以前お世話になっていた篆刻家と年賀状だけのお付き合いになっていました
ご高齢になったため娘さんの住む石川県に移っていました
今年は娘さんからの返信を戴きました
モーゼの十戒をヘブライ語で篆刻し函館より
イングランド国教会、トラピストシトー修道院へ寄贈しています
ちょうど平成になった頃お付き合いのご縁がありました
平成の時代に信仰に暮らすとは何かを学ばせていただいたような気がします
口癖にしていたのは眼に見えないものを大切にする
函館名物、「1に朝イカ、2に石川啄木、3にウィリアム・レニー」と謳われ、
函館の人たちをこよなく愛し、その持てる物すべてを与え、祈りの生涯を貫き通したカナダの恩人
色あせた山高帽に破れ靴の先生は、貧しい人々の街にも現れて自分の給料をわけ与え、社会教育、社会福祉のためにもつとめた。
高等学校の教師を務めていたウイリアム・レニー先生のうしろには子供達の列ができていたそうです。
昭和47年10月26日、函館中部高校前の児童遊園地の一角に教え子らによって記念碑が建てられ、毎年、教え子が集まって亡き師の遺徳をしのぶ会を開いている。
無教会派であったウイリアム・レニーを積極的に支援する教会はなく宮腰氏が神父にお布施をしてしのぶ会は続いていました。
ハリストス教会のニコライの元で学び、友である五島軒の初代、坂本竜馬の従兄に協力を受け無事幕末のアメリカに渡った 新島襄
元町にある渡航記念碑の前で渡航記念祭をとりまとめていた宮腰氏
眼に見えぬ函館の先人生き方の残したものを大切にしていました
三笠宮様がトラピストの神父にブライ語を学んでいるのを聞いたのも宮腰氏からでした
三笠宮記念館をトルコに建設されていて古代オリエントに使命をもって研究されていた
菊の紋章がオリエントに存在することも御存じであった
宮腰氏の回りには色々な人が集まっては離れて行きました
バシャールを知ったのも宮腰氏のところでした
よくワクワクすることをしたいと話されてました
バシャールは自己への奉仕を説きますが
宮腰氏が生きたのは他者への奉仕することで上手く回っていたような気がします
ただただ、石にヘブライ語を篆刻することを生きがいとし先人を敬った宮腰氏
平成時代の側面に富さえ築いたら手段はどうでもという風潮を感じます
そんな空気とは対極の空気が宮腰氏のまわりにありました
おかげで、眼に見える結果を求める世界とは別に
眼に見えぬ感性があることを実感しました
明治、大正、昭和と日本中から函館に集まった先人の生き方を宮腰氏を通じて知る機会を持てました
中央の画壇の批評に背を向けおのが心と向き合った植木蒼悦氏を師とした宮腰氏
植木蒼悦氏 孤高の河童水墨画
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/3a/5a20f8cf9cd2067cbd2e0c7d521d6177.jpg)
そんな宮腰氏の先人へ想いを巡らす智慧を戴いたような気がします。
函館の先人の永い先には縄文の人にも辿りつくような気がします
縄文遺跡を訪ねると いにしえの悠久の祈りが現れる
函館の先人の生きた背景を知ることが
生き方を感ずることへの入り口
その生き方に幕末よりも大きな変化があったのが弥生時代
畏れと祈り 群馬埋蔵文化財
縄文が未来を開く 詩人 宗 左近
縄文人は、狩猟漁撈(ぎょろう)採集の生活。自然の恵みをそのままいただき分配しての暮らし。搾取と被搾取がない。貨幣経済がない。文字という精神流通の媒体を持たない。原始共産制の自然人、そして、粘土で造形する芸術人。
この縄文人が、日本原住民である。ほかにはいない。その精神が、日本の母胎である。ほかにはない。そのことを、よく心得ていなければならない。
紀元前数百年、幾つもの海のルートを通って、中国大陸から数多くの渡来人がやってくる。これが、弥生人。稲作をおこなう。鍬(くわ)や鋤(すき)や刀をつくる。医学や薬学を心得ている。すなわち、文明人。
自然人(そして芸術人)のところへ、文明人がやってくれば、どうなるか。白人が渡来してきて以来五百年の南北両アメリカ大陸の歴史が教えてくれている。文明人が征服し、支配する。
紀元前三百年から紀元後三百年までが、弥生時代。紀元後三百年から紀元後七百年までが古墳時代。この一千年間での弥生人およびその系列の大陸からの渡来人の総数は、百万人(自然人類学者・埴原和郎氏の説)。この略称して弥生系の人々が、当時の、そしてそれ以来の日本の主導権を握って今日に至る。そして、縄文人と弥生人の混血が今日の日本人である(同じく埴原氏の説)。
ここに、大切なことがある。
縄文人の出自は、東南アジアである。温暖な自然である。その自然をつくり自然を動かす基本の力、すなわち神は何であるか。愛の神である。
弥生人の出自は、北アジアである。寒冷な自然である。その自然をつくり自然を動かす基本の力、すなわち神は何であるか。知の神である。
両者は、同じ黄色人種であっても神を異にする。神を異にする部族を異民族という(外見や生活の違いが問題なのではない)。したがって、現代日本人は、異民族の混和したものである。しばらく前まで唱えられていた純粋民族説は今日では否定されている。
さらに、もう一つ大切なことがある。
弥生時代が始まってから二十世紀半ばの一九四五年の日本の敗戦の日に至るまで、縄文の土器土偶その他の芸術作品は、どういう扱いを受けたであろうか。
徹底して無視され、黙殺された。
日本には、美の天才たちがたくさん現れた。万葉集、古今集、新古今集などの歌人たち。宗因、芭蕉、蕪村などの俳人たち。紫式部以下の小説家たち。琳派その他の美術家たち。明治以降の岡倉天心、和辻哲郎、小林秀雄などの評論家たち、しかし、縄文芸術のなかの一点くらいは見ただろうに、誰一人、一言も語らなかった。呆れるほかはない。
だが、これはなぜであろうか。
美の天才たちがことごとく哀れにも支配権力の強い意識操作を受けていたからである。
柳田国男は、まったく見事な言葉を残している。
「妖怪とは、後代の神によって征服された前代の神およびその眷属(けんぞく)である」。
縄文の神、ひいてはその表現である縄文芸術は、後代の神、弥生の神によって、妖怪とされたのである。
のちの世の人々もいっせいに、卑しんで目もくれなかったのである。
縄文時代を愛し、土器や土偶などの収集した宗左近氏は
縄文土器を古代の遺物、生活の必需品ではなく、芸術作品(美術品)として見た。
日本の感性は一万年続いた言霊のさきはふ国で養われたもの
支配権力の強い意識操作の弊害が溢れ出る時
一万年前の神殿ギョベクリテペが現れたのは偶然だろうか
経済ではなく人は祈りのために生きるとささやいているようです
環太平洋の火山が激しくなる時
火をふく山は 火水(かみ)が住まわれる山と崇めた先人
自然の中に想いを巡らすことが感性の鍛錬になる
大寒の日に個展の言葉を話すのも良きことかなたと思い
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/e2/fcdc434686e42964585b61ef62b3e616.jpg)
まだ先の春分の頃の展示の準備を始めています
毎年個展を開いていた宮腰氏の生き方を思い巡らし