図形曼荼羅好きな方 (^O^)/

ラピスラズリの蒼とトルコブルーの重なりに魅かれます。色と形は何かを現わすような気がします。

 総てを自らつくり得、生み得るものと信ずる者は

2013-12-02 15:28:56 | 日記



ひふみ神示 第17巻 地震の巻 / (二曰んの キ)

第五帖 (三八二)

 全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。
その全体は常に雑多なるものの集合によって成っている。部分部分が雑多なるが故に、全体は存在し、力し、弥栄し、変化する。故に、歓喜が生ずる。
本質的には、善と真は有であり、悪と偽は影である。故に、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。影なるが故に悪は善に、偽は真に働き得ない。悪の働きかけ得る真は、真実の真ではない。
悪は総てを自らつくり得、生み得るものと信じている
善は総てが神から流れ来たり、自らは何ものをも、つくり得ぬものと信じている
故に、悪には本来の力はなく、影にすぎない。善は無限の力をうけるが故に、益々弥栄する。
生前の行為が生後審判され、酬いられているのではあるが、それは、悪因縁的には現われない。そこに、神の大いなる愛の現われがあり、喜びがある。悪因縁が悪として、また善因縁は善として、生後の地上人に現われるのではない。何故ならば、大神は大歓喜であり、三千世界は、大歓喜の現われなるが故にである。
この一貫して弥栄し、大歓喜より大々歓喜に、更に超大歓喜に向って弥栄しつつ永遠に生命する真相を知らねばならぬ。しかし、天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因である。本来なきものをつくり出し、一を二にわける。だが、分けることによって力を生み弥栄する。地獄なきところに天国はない。天国を思念する処に地獄を生ずるのである。善を思念するが故に、悪を生み出すのである。一あり二と分け、はなれてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生れる。即ち、一は二にして、二は三である。生前であり、生後であり、死後であり、尚それらの総ては である。故に、これらの総ては無にして有である。人の生後、即ち地上人の生活は、生前の生活の延長であり、また死後の生活に、そのままにして進み行 く、立体となり、立々体と進み、弥栄する処につきざる歓喜があり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、更に三の段階へと弥栄 浄化する。浄化、弥栄することにより、善悪美醜のことごとくは歓喜となる。故に、神の中に神として総てが弥栄するのである。悉くの行為が批判され、賞罰さ れねばならぬと考える地上人的思念は、以上述べた神の意志、行為、弥栄と離れたものである。
歓喜に審判なく、神に戒律はない。
戒律は弥栄進展を停止断絶 し、審判は歓喜浄化を裁く。このことは神自らを切断することである。裁きはあり得ず戒律はつくり得ず、すべては これ湧き出づる歓喜のみの世界なることを知らねばならない。
行為は結果である。思念は原因である。
あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象の悉くが同様の律より一歩も出でず、故に地上世界の悉くは生前世界にあり、且つ死後の世界に存在し、これらの三は極めて密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一つで ある。生前の呼吸はそのまま生後、死後に通ずる。地上に於ける総ては、そのままにして生前なるが故に、生前の世界にも、家あり、土地あり、山あり、川あり、親あり、子あり、夫婦あり、兄弟姉妹あり、友人あり、また衣類あり、食物あり、地上そのままの生活がある。地上人、地上生活を中心とすれば、生前、死 後は映像の如く感覚されるものである。時、所、位による美醜、 善悪、また過去、現在、未来、時間、空間の悉くを知らんとすれば、以上述べたる三界の真実を知らねばならぬ。




冬至を迎える前の新月


陰の結びの力がつよくなるとき


思いの祓いが大切なとき


自らの力ではなく


生かされていることに感謝するとき




古代文字を検索していると

インカには文字はなく

結縄(キープ)で数字を現し交易を行っていた

文字の害を避けるため使わなくなったとも言われています


「結縄」は、中華民族の始祖とされる伝説の伏羲が行ったとされ、日本列島では、沖縄や房総半島や北海道で昭和時代まで使われていた。沖縄では、琉球王国時代から徴税事務や日常活動において数量を数える表示・記録の手段として用いた。沖縄では結縄を「ワラザン」「バラザン」などと称し、単位を区別するために紐には太さや材質の異なる複数の藁を用いた。この制度は琉球処分後も継続された人頭税が廃止される1903年まで継続された

古へには

藁を結ぶというのは神の縁を結ぶということが偏在していたのかもしれません


神社に注連縄は大切なことも納得できます




一方古代文字を実用化したシュメール人


楔形文字が色々な言語を産んだともいわれています


文字のほか、太陰暦、七曜制、60進法、暦とともに占星術も発達、金属の鍛錬など現代に繋がる都市国家や政治文化すべてシュメールの文化から産まれているようです

ウルにある巨大なジッグラドがバベルの塔や、長期に及ぶ洪水の伝説が旧訳聖書のノアの洪水と共通しているといわれています

そして、シュメール人の宗教の要点が強調しているのは、人間性のすべては神々のなすがままにあるということである。

シュメール人と呼んだのは他の民族で、自らは「ウンサンギガ」「混ざり合わされた者」の意)と呼び、その土地を「キエンギ」「君主たちの地」の意)と呼んでいた。

旧訳聖書からみると、

神に拮抗しようとしている姿に見えます

自らの神を正当とする考えが

今につながっています

それが争いの元になったりします

古代文字とは違う方向へ流れてしまいましたが、神代文字ということばがあるように


日常の生活が神に抱かれている


そんな発想を持てるといいですね。



マニュアルばかり優先したがる人に文字では伝えられないのと同じように


日や月の律動は伝えにくいもの



雑多なる部分の弥栄があるといいですね。







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