藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

深山 霞の「霞的心」  北国さんの記事に思う

2013-01-30 20:43:02 | 社会・経済

20歳代前半期、秋田県の中山間部に存在する「阿仁マタギ」に、非常に興味を持ち図書館に存在する「マタギ」に関する本を読みあさった時期がある。自らも数冊の本を購入したが、民俗学的にも非常に面白く、縄文文化を現代に引き継ぐもののように感じたことが、昨日の感がある。「阿仁マタギ」の狩猟道具や、装束が「有形文化財」に指定されたそうだ。「北国さん」から知らされて、改めて「マタギ」文化についてその歴史的意義を国が認めたことに喜ばしく思う。

お名前は忘れたが、嘗て四国に竹細工の「人間国宝」の方が存在されたが、技術の伝承は為されているのであろうかとふと思った。

と言うのも、広島県の県北部山中には、嘗て「山家」と呼ばれる、流浪の民が存在し、山口県の東部の山間部を西の端とし、岡山県の氷ノ山を東の端とする一体を流浪しながら生活した民が存在した。その流浪の民の持つ技術は、炭焼きと竹細工であり、冬の積雪時には炭焼きを行い大量の炭を生産して、砂鉄の「タタラ」を下支えし、春になると、村々を巡り竹細工で生計を立てていたようである。

私の妻は中国山地のど真ん中の生まれで、小学校低学年までそうした人が存在したことを記憶しているようである。

私も小学校の低学年時代、広島市の周辺部の街にやってきたその手の人と交流したことがある。私の育った街は、歴史的に古く「神功皇后」まで遡る。街の名前も「神功皇后」によって付けられた。

街の山側半分は完全な農村で、日露戦争の為に惹かれた「山陽本線」が新市街地を海側に作り出し、不思議な形態の街であった。

その街の、山陽本線を見下ろす山に、ある日一人の男が犬3匹とともにやって来た。仕事は竹細工である。出来上がった竹細工は、駅前の闇市で売っていた。その男は、半年ほど、小屋掛けした住居で生活していたが、彼が連れていた犬が子供たちの間で「日本狼」だという噂が流れていて、確かに精悍な姿をしていた記憶がある。一度だけ私自身が、その犬の事を尋ねた事があったが、答えは、「山犬」と答えただけであった。そして、「山犬でないと熊が出てくるから」といった。

秋祭りが終わる頃、突然にいなくなった。彼が生活していた山の持ち主に、後年そのことを聞いたことがある。その山の持ち主は、「あー山家の人、彼は5年に一度くらいの割合でやって来て、うちの竹やぶの竹で仕事をしていたなー」と懐かしそうに言ったことを思い出した。しかし、私が見たのが最後であったらしい。どの家にも彼の作った笊や、テミがあった。丈夫で、使い勝手の良い物であったが、私が成人する頃まで存在したことは事実である。凝ったものは、節の部分を生かした絵柄があり、美術品といっても良いくらいであった記憶がある。

その後、義務教育の普及がそうした人たちを定住化させ、タタラ製鉄も廃ったため、「山家」の存在ができなくなったようである。

彼らとともに、「日本狼」も滅んだのかもしれない。

コメント
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