道々の枝折

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元寇の謎

2018年10月19日 | 歴史探索

「元寇」は、日本史上空前の異民族による侵掠でありながら、時の幕府・朝廷をはじめ、僧侶神官・武士・庶民の各層に徹底した情報統制が敷かれたかと思えるほどに記録が少なく、一次史料は伝聞資料しかない。それがために元寇は、今日に至るまで、未だにベールに覆われている。国ぐるみで歴史を隠そうとした意図が、交戦当事者双方にあったように思え、興味深いものがある。隠蔽と歪曲と捏造は、わが国をはじめ、中国・朝鮮など、儒教文化圏の歴史に常に見え隠れする弊習である。神(唯一絶対神)の監視のある社会との違いは大きい。

日本の歴史始まって以来の、最大規模の侵冦であったにもかかわらず、元寇(文永・弘安の役)は、勝者であるはずの日本側の歴史的記述や検証資料が異常に乏しい。最大の被害者民衆の記録はもとより、異国の大規模な侵攻軍との交戦を直接体験した武士(御家人)たちが遺した記録が、異様なほどに少ないように思う。

武人がいくさを語らないのは、敗北したときと相場が定まっている。勝った場合でも辛勝なら、やはり口は重くなるだろう。心底から勝利を実感できなかったときの武人には、そのような態度が顕れるものである。

元寇に於ける防衛戦は、天佑があって元軍の進駐を防げたものの、個別の戦闘では、自ら納得できる「いくさ」が出来なかったのではないかと推測する。その現実の重みが、防衛に当たった幕府と御家人たちの口を閉ざさせ、筆をとらせなかったのではないか?博多湾に沿う「石築地」の防壁遺構を観たとき、そんな想いが泛んだ。

他方、弘安の役での暴風によって、人的にも物的にも空前の大損害を蒙った元軍(高麗軍・江南軍・蒙古軍※兵員数順)の側も、当然ながら史料は極端に少ないようだ。元帝クビライにとって、日本侵攻の失敗は、大きな屈辱であったに違いない。元史にも南宋史にも高麗史にも、記録をとどめることを許さなかったのだろう。日・元両軍の当事者双方に、事実を自国民や被支配国民に知らせたくない、言い換えれば歴史に蓋をしたい気持ちが、強く働いていたと見てよいのではないか?歴史は勝者が遺すものである。勝者無き戦いは、記録が少なくなるのは当然であろう。

元帝国は「文永の役」で軍900隻、兵員 3万人以上を動員、2回目の「弘安の役」では、何と軍船4400隻、兵員15万もの、前回の5倍にものぼる膨大な兵力を投入した。必勝を期しての侵攻作戦だったと見て間違いない。

文永の役で所期の目的を果たせなかった元は、2度目の遠征弘安の役では、九州全域の占領を企だてていた。後の世の豊臣秀吉による九州征伐から見ても、現実性のある充分な兵力であろう。6年の歳月をかけ、高麗と江南の両支配地に軍船を建造させ、元・江南・高麗を合わせ最大の兵力を動員し、満を持して渡海作戦に臨んだ。

対する鎌倉幕府は、文永の役の直後から元軍の再来襲を予想し、同じく6年の歳月をかけて高さ3m、延べ20kmに及ぶ「防塁」(石築地)を、博多湾沿岸に構築した。幕府の兵力を北九州に集結させ、元軍の一兵たりとも上陸を許さない堅い備えを固めた。

必ず再度の来襲があると確信したのは、元帝からの書簡や使節の言動もさることながら、初戦の「文永の役」での戦闘で、彼の戦力の強大さと戦術の圧倒的優越性を知り、我の戦力・戦術の弱体を自覚していたからだろう。(元は侵攻を諦めない・・・)と、北条幕府は対手の意図を正確に掴んでいた。

一方元軍は、「文永の役」で暴風雨にさえ遭わなかったなら、北九州に橋頭堡を確保できていたはずという認識、つまり元軍の戦力の優越性を確信していた。将官たちは捲土重来、再度の遠征をクビライに進言した。しかし元の属国高麗の王は、軍船建造の費用と労役の負担、兵員や糧食供出の負担に耐えかね、再戦は望まなかった。だが被支配国の悲しさ、クビライの命に反することはできなかった。

日本の歴史での元寇への検証は、戦役の後完璧に閉鎖されたと考える。それは後代の室町幕府・江戸幕府・明治政府に至るまで、連綿と継続していたと見る。国史として、具に検証や研究をしようとした形跡が見られない。元寇という大事変の実相を、歴代の為政者は努めて軽微な史実として取り扱おうとしてきたのではないか?民族的心性である異様に強いプライドは、事実の誇大化にも矮小化にも作用する。

