5:50家を出た。外はまだ暗闇だ。バスの無い時刻は駅まで歩く。6:45浜松駅に着いた。どうやら4km1時間の標準歩速で歩けているようだ。
6:01発の米原行きに乗った。乗り換
え無しで米原に行く電車はこれ一本しかない。
ホームには、早朝なのに案に相違して大勢の乗客が居た。微醺を帯びた老人や横たわって寝ている若者の姿もあった。
10:01JR湖西線、比叡山坂本駅着。
空は近江には珍しい「ピーカン」
だ。
今日は近江坂本から京都八瀬へ、比叡山を横断してみる。比叡山は高校の修学旅行以来である。駅を出て大鳥居から日枝神社に向かう。
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道の両側に整列している石燈籠と、穴太衆積み石垣塀の里坊が建ち並ぶ日吉(ひえ)馬場の景観は、比叡山・日枝神社の堂宇や社殿以上に、往昔の栄華を偲ばせるものがある。
里坊の建屋は外からよく見えないが、内部は凝った邸宅であることが窺える。時々の権力者を刺激しない配慮と見るか、僧侶の隠居所という建物本来の性格によるものか、いずれにしても簡素にして強固な、独特の構えである。
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前回半日かけて廻った日枝神社はパ
スし、「ケーブル坂本駅」で国内最長(約2km)といわれるケーブルカーに乗る。
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終点の「ケーブル延暦寺駅」からバス乗り場まで杉木立の中を歩く。路線バスひと区間を乗り継いで山頂駐車場へ。久しぶりの好天とあって、沢山の車が駐車していた。
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駐車場の端に在る茶店で、好物のにしん蕎麦を食べ、腹ごなしにしばらくは山頂一帯を歩き回る。
三角点は駐車場場から東に登り、マイクロウエーブ塔のある尾根上にあった。
駐車場から300mほど西に進むと京都側に下る「ロープ山頂駅」がある。ロープウェイとケーブルカーを乗り継いで八瀬駅に降る。
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此処のケーブルカーは国内で最も勾
配が急とアナウンスがある。 標高差561m距離1.3kmを9分で降り、「ケーブル八瀬駅」に着いた。
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駅舎を出て、高野川(八瀬川)に架かる橋を渡ると、叡山電鉄「八瀬比叡山口駅」があり、電車で終点「出町柳駅」に向かう。今日は修学旅行以来の銀閣寺を訪れる予定で来ている。当時は金閣寺に比べ興味が薄かったので、改めてじっくり観賞する心づもり。
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「出町柳駅」を出て、大津に抜ける
旧山中越えの歴史街道(一部)を百万遍交差点へ抜け、今出川通りを銀閣寺まで2.5km歩く。それまでに12kmほど歩いているので、些か歩き疲れてきた。白川通りとの交差点を渡ると、東山の緑濃い稜線が青空にくっきりと映え、山麓の高まりを感じた。
銀閣寺に近づくにつれ観光客の数が増え始めた。道幅が狭まり、両側に土産物店や飲食店の建ち並ぶ区域となると、人数の多さに加え、外国の言葉も飛び交う下町の繁華街のような雑踏になってきた。
寺の総門を入ると、順路は人で埋まっているものの、銀閣と庭園の佇まいが、それまでの街路と異なる空気を醸し出している。人の列に切れ目のできた一瞬を衝かないと、好みのアングルで写真を撮れない。これが難しい。
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この銀閣寺を造った足利八代将軍義
政は、完成を見ることなく54歳で亡くなった。政争に翻弄された生涯だった。彼は晩年、妻の日野富子にも見放されていたという。義政の孤独が、銀閣寺建造へ情熱を傾けさせたのだろうか?
足利義政が凡庸でない人物だったことは明らかで、一言でいえば文化人。数寄者で過ごすことを、時代が許さなかったのだろう。彼の下で応仁の大乱は始まる。治政に向かなかった人だったと見られている。
文化人・知識人が統治権力を握ると、碌なことはない。特に学者・芸術家・作家はいけない。治世をシッチャカメッチャカにしてしまう。それは彼らの稟質が自己中心的で客観性を欠き、現実を正確に把握できないからだろう。専門性と創造性が、深い熟慮や洞察を妨げることに気づかないからだ。言わば創造力の反作用というべきものが、彼らに働くのかもしれない。彼らは、本来政治に不向きな人たちである。
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