余呉湖を訪ねた。30〜40万年前の、
断層活動に伴う陥没でできた断層湖というから、琵琶湖の子どものようなものと言えるかもしれない。
湖の周囲は6.4km、湖面の標高は133m 、高所にある湖のひとつだ。賤ヶ岳のある尾根を隔てた琵琶湖の湖面標高は42mだから、標高差は91mもある。周囲を山に囲まれ、波立たないことから、鏡湖の名をもつ。古代史の舞台近江に相応しい、美しく小さな湖である。
北陸線余呉駅は、とても幹線鉄道駅とは思えぬほどに簡素で小さい。駅の存在を知りながらこれまで下車する機会がなく、今回初めてプラットホームに降りた。駅舎の外に出ると、緑濃い山々を背に、湖面が光っていた。湖の汀は刈り込まれた芝地で、山側との間を舗装された車道が取り巻いている。
余呉湖観光会館を起点に歩き始め、賤ヶ岳への登り口に向かう。道路と湖水との間の芝地には、マルバヤナギなど、河畔性の樹木が諸処に生えている。
木の間越しの対岸に、「川並」の集落の屋根が重なり合って見える。芝地に車を乗り入れ、釣りを楽しむ家族連れの姿もあった。ブルーギルを釣り上げた人が居て、この湖にも外来魚が繁殖していることを知った。
たまに通る車のほかに、聞こえるのは小鳥の声ばかり。長閑という外形容の仕様がない湖畔を、黙々と歩く。
湖南部の「尾野呂浜」という辺りは、天正11年の賤ヶ岳合戦の火蓋が切られた地点とか。柴田勝家の甥、猛将佐久間盛政が、此処から尾根上の大岩山砦に籠る羽柴秀吉の部将、中川清秀を急襲し敗死させた。
賤ヶ岳登り口の標識から山道に入る。道は杉の林の中をスイッチバックしながら緩く山腹を巻いている。琵琶湖の飯ノ浦港へ向かう要衝で、賤ヶ岳合戦の激戦地〈飯の浦切り通し〉に着いた。
〈飯の浦切り通し〉は、撤退する柴田勝政隊と佐久間盛政隊に、加藤清正など秀吉麾下の旗本勢が猛攻を加えたところと伝わる。賤ヶ岳七本槍の逸話は、このあたりでの戦闘場面を描写したものらしい。木立の中にコアジサイの青紫の花がひっそりと咲いていた。

切り通しから稜線に出て北に折れ、ひと登りすると、賤ヶ岳の山頂に着いた。

眼下に余呉湖と琵琶湖を望む眺望
は、40年前に初めて木之本側から登った時と変わらない。
昼食を摂りながら、心ゆくまで眺めを楽しんだ。


帰路はリフトで、黒田官兵衛ゆかりの「大音」(おおと)集落に降る。独特の形の鳥居をもつ湖北随一の名社「伊香具(いかぐ)神社」を経て、木之本駅まで、水田の中の一本道を歩いた。

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