日本の歴史は、外国との戦争での敗北を矮小化するのが常である。「白村江の戦い」然り、「秀吉の朝鮮出兵」然り、「太平洋戦争」また然り。太平洋戦争の敗戦を終戦と言い換えた政府に、何の違和感をもたない国民性は特筆に値する。負けを認めたくない情念は合理性に欠けた行動を招く。戦争中に撤退転進言い換えたのも、政府はもとより、国民の側にも、不都合な事実耳を塞ぎ目を瞑り、歴史を曖昧にしたい心情が働いていたからだろう。

あくまで推測だが、「文永の役」で元・高麗軍と初めて干戈を交えた鎌倉武士団は、それまでの国内戦では経験したことのない、完膚なきまでの惨敗を喫したと見る。九州の守護・地頭・御家人たちは、戦術の違いに茫然自失の態に陥ったのではなかろうか?その原因の最たるものとして、上陸した元軍には、歩兵の高麗兵ばかりでなく、少数ながら蒙古人騎兵の精鋭部隊が参加していたことが考えられる。元軍が騎兵と乘馬を乗船させていたという想像は、決して荒唐無稽とは思われない。

なぜなら、軍隊というものは、依拠すべき必勝戦力を投入しないで遠征することはありえないからだ。勝つために有力な兵種を欠いて出撃することは、作戦計画の常道を踏み外す。元軍の必勝兵種とは、軽装疾走騎射部隊であった・・・

火薬兵器や集団戦法に日本側が苦戦したと記録にあるが、実状は大鎧に身を固め停止弓射しかできない重装の騎馬武者が、蒙古人軽装騎兵の疾走弓射と高麗歩兵の狙撃弓射の恰好の的になったのではないか?騎乗の武者たちに、雑兵の死傷を上まわる死傷者が出たのではなかったかと推測する。

兵卒よりも将校に戦死傷率が高い戦闘というものは、負け戦さのときにしか発生しない。従来のいくさの常識を超える将校(御家人の一族や郎党)の戦死傷の極端な多さに、御家人の頭領たちは意気消沈し、沈黙してしまったのではないか?

そもそも草原の遊牧民蒙古の軍団は、兵站部隊も含め全員が騎兵で成り立っている。戦士イコール騎士であって、指揮官の将校も兵卒も騎乗する。対する日本の軍団は、基本的に戦闘を担う兵は全員が歩兵、将校にあたる武士のみが騎乗して指揮を執った。時には自らも弓を取り攻撃に加わることもあるが、数から言っても戦闘部隊の単位を成さない。つまり日本の攻撃部隊は歩兵が主体であり、彼らが騎馬武者の指揮を受けて闘うのに対し、蒙古軍は将校から兵卒まで全員が集団で騎乗疾駆し、敵を剛弓で射撃する極めて機動性の高い攻撃法を採っていた。彼らが下馬して徒歩で闘うのは、攻城戦その他特別に必要あるときに限られた。

蒙古人の戦闘とは、疾走騎兵による弓射戦であり、敵兵と離れて戦う。それに対して日本人は、歴史的に徒歩戦・白兵戦が基本だった。武士たちの騎乗は、もともと指揮と単騎弓射のためのものであり、個人での戦闘はあっても、騎馬武者が集団で突撃する部隊編成もなければそのような訓練も受けていない。馬の去勢を知らない民族には、騎馬の密集集団による戦術は使えない。

騎乗の武士=騎馬武者たちに死傷が多かったのは、蒙古人騎兵と高麗人歩兵たちの持つ短弓の威力にも大きな要因があった。ユーラシア大陸を股にかけて他民族との戦闘に明け暮れ、中世世界を震撼させた剛強無比な蒙古人騎兵は、縦横無尽に戦場を駆け回る。対する日本勢は、戦場で馬を停め、各個静止した馬上から長弓を射る。敵は日本の重装鎧武者を恰好の目標として狙撃したに違いない。素材を積層接着して作られた合成弓は、短いながら強力で、その射程は和弓より長く殺傷力も大きい。和弓に較べ取り回しが比較にならないほど勝れ、馬上での操作性は極めて高い。彼らが毒矢を使うことも、日本人には無い発想だった。

「てつはう」という火薬兵器の殺傷力の程は詳しく知らないが、蒙古騎兵の疾走弓射には、抗する術がなかったのではないかと思う。御家人軍団の将兵の心胆を寒からしめたことは確かだろう。北条幕府軍は、作戦的にも心理的にも、かつて経験したことのない異形の戦闘に、強烈な衝撃を受けたに違いない。

この騎馬武者たち、すなわち武士たちの死傷率の特異な高さが、若い執権時宗はじめ幕府の上層部や、主力となって闘った九州の御家人たちに、記録を残すことを抑えさせたのではなかったと思う。雑兵の死傷にはたじろがない剛勇無双の御家人たちの頭領も、家の子郎等党の損失は堪え、戦意を沮喪したことだろう。将校層の損失は、部隊運用にも大きな打撃であったことは想像するに難くない。

