藤森照幸的「心」(最年少被爆者、アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

深山 霞の「霞的心」

2013-01-09 08:50:41 | 社会・経済

「憂う」について考える(6)

去る1月7日、私は桐光学園のサッカー部優勝について論じた後、学校教育現場での「隙」について危惧した。やはり昨年暮れに大阪で事件が起こっていた。学校の売名のための、クラブ活動を行うと、この様な結果が必ずどこかで起きてくる。

桐光学園の試合を応援し、なぜに感動したかは試合を観戦された人以外には感じられないであろうが、監督、学校役員の笑顔の中で溌剌と躍動する生徒たちは、実に清清しいものであった。

これこそ高校生のクラブ活動だと、感銘したからこそ準々決勝の試合まで、敗戦するまで応援に出かけたのだ。敗戦時の生徒たちの涙の中には、胸を張って敗戦を受け入れる姿勢があった。それは全力で戦ったことのある人間にしか感じることが出来ないもので、実に充実した立ち姿であった。

今回事件を起こした大阪の学校は、何時の時か強く生徒を指導したとき、たまたま良い成績を上げたのであろうと思われる。そうしたとき人間は錯覚を起こす。

より強く指導すれば、より強くなると思い込んでしまう事がおきる。エスカレートすると鉄拳制裁という泥沼に嵌ってしまうのだ。その結果一人の生徒の命が失われた。報道を見る限り、学校管理者は当然にその事実を黙認していたようである。現代日本社会の最大の欠点は、成績を上げればその手段方法が間違っていても誰も口出しできない雰囲気があることである。

「正々堂々」とは、指導者にこそ問われることで、指導者の指導態度が必ずや生徒たちの試合に現れることを知るべし。高校野球の嘗ての「蔦」監督や「迫田」監督率いるチームが、なぜにスタンドのより強い声援を受けてきたかを考えてみればわかることなのだ。

全国の高校教育現場の先生たちに問いたい。貴方は、クラブ活動指導者の暴力を見て見ぬ振りをしたことは有りませんかと。

もし有ったとしたら、貴方がクラブ活動と縁の無い立場で教育を行っていても、貴方に教わっている生徒は、将来に社会に出て役立つ人間にはならないと断言します。

過去に多くの部下を使い、ビル建設を行ってきた私にはそうした子供が作る建物がどの様な物に成るか想像が出来るのです。いわゆる不法建築や、手抜き建築が出来るだけなのです。

教育ほど社会を良くしたり、腐らせたりするものは無いと、肝に銘じていただきたい。ましてや、公教育現場で有ればなお更である。

この責任は、大阪市長貴方がが全てを背負い、家族の悲しみと悔しさを癒すまでは、解決したことには成らないと肝に銘じ、市政に専念すべきである。校長や、教育長の責任では無く、大阪市の責任であることを認識すべきことなのです。

橋元大阪市長、市政から目を離した「隙」に必ずやこうした危険が発生する事を、貴方は予測すべきだったのです。そのことを世の中では「危険予知活動」と呼んでいるのです。

大阪市役所が「危険予知活動」を行っていれば防ぐことの出来た事件であったことが残念で成りません。「孤独死」や「いじめ」・・・・・。

市役所各部門で、毎日始業前各人々に行わせることこそ、市政改革ではないのですか。

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