野生動物を自然の状態から人の生活圏に招き入れ共に暮らすためには、馴致(じゅんち)すなわち馴らすことが必要になる。人類は野生動物の本能にプログラムされている性質を、気の遠くなるような時間をかけて馴らし、自分たちの役に立つよう変化させてきた。
まず餌付けをして、食餌で飼主に依存させる。次に給餌習慣を利用して、その動物が飼主の望ましい行動を憶えるまで訓練を重ねる。最終的に人との暮らしに適応するまで飼い馴らし続けた。人類は自分たちの発展の歴史の中で、動物を馴致し続け、家畜やペットに仕立てきた。
人も社会生活を営むためには馴致の過程を経る。物心つくようになれば、躾があり家庭教育も学校教育もある。今日教育と呼ばれているものは、片面は学習であり、もう一面は社会生活への馴致だ。本能にプログラムされたものを抑制し、人に円滑な社会生活を送らせるには、本能に拠らない生き方を身につけてもらうしかない。それは馴致という手段に依るほかはない。
高所恐怖症、閉所恐怖症というものがある。自己保存欲求という本能が強く働きすぎて生ずるシンドロームである。前者は墜落を予想する不安によって、後者は閉鎖した空間から出られなくなる不安によって、パニックに陥る。一種の神経症だろうから、自分の意志ではどうにもコントロールできない。どちらも、過度な自己保存欲求がその根にある。
凡そ恐怖症というものは、自己保存欲求が過度に強い人間につきまとうものだ。自己保存欲求は誰もが生まれながらにもつものである。しかし成育過程で過保護に育つと、過度に自己保存欲求が強化されるようだ。後天的なものだから、ある程度矯正はできる。自己保存欲求から来る恐怖を軽減するには、馴致という方法が最も有効である。
馬は非常に臆病な動物で、野生状態では驚くと集団で暴走する厄介な生き物だが、調教という馴致を個体ごとに施せば、軍馬・使役馬として極めて人間の役に立つ動物に成長する。犬などは馴致の歴史(人間との濃密な接触の期間)が長く、遺伝的な本来の性質の変化を獲得するまでに致っている。
高所恐怖症者は、断崖絶壁に立つと足が竦み恐怖心を覚えるものだが、それを何度も繰り返していると、徐々に恐怖心が薄らいでくる。場数を踏み高所に馴れれば、ある程度は改善に向かう。
海技教育機構の練習帆船は、海員を目指す学生の航海訓練の目的で2隻保有されている。航海訓練では、訓練生は全員がマストに登り、展帆・縮帆の作業に習熟しなければならない。
数十名の訓練生の中には、高所恐怖症の者も必ずひとりやふたりは居るという。教官は巧みに宥めすかし、一人の脱落者をも出すことなく、出港時の登檣礼で海面より数10mも高いヤード(帆桁)上に全員が整列できるよう仕立て上げる。
海の男を育てる練習帆船の教官は、航海の知識や技術の指導者であるばかりでなく、人間馴致のプロフェショナルでもある。
人は馴致によって本能をも制御できるようになる。これは人間が克己を成し遂げるうえで、大きな援けとなっているはずだ。
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