敵兵は逃亡又は降伏し、国土はともかくも守ることができた。しかしあまりにも武士団に犠牲が大きかった戦争だった。敵影が消えても、戦勝気分などには浸れなかったに違いない。本来なら、敵を撃退したのだから、九州はもとより国中で戦勝を祝う行事があってもよかったはずだが、戦役後にそれらが実施された形跡はない。戦勝を祝う民俗行事が遺っていないのは、それが無かったことを物語る。蒙古退散の祈祷祈願を朝廷から命じられ、それを盛大に祈った国中の寺院神社も、戦後は完全に沈黙した。

防衛戦は、勝っても物質的に得るところは何も無い。重なれば国の疲弊を招くだけである。御家人たちの一族郎党、すなわち身内の武士たちの死傷損害が甚大だったことに比べ、幕府の恩賞は僅少だった。獲得するものが皆無の防衛戦は恩賞の原資をもたらさない。武士たちはますます意気沮喪し、皆が「いくさ」を語る心境になれなかったのが真実だろう。あらゆる点で元寇の「いくさ」は、それまでの国内での御家人同士の戦いとは、明らかに様相が異なっていたと想う。

先年、福岡市を訪れた際、真っ先に〈生の松原〉へ行き、「弘安の役」を前に構築された防塁「石築地」を視察した。現在は海との間に砂浜があるが、当時は波打際が石塁近くまで迫っていたらしい。文字通りの水際作戦だったことがわかる。

一般に石築地は構造の強度性で理解されているが、私はそうはとらない。3mの石垣は、歩兵にとっては何ほどのものでもない。援護射撃のもとで難なく乗り越えられる。しかし、小型の騎馬には大きな障壁である。小さな蒙古馬には、上り勾配を遮る3mの直壁は、越えられない。

「弘安の役」での鎌倉武士団は、前の「文永の役」の体験で、高麗人歩兵部隊との戦闘は全く恐れていなかった。十分対抗できる相手だったに違いない。しかし、再度の襲来に当たって最も恐れたのは、初戦で知った蒙古人騎兵の機動力で、日本側は専らこれを防ぐ目的で、強固な石築地を築いたと考えられる。

源平合戦から約1世紀の間、日本では武具も戦法もほとんど進歩していなかった。九州で守護・地頭を務める武士たち御家人は、「文永の役」で初めて交戦した異形の騎乗弓射兵に完膚なきまでに撃ち破られたのが真相ではないか?対馬・壱岐・松浦・長門での惨状は、兵力差ばかりが強調されているが、戦法・戦術の違いに因るものが大きな要素ではなかったかと考えたい。

更に元軍が行った民衆への酸鼻を極める乱暴狼藉は、防戦主体の武士団が壊滅してしまった証左であろう。北条幕府は、民衆の安全を保護することなど全くできなかったと見てよいだろう。

文永の役に蒙古騎兵が上陸していたと仮定すると、惨敗は納得がいく。辻褄も合う。蒙古の軽装騎兵は、短弓から矢を連射しながら海浜を縦横に駆け回り、随所で敵陣を突破した。初めて対戦する蒙古騎兵に、対馬・壱岐・松浦の武士団や民兵は、当初は為す術が無かったと推測できる。

「弘安の役」では、「文永の役」での惨敗の反省から、機動性と攻撃性に富む蒙古人の騎兵部隊を内陸に侵入させないよう、水際で食い止める戦略が採用された。それが博多湾沿岸の防塁構築である。

防塁が石築地であった意味は大きい。もし3mの土塁であったなら、その傾斜は砂土の安息角で決まり、30度以下だろう。それは、波打ち際から騎馬で駆け上がることができ、何ら騎兵の障害にならない。傾斜角を90度近くに築ける石築地(石塁)なればこそ、馬は駆け上がることができない。また砂土の土塁は高波に脆弱であるが、石築地なら波浪にも耐えることができる。石塁の構築は、極めて合理的な防御戦略だったと言える。石築地の防壁が、モンゴルの侵冦を防いだと私は考えている。

元寇の勝利者は防衛に成功した鎌倉幕府と九州の後家人たちであったはずだが、あまりに武士たちに犠牲者が多かったため、勝利を実感できない戦さであったと推理する。

本記事は、あくまで学説や通説に拠らない門外漢の推理に基づく考察であって、ただひとつ現存する歴史的遺構の石築地(石塁)に着目して想を巡らせたものである。

歴史は必ずしも事実を伝えない。事件が重大であればあるほど、時の権力者に不都合な事実は隠蔽され、歴史の闇に消えてゆく。ジンギスカンに始まる壮大なユーラシア大陸征服の歴史は、それぞれの被害国で戦闘の事実が丹念に研究分析され、強大なモンゴル軍事力の客観的評価も定まっている。

モンゴル帝国の最東端と一衣帯水の位置にあって、2度も侵寇を受けながら、幸運にも征服を免れた事の次第が、今もって天佑に偏り、彼我の戦闘の実態が詳しくわからないのは、歴史家・歴史学者たちの怠慢によるものとは思えない。歴史上不都合な事実に蓋をする性向は、古代から連綿と続いているはずである。


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