で育った人間は、建設現場などで働くとその行動が手に取るように解ってくると書いた。おそらく他の産業で働いても同じ結果が出るように思う。良い例が、三菱自動車のリコール隠しである。「ばれなければいいじゃないか」という精神行動がそこに発生している。三菱自動車は多くの、社会人チームを要している。何の為かと言えば、企業イメージのアップのために存在する。イメージアップするには勝たねばならない。そこに落とし穴が待っている。

そのチームが勝つために、手段を選ばない指導者を迎えたら、必ずや企業まで手段を選ばない企業になっていく。当然の結果である。

高校学校生のスポーツは、教育基本法を中心に運営されるべく位置づけられているのである。だから、大会出場時は、出席扱いであり、いろいろな配慮がなされている。

一方指導者は社会人として、六法と呼ばれる法律に従い生活し、社会活動するように義務づけられている。たとえ特別な能力があってもそのことによって、刑法や、民事訴訟法などから特別な扱いを受けるものではない。ただしひとつだけ例外が存在する。それは、「人命救助」の表彰をうっけた者は刑事訴追されることは無い。ただし、逸れは一度だけである。

生徒に暴力を振るうという、社会人として最低限の法律を守れない人間が、教育現場に存在したこと自体が、大阪市の教育現場の汚点なのである。おそらく推測するに、大阪市教育委員会は、この教師の過去のじっせきから、自供以外の調査をしなかったのであろう。

今日のスポーツの中で、サッカーが是ほど隆盛を極めると誰が予想したであろうか。Jリーグをはじめ、なでしこジャパンの国際舞台での活躍。誰も今日の姿を予想した人間は少ないと思う。

私は、メキシコオリンピックの時、サッカーが銅メダルに輝いたときはサッカーの隆盛を予測し得なかった。しかし閉会式のとき、日本サッカーチームに、「フェアープレイ賞」が送られたとき、日本のサッカー界の夜明けが来たと叫んだ。メキシコオリンピックに参加した全ての人間、チームのなかで最高の評価を受けたのである。

その時、大きな転機が訪れたと感じた。その後の日本サッカー界の活躍は、皆さんよくご存知であろう。「フェアープレイ賞」を受けたことにより、日本国中のサッカー指導者が、正々堂々のサッカーに向けて、一斉に動き始めたのである。その結果が今日のサッカー隆盛、国際社会における評価になったことを、よくよくかみ締めていただきたい。

特に、大阪市と、日本バスケット協会には根本的組織改革を行い、理想とするバスケットボールの有り方から検討しなおし、特に高等学校における外国人留学生に対する対応を早急に行っていただきたい。其れを行わない限り、バスケットボウルは、三流の球技としての位置づけしか与えられることは無いであろう。野球、サッカー、バーレーボウル、ホッケーに伍してその地位を得てほしい。

ここで私の「憂い」から発想した提案をしたい。中学校、高等学校のクラブ活動指導を、複数にし日々の活動内容報告を義務付けることである。また、全ての学校行事での責任を、校長が取るという制約書を提出しない限り、校長の席に着かせないように、学校教育法を改正すべきである。組織の長たるもののあり方である。


深山 霞の「霞的心」

2013-01-09 08:50:41 | 社会・経済

「憂う」について考える(6)

去る1月7日、私は桐光学園のサッカー部優勝について論じた後、学校教育現場での「隙」について危惧した。やはり昨年暮れに大阪で事件が起こっていた。学校の売名のための、クラブ活動を行うと、この様な結果が必ずどこかで起きてくる。

桐光学園の試合を応援し、なぜに感動したかは試合を観戦された人以外には感じられないであろうが、監督、学校役員の笑顔の中で溌剌と躍動する生徒たちは、実に清清しいものであった。

これこそ高校生のクラブ活動だと、感銘したからこそ準々決勝の試合まで、敗戦するまで応援に出かけたのだ。敗戦時の生徒たちの涙の中には、胸を張って敗戦を受け入れる姿勢があった。それは全力で戦ったことのある人間にしか感じることが出来ないもので、実に充実した立ち姿であった。

今回事件を起こした大阪の学校は、何時の時か強く生徒を指導したとき、たまたま良い成績を上げたのであろうと思われる。そうしたとき人間は錯覚を起こす。

より強く指導すれば、より強くなると思い込んでしまう事がおきる。エスカレートすると鉄拳制裁という泥沼に嵌ってしまうのだ。その結果一人の生徒の命が失われた。報道を見る限り、学校管理者は当然にその事実を黙認していたようである。現代日本社会の最大の欠点は、成績を上げればその手段方法が間違っていても誰も口出しできない雰囲気があることである。

「正々堂々」とは、指導者にこそ問われることで、指導者の指導態度が必ずや生徒たちの試合に現れることを知るべし。高校野球の嘗ての「蔦」監督や「迫田」監督率いるチームが、なぜにスタンドのより強い声援を受けてきたかを考えてみればわかることなのだ。

全国の高校教育現場の先生たちに問いたい。貴方は、クラブ活動指導者の暴力を見て見ぬ振りをしたことは有りませんかと。

もし有ったとしたら、貴方がクラブ活動と縁の無い立場で教育を行っていても、貴方に教わっている生徒は、将来に社会に出て役立つ人間にはならないと断言します。

過去に多くの部下を使い、ビル建設を行ってきた私にはそうした子供が作る建物がどの様な物に成るか想像が出来るのです。いわゆる不法建築や、手抜き建築が出来るだけなのです。

教育ほど社会を良くしたり、腐らせたりするものは無いと、肝に銘じていただきたい。ましてや、公教育現場で有ればなお更である。

この責任は、大阪市長貴方がが全てを背負い、家族の悲しみと悔しさを癒すまでは、解決したことには成らないと肝に銘じ、市政に専念すべきである。校長や、教育長の責任では無く、大阪市の責任であることを認識すべきことなのです。

橋元大阪市長、市政から目を離した「隙」に必ずやこうした危険が発生する事を、貴方は予測すべきだったのです。そのことを世の中では「危険予知活動」と呼んでいるのです。

大阪市役所が「危険予知活動」を行っていれば防ぐことの出来た事件であったことが残念で成りません。「孤独死」や「いじめ」・・・・・。

市役所各部門で、毎日始業前各人々に行わせることこそ、市政改革ではないのですか。