雅号というものがある。
中国では古くから文人の創作にあたって本名と異なる名称を用いる習慣があった。これが日本に伝わると、風流な名称を名乗って雅号と呼び、江戸期以降文芸や俳句、書画・陶芸の作家たちは作品にこれを標してきた。
現在ではペンネームや筆名が主流となり、小説家などはあまり用いないが、明治大正の文筆家はほとんど雅号を用いた。俳句では俳号と呼んでいる。
また、家元制の邦楽、舞踊、書道、茶道、華道などでは、各流派の家元から付与される称号は、技量免許の証でもある。
来世で通用する戒名など、本人も遺族もピンとこない名称を授けられたところで、なんの興趣も覚えるはずがないのだから、現世にあるうちに、親の定めた名前と別に自分自身で好みの呼称を定め、創作に限らず凡ゆる場面でそれを名乗るのは、ある意味風流な趣向である。風雅の道で雅号が汎く用いられる所以だろう。
社会的に通用する本名一本で、人生の大半を過ごしてきた面々が、相語らって雅号を名乗り互いにそれで相手を呼び合うのも、隠居世代に相応しい趣好であり遊びでもある。愛称で呼びあった、子供時代への回帰現象と見ることもできる。
雅号をつくるのに面倒はない。自分の居住地名や、生活習慣、生活信条、趣味、嗜好など、当人のアイデンティティを彷彿させる語に、斎、庵、軒、堂、館、房などを付けてアレコレ雅号らしきものにするのは、愉しい作業である。体を表す名が思いつけば善しとする。自分が命名者であるから、満足するに違いない。もし不満があったら、何度でもつくり直せば好い。歴史が古いこともあって、ハンドルネーム、ペンネームよりは、趣きが深く感じられるはずだ。
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