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道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

歴史ドラマ

2022年11月29日 | 随想
私たちは、歴史上の人物の伝記やその人が主人公として活躍する小説を読み、映画やTVドラマを視て、その人物を敬慕したり親近感をもったりする。小説家や脚本家は、関心をもった歴史上の人物に、自分流の理解で新たな命を吹き込む。

歴史上の人物は、著述によってつくられた被造物である。作者たちは、過去に実在した人物に仮託して自己を表現しようとする。
無から有を生じせしむるのが創作であるなら、その力量の不足している部分を、実在した歴史上の人物を活用することで補うのである。

したがって、伝記や小説や原作が、歴史上の人物の人となりや業績を正しく伝えているかどうか、実際のところは全くわからない。伝えられるものでもない。
評論とか創作というものには、著作者の人格が顕れるものだから、彼の価値観が作品に色濃く投影されるのは当然である。客観性があるようでないのが、歴史上の人物である。そららの人物には、経てきた各時代の時代精神を反映した潤色や誇張が、いく層にも多重に積み重なるものである。

歴史上の人物を考える時、当の本人が実際に書いたもの以外の史料は、史料批判という作業なしに信用できない。しかし、検証しようにも、信頼できる決め手は少ない。
特に本人が語ったと伝えられている言葉などは、ほとんど信用できない。

権力の上位にあった人ほど、観察者は多く情報は多いはずだが、近侍する者の守秘は絶対だ。それでも伝聞情報は多くなるものだが、伝播していくうちに、伝達者により、様々な潤色や誇張、歪曲や隠蔽が重なり、事実は変容を免れない。他方普通の身分の人々の情報は,伝える人がいないから無いに等しい。

伝記や評伝の言葉ほど、当てにならないものはない。言葉はどのようにも脚色する事ができるし、作者の考えや意向・願望が紛れ込むのを防ぐ手立てがない。
私たちは、ボイスレコーダーのない時代に登場した全ての人物の言動は、まともに信用すべきではないのではないか。各時代の誰かの作為を排除する方法がないのだから・・・
人物の断片的な行動の軌跡だけが、ある程度信頼できる状況証拠を提供するに過ぎない。
発生した事件の背景・経緯・当事者の行状・顛末・その影響など、証拠から事件を掘り下げることで、当事者の意思・判断・行動を推測することしかできない。

私たちは「彼はこう言っていた」と云われると、反論するのが難しい。特に歴史研究の権威がそう言うと、素人にはその根拠を明かせなどとは言えず鵜呑みにしがちである。各時代に鵜呑みにされた伝聞情報が累積したものが伝記であり史料である。時代が古ければ古いほど、時間に比例して、史実の実像は不明瞭になり、検証は難しくなる。
記憶が薄れる結果というよりも、自分の意思主張のために、歴史上の著名人物の発言(と信じられているもの)を自分たちの主張に援用する結果、史実はなお一層不明瞭になる。

したがって伝記をネタにしたテレビドラマの脚本などの主人公の人となりなどに全く信憑性はない。
脚本家に人生経験と批判精神が乏しい場合は、話の面白さに重きが置かれ、その場凌ぎの付け焼き刃的なエピソードや皮相的理解が盛り込まれる。荒唐無稽に目を瞑る、感動的だったり衝撃的な、エンターテイメント重視のストーリーが出来上がる。
それに付き合わされたとしても、ドラマとして面白ければまだ救いもあるが、面白くなかった時には、時間の浪費を嘆くことになる。

テレビの歴史ドラマがこうも粗製されるのは、作るに易く視聴率がそこそこに予測できるからだろう。作者の脳裡から全ての事件や登場人物を創出した物語のドラマ化は、視聴者の反応予測が難しい。
人口に膾炙した歴史上の人物のドラマなら、そこそこ手堅い視聴率を期待できる。

歴史物はドキュメンタリーに次いで、アウトラインにも登場人物にも、視聴者にある程度の予備知識がある。
歴史ドラマは、局の側からすれば無難である。かくして、結末を皆が知っている歴史ドラマの放映が、延々半世紀以上に亘り毎年繰り返され、視聴者は毎週テレビに釘付けにされる。公共放送の重要な役割のひとつである。

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