道々の枝折

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「カモカ」考

2018年07月16日 | 民俗・芸能

大阪出身の作家、田辺聖子のエッセイに屢々登場する「カモカのおっちゃん」をご存知だろうか?何となくユーモラスな響きがある。

作品の中で、田辺は夫を「カモカのおっちゃん」と、親愛の情を籠めて呼び慣わしていた。彼女の世代までの関西では、「カモカ」という得体の知れない魔物を知る人々がいたようだ。

田辺聖子と三周りも齢が違う明治生まれの私の祖母は、故郷の福井県嶺北地方の伝説や逸話を幼児の私によく聴かせてくれた。昔語りは年寄りの独壇場である。

明治になるまでのこの国には、野蛮な風習が遺っていたらしい。城とか橋の建設に当たり、主要な柱の基礎の穴に若い娘を人柱として入れたという。それに纏わる悲話や、犠牲になった娘の生まれ変わりの白蛇の祟りだとか、大人でも怖がる話をして私を度々怯えさせた。

その数ある怖いもの話の最後のトリに、祖母が幼かった頃最も恐れていた〈カモカ〉という姿なき魔物が登場する。子どもがグズってなかなか眠らなかったり、我儘を言って手こずらせると、その地の親たちは「カモカ来るぅー‼︎」と突然叫ぶ。子どもらは途端に歯の根も合わぬほどに震え上がり、〈カモカ〉に襲われては大変と、皆息を潜めておとなしく寝たそうだ。

ネットで調べると、関西や北陸に伝わる〈カモカ〉の語源は「噛もうか!」であるとまことしやかに説明されている。しかしこの説は誰が言ったものか全く承服しかねる。

「噛もうか!」には、泣く子も黙る凄みと迫力がない。この語源だったら、ヤンチャな子どもたちが慄え上がるはずがない。心の深層に染み込んだ恐怖の対象とは全然感じられない。

祖母は〈カモカ〉を推理して、鎌倉時代の蒙古襲来に語源を求め、〈蒙古〉の音が訛ったものかと言っていた。700年以上昔の、元寇における蒙古軍の残虐ぶりと凄惨な被害の風聞は、九州北部から瞬く間に海陸を伝わり、恐怖の念が遠く京・大阪から越前・美濃の住民の心裡に焼き付けられたであろうことは想像できる。祖母はその鬼たちの呼び名が訛ってカモカになったと考ていた。だが私は、こども心に〈蒙古[mouko]〉が訛り〈カモカ[kamoka]〉に転じたとは、音が違いすぎて無理があると思った。K音が頭に付いた理由が説明できない。

その後成人した私は〈カモカ〉に興味を覚え、元寇を調べてみた。そして、文永の役で対馬・壱岐を襲い博多湾に押し寄せた元の船団の主体が、元に征服されていた〈高麗(コマ)朝鮮〉の軍船であり、兵も操船する水夫も殆どが高麗人だったと知った。元の軍団の構成は、多数の高麗歩兵と全軍の指揮官を含む少数の蒙古騎兵の混成部隊だったと推測するに至った。

外征にあたり、前衛部隊に被征服地の兵士を当てるのは、侵略国家の常である。しかも渡海という、蒙古人には決定的に苦手な遠征である。征服国の高麗と南宋に海事は任せるしかない。それでも元は、遠征にあたり、自ら誇る精強な騎兵部隊を、少数ながら攻撃軍に参加させていたのではないか?

開戦直後、対馬・壹岐の地頭や守護代の軍勢は圧倒的多数の元軍(高麗歩兵+蒙古騎兵)の攻撃でほとんどが討ち死にした。守備部隊の居なくなった島は、掠奪と暴行の限りを尽くされ、闘う者は全て殺された。女子供や生き残った男たちは俘虜として船に拉致された。

長門(山口県)でも2島同様の酸鼻を極める殺戮と掠奪暴行があったらしいが、防衛の当事者が誰であったかを含め、襲来の事実そのものまでもが歴史の闇に隠され、史料はないようだ。武名の名折れを惧れた守護代または地頭が事実を秘匿したものか、後の明治の長州軍閥にとって、不都合な史実ということで、組織的に隠蔽されたかもしれない。

この残虐無比な元軍(高麗軍+蒙古軍)の所業の生々しい情報は、日本海と瀬戸内海を経て瞬く間に伝わり、京・大阪に到達した。

勿論鎌倉幕府はいち早く早馬でこの惨状を知ったが、民心安定のため、住民被害の事実は堅く封印され、武士民衆を問わず厳しい箝口令が敷かれたと推測する。

実際に襲撃を受けた対馬・壹岐・(長門?)から東の日本海沿岸地方では、高麗兵と蒙古兵による残虐な攻撃の風聞に、民衆は明日は我が身かと生きた心地がしなかったと想像する。

私は被害地の人々が、襲来した元軍が高麗と蒙古の混成部隊であることを明確に認識し、元などと公式名称などで呼ばず、当時の朝鮮に対する一般的呼称〈高麗[koma]〉と〈蒙古[mouko]〉の語音で呼んでいたと考えている。

鎌倉時代の人々は、幕府・朝廷から一般民衆に至るまで、〈蒙古〉をと公式の国号で呼んだりはしなかった。外交関係の全く無い国である。中国人がその昔名付けた蛮族の謂の〈蒙古[mouko]〉の呼称をそのまま使って何の不思議もない。〈高麗〉も、高句麗の時代から、わが国で呼び慣わしていた呼称[koma]である。

 日本海沿岸の住民の恐怖と憎しみの的の呼び名は〈高麗・元[komagen]〉でなく、〈高麗・蒙古[komamouko]〉だったと推理することができる。

 私は〈高麗・蒙古[koma・mouko]〉が一語に合体し、それが訛って〈カモカ[kamoka]〉に成ったと考える。

 祖母の言う[moukokamoka]説より、

 komamoukokamoka]への転訛の方が、よりあり得ると考えたい。

 「高麗・蒙古来るぅー‼︎」が、経年繰り返されるうちに「[kamoka ]カモカ来るぅー‼︎」に変化したのではないだろうか?

高麗・蒙古混成軍の戦い方の残虐さ、住民に対する情け容赦のない非道さの情報は、津波のように北九州から日本海と瀬戸内海を経て西日本の津々浦々に瞬く間に伝わり、民衆を恐怖のどん底に陥れた挙句、恐怖心を子供たちに植え付けた。

風評に尾ひれがついて、極悪非道の姿なき悪鬼となった〈カモカ〉は、西国から畿内北陸あたりまで定着し、子どもたちを永く怯えさせ続ける結果になったと考える。

元寇という歴史的事件には、故意に史実が隠されたフシがあり謎が多い。福岡市の元寇歴史資料館を訪ねると、資料展示物の少ないことに驚く。

〈カモカ〉とは、元寇の戦争の結果に衝撃を受け、事実を隠蔽しょうとした御家人軍団並びに鎌倉幕府の作為にもかかわらず、民衆が受けた恐怖感が意識の底に沈殿し、魔物になったものではないか?

時の権力者が隠そうとしても、事実は完全に抹消又は隠蔽できるものではない。歴史始まって以来の異国の侵寇に怯えた民衆の恐怖心は、子どもの心に固着し、累代消えることなく現代に伝わったと思う。


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