道々の枝折

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日和見

2020年11月28日 | 人文考察
私は日本の報道機関が謳い文句にしている「報道の中立性」はまやかしだと思う。


苟も見識ある人間なら、それに基づく判断というものがある。思想がある。真理を愛する人間なら信念がある。正しいと信ずる側に与するものだ。中立性という言葉で、自己の立ち位置を誤魔化し、政治権力との協調に終始しているのは頷けない。

報道機関といえども、準国営は別として、他は営利によって成り立つ私企業である。発行部数と視聴率、広告収入に社の盛衰がかかっているのだから、自ずとジャーナリズムに徹するのは限界がある。それでも、知性ある人間の密度が高い組織である。常に反知性を批判する姿勢を示して貰いたい。

人は日和見はできるが、厳密な意味での中立はできない。人間の心の目は、対立する2極の中間(中央・中心)を見極める機能を備えていない。二つの極を同等に理解・評価できないからである。中立・中道は明らかに幻想であり詭弁である。厳密な意味での中立は、神の立場でなければできようはずがない。人間にできるのは、日和見でしかない。人がどちらかに偏るのは必然である。

したがって誠実なジャーナリズムなら、どちらかの側に立って報道すべきだろう。立場を明らかにしない報道は、単なる情報である。中立性を御旗に逃げてはいけない。
欧米のマスコミは、旗幟を明らかにしてしているから、中立などは口にしない。それでは読者・視聴者を失うからである。

ひとり日本のマスコミだけが、中立を建前にした報道姿勢を採る。世界の先進国の報道機関のランキングで、比較的低位にあるのは、それが理由であろう。国内で受け入れられているのは、社会がマスコミに甘いからである。
戦後日本のマスコミを毒してきたもの、それは「報道の中立」という建前である。

戦前の軍国主義の時代、新聞・ラジオは、大政への翼賛の旗振り役を務め、事実に基づかない大本営発表を検証することなくそのまま国民に流し続け読者やリスナーを欺いた。今また報道の中立を建前に、政権批判の立場を逃れ、政権との蜜月に腐心する。

明治の新聞の草創期には、殆どの新聞社が筆を揃え政権批判の記事を書いた。新聞(マスコミ)が欧米からの移入直後であったから、その精神も生のまま直輸入された。だが、その後時代が降るに従い、新聞は権力と協調的になる。

記者は権力に懐柔され易い職業で、権力は有力記者を味方につけたがる。
人間は同じ人間と日々飲食を共にし、交際していると、狎れ親しくなる動物である。番記者などという言葉があるのは、マスコミ人としての矜持を捨てたものと見て良いだろう。記者クラブという存在も、国民のためにあるのか政権のためにあるのか、存在意義を糺されなければならない。知的集団のマスコミは、自発的・主体的に自ら襟を正してもらいたい。

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