道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

好奇心と人間性

2022年11月16日 | 随想

以前のエントリーで、好奇心が猿を進化させ、人間に導いたという論題に触れた。
人類にとって、好奇心が動物から人間へのアクセレーターだったとすると、人間らしさとは、絶えざる好奇心に負うていると考えることができる。
事実かどうか、現実に照らし考えてみたい。

人間になった今日でも、私たちの脳には、人間に成る前の永い動物の時代に形成された脳、旧い大脳皮質がある。これを包みこむように覆っているのが、人間になって以降に形成された知的な精神活動を司る脳で、新しい大脳皮質といわれる組織である。

饅頭の餡の部分を旧い大脳皮質、薄い皮の部分が新しい大脳皮質とイメージすると分かり易い。私たちの脳は、進化の過程で動物の時代に獲得形成した旧い脳の機質と、人間に成ることで形成された新しい脳の機質を併存させているらしい。

常には古い皮質は新しい皮質に覆われている。古い大脳皮質と新しい大脳皮質を繋ぐものは感情である。私たちの感情には、旧質由来のものと新質由来のものとが混在している。喜怒哀楽の根の部分は古い皮質に宿る感情で、情緒とか情操とか慈愛と言われるものは、新しい皮質で生まれた感情だろう。
この新しい皮質で生まれた感情は動物には無いもので、人間性の知性・理性・感性の感性の部分に属するものである。人への進化によって生成し発達したものである。

一般的に人間性と言うと、善良な面を意識して語られるが、人間性には善い面ばかりでないものもある。人間の感情の中に、好ましくない情念が含まれていることは否定できない。嫉妬・憎悪・背信などは動物には無く、人間だけに具わるものである。

人類は猿の時代よりは善くも賢くもなったが、悪くなったことも事実だろう。
人間性に具わった悪い面を正す為に、人類は道徳や倫理というものを考え出した。

動物的欲望の遺存的習性と新たに生まれた人間的欲望とが交合したもの、それが人間性に潜む悪である。それは動物の時代の本能的欲望が、進化に伴って変質したものと考えることもできる。

人はヒトに成ってからの気の遠くなるほどの期間に、この人間性の悪に対峙する対立概念として正義の概念を確立させた。
残念ながら、好奇心は古い大脳皮質にその根があるためか、理性・知性のコントロールが及ばない時もある。好奇心は悪徳との親和性が高いようだ。なぜなら、好奇心は知識欲という欲望の一種から生まれたものだからである。知識欲は善良とは限らない。
好奇心は正義に監視されながら、人間に進歩をもたらして来た。正義は欲望を規制し、好奇心もその規制の中で活動すべきものである。

発明・発見は好奇心に根ざしている。好奇心が観察や実験、研究を生み、人類は発展し続けている。好奇心はイノベーションの原動力である。いくら国家が研究者たちに厚遇を与え国家の目的に適う研究だけを推し進めようと願っても、研究者たちの関心を呼ばない研究は進展しない。知的好奇心と正義とのせめぎ合いの中で、研究というものは発展し続けるのだろう。悪魔の発明を許さない叡智は、人間に具わっていないのではないかと虞れるが・・・



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 体熱の倹約 | トップ | 述懐のとき »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