道々の枝折

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勘違い

2024年05月16日 | 人文考察
私たちの社会は多数決で成り立っている。正しいかどうかよりも、多数の承認・合意をもって事は進められる。少数意見は多数派の意見が採択されると、人々の記憶から薄れ消滅する。少数意見は、多数の決定が万一誤っていた時に、修正する際に最も重要な手がかりとなるはずのものだが・・・
これは、私たちの多数決が、民主主義のそれとは根本的に似て非なるものであることを示唆している。

民主主義の多数決原理では、少数意見(反対意見)はある意味欠かせないものである。全員賛成という状況に、不自然を感じる社会が、民主的である。
私たちの社会の多数決は、満場一致をもって最良とする。間違ったことでも、多数の合意さえあれば事は実行され、不具合が有っても、是正されることが少ない。是正の手がかりが、放棄されているからである。

日本の社会で根回し(多数派工作)が重要視され横行する理由は、多数で押し切りさえすれば、後はどうとでもなるという、多数派に問答無用の考え方があるからである。収束を図るためには議論が必要だが、多数派は議論を嫌がる。議論を嫌っては、民主主義は成り立たない。
そのためか、私たちの社会には、多数が承認した様々な勘違い事実誤認が数多く潜在している。不合理が牢固としてこの社会で幅を効かせているのは、この多数による勘違い頻発の事情に遠因があると考えられる。

勘違いには、①意味の勘違い価値観の勘違い認識の勘違いがある。勘違いが糾されることなく、時には良識として社会に受け入れられていることに問題の根がある。
私たちは、多数による勘違いを助長する性癖をもっている。それを利用して、世間をミスリードしたり欺く利口者が跡を絶たない。

撤退を転進と言い換え、敗戦を終戦と糊塗したり、人災を天災にすり替えたりすることがあった。意義の失われた不合理な行事を、綿々と引き継いでいる。
有効性のないマスクを国家が大量に発注したり、勉強会と称してパーティ券を濫発し、集めた資金の使途が不明瞭であったり、意図的な誤魔化しや責任転嫁が罷り通るのは、おそらく、それらを受け止める私たちの側に、事実の本質を厳密に慥かめる意思が薄弱で、巧妙に勘違いさせられてしまうからだろう。
明治以来、国民の大らかな(お人好しの)心性を利用し、国や自治体を誤らせた為政者は、今日に至るまで枚挙に遑ない。

権力者は、国民の勘違いし易い習性につけ込み、権力に有利なプロパガンダを拡散する。これには第4の権力、マスメディアが大きな役割を担っている。政権が舵をとりやすいよう取り計らう作為は絶えることがない。
歪曲牽強付会による事実の誤魔化しや曖昧化が横行し、人々の認識の混乱を引き起こす素因になっている。

本来、メディア・マスコミは、権力の監視を担い、大衆に事実を伝え、人々の認識を正しく保つことに存在意義があった筈だが・・・
初期のマスコミ(=新聞)は顧客(購読者)である大衆の信任に応える存在だった。しかし、長く広告を扱ううちに顧客の主体は購読者や視聴者でなく大企業に移り、テレビ時代以降なると、メディアにとって大衆は消費者でなく利用者に過ぎなくなった。マスメディアが無料または低額の顧客に意を用いないのは当然である。

今日のマスメディアに、良心的な調査報道を求めるのは難しいだろう。
マスメディアの政権への忖度の度合いは年々高まり、真正の民主的社会はますます遠のくばかりである。
敗戦後に占領軍(米国)が敷いた民主主義のレールは、55年以来形骸化の一途を辿り、真の目的地に向かっているとは思われない。これは為政者の作為ばかりでなく、私たち国民自身がもっている議論を嫌う性質、問答無用体質に由来するものかも知れない・・・
こと民主主義に関しては「百年河清を俟つ」と諦めるしかないのだろうか?
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