道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

述懐のとき

2022年11月19日 | 随想
人の弁舌のタイプは、大雑把に言って寡黙と多弁の2つに分かれる。
生まれつき人と話すことが嫌いな人、人前で話すことが苦手な人が居る反面、話好きな人、饒舌な人は多い。
中には、しょっちゅう喋っていないと落ち着けない、強迫観念的なお喋りも居る。好奇心が強い博覧強記の、話題に事欠かない話したがり屋も少なくない。

世の中は人で出来上がっているから、意見を述べることと意見を聴くこと、つまり話し合うことが大切である。話し合うと言っても、その内容は、その場面と対話者・参加者の組み合わせにより様々に変化するから無限の広がりがある。

現実の社会生活では、話し合いは物事の進捗をスムースにする。誰でも職に従事している間は、話し相手に事欠かない。
ローマの兵士の退役年齢が50歳だったというから、人は概ね60歳(還暦)ぐらいから話し合いが減るだろう。その頃から、述懐する時間が増えて来るのではないか。話し合いの減少を、述懐が埋めてゆくのである。人生を顧慮する年頃なって初めて、述懐のときは始まる。

現実の中で生々しく日々の仕事に追われている間は、人は述懐などできない。機が熟さなければ、熟考も反省も懐旧もできないのが人間というものである。

辞書によると述懐とは、考えていることや思い出を述べることとある。さしづめ私のブログなども、随想の中にかなりの述懐が紛れ込んでいる。
歳をとると行動が少なくなるので、行楽とか旅行の類の投稿は減る一方になる。老境とは、まさに述懐と共に在る境遇と言える。

ところで、自分の思いや考えをあるがままに述べるという極くあたりまえのことが、この国では存外自由に出来ないように思う。
日本の社会は、欧米社会と較べると、自我が確立した個々人を基本に成り立っていない。社会の基本単位は集団である。此処では、個人の意見は集団の総意に対して極めて微々たる力しかもたない。

社会全体が、個人の自由な発意や思考に抑制的であることを私たちは知悉しているから、なかなか自由闊達な述懐というものに出会わない。
その窮屈さは、被支配の永い歴史がもたらしたものか?民族に具わる稟質なのか?双方相俟ってのことなのか?模糊としてよくわからない。

個人の述懐は、談論を風発するようなものでありたい。誰かの述懐が別の誰かの談話を誘発し、放談の連鎖を生むようなものが望ましい。

人には、あるがままの自分を曝け出したくない心理が働くこともある。
自らのアカウントに拠らず、集団の意思に従って過ごすうちに、没個性が身に付いてしまうと、集団を離れてもなお、個を控え大勢に順応することを優先するようになる。其処に独自の思弁が生まれるとは思えない。

欧米の政治指導者のほとんどが、退任後に回顧録というものを著すのは、任務の遂行についての述懐を公にすることが、国民への義務と心得ているからではないか。対照的に日本の政治家は、自ら回顧録を書かない人が多いようだが、ゴーストライターの書いたものでは読む人はいない。彼我の政治意識の違いは、突き詰めれば遠い昔からの、個人の生活意識の違いがもたらしたものだろう。

自らを語るということは難しい。どうしても自己正当化や自負に指嗾され、誇張や潤色を伴いがちになる。
正確な記憶は述懐に必須な要件だが、衒いや誇示したい気持ちがあると、その内容は陳腐なものに堕してしまう。それは人の共感を呼ばず感興を催させない。自己顕示欲が減衰し、自己承認欲求が希薄になって初めて、述懐に客観性が宿るようになる。
人は須く自らの思想を整理してから、冥目したいものである。

高齢者世代は、忌憚なく述懐するに適した環境と条件を手に入れている。それは老人にこそ相応しい為事である。自分自身を知るために残された大切な時間である。
好むと好まざるとにかかわらず、老いた人間が己れを知るには、述懐を等閑にすることができない。それ無くして、真の友誼や厚誼も覚束ない。

隠したい何かを抱え込んでいると、あまり述懐には近づきたくないかもしれない。弾みで隠し事が露見してしまうことを虞れるのであろう。隠しごとが少ない人は、虚心坦懐に語ることを厭わないものである。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 好奇心と人間性 | トップ | 干し柿に空っ風 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