社会生活を営んでいた時期を想い起こすと、「お為ごかし」というものに遭遇したり見聞したような記憶がある。「お為ごかし」がよく目についたと言った方がよいかもしれない。
人ごとばかりか自分自身もそれと気づかず「お為ごかし」をしていたに違いない。社会生活というものは、その類の俗習なしで済ますことは難しい。
だがそれにも限度というか節度というものがある。常習的に「お為ごかし」をしている人は、自らの偽善性を隠すためにどうしても反応がオーバーになりがちである。したがって「お為ごかし」はすぐそれと判る。
「お為ごかし」の程度の甚だしい人は、本心から他人に共感や同情をすることができない人なので、言動・活動は人一倍他人への配慮や思いやりに満ちているように見せる。反動形成というものである。無意識下での自己欺瞞であるから本人は気づかないが、周りにはよく見える。
「お為ごかし」を必要とする「世俗的偽善」とは、何から生まれるか?
たぶん虚栄心・利己心・自己保身、すなわち誰もがもつ自己愛又は自己保存欲求というものを、世間に調和させようとして生まれるものだろう。
「他人の不幸は蜜の味」という諺がある。人は他人の不幸に触れると、同情と共に憐憫の情を催すもので、その憐れみの心に、無意識の優越感が便乗することがある。優越感というものは自己愛に発しているので、他者の不幸は相対的に自分の幸福感を押し上げる。程度の差はあれ心裡に欣快の情が生じるのである。
残念ながら私たち人間は、絶対的幸福感というものが定まっていないようである。幸福を他者との比較で相対的に捉えるのでないと実感できないようだ。人間は動物と違って、常に相対比較によって自己を認識する生き物であるらしい。
他人の幸福と比較することによってのみ、すなわち相対的幸福感としてしか幸福を実感できないのであれば、人類は永劫に真の幸福を得られないのではないか?
そのような相対的に幸福を認知する限り、他人の不幸は自分の幸福を高めるものとなる。自分の幸福は絶対的に変化していないのに、比較対象の不幸が自分の幸福感を高めるのである。そのような相対的幸福というものは何と空虚なものだろう。
比較によって幸福を認知している限り、私たちに真の幸福=絶対的幸福は訪れない。相対的幸福は実質的には何ら倖せをもたらしてくれない空疎な幸福である。
この世においては、絶対的幸福だけが、真の幸福を実感させてくれるものである。結婚・誕生・入学・入社・受賞・記録達成・発明・発見など、他者との比較を伴わない絶対的幸福感は数多くある。
真の幸福=絶対的幸福は他人と無関係で、100%自己の内部にあるものである。人生で絶対的幸福を多く得ることができた人は倖せである。
欲望が旺盛で上昇志向の強い努力家は、他者との比較でしか幸福を感じられない。どうしても相対的幸福の追求に奔るから、他者が優越的な幸福を実現すれば自身の幸福は減退する。不足があるのは幸福感の妨げになるから、完全を目指す。
より多くを求めることは、世俗的成功の要件であるが、常に充足を得られない以上、本当の充足感すなわち幸福感はもたらされない。
相撲の贔屓力士や野球やサッカーなど、プロスポーツの贔屓チームの勝利に熱狂する人々の姿は、心の深層で優越感の満足に浸っていると推測して的外れではないだろう。
自身の優越に拘泥する気持ちは、勉強や練習などでの努力や忍耐を促し、能力の向上や成果の獲得の原動力となるから、あながち否定されるものではない。
しかし努力してもいっこうに然るべき成果を出せないとなると、他人の優越を妬む気持ちが発生するだろう。人間の心理というものは、洵に複雑で厄介なものである。
「お為ごかし」は、社会生活すなわち他者との関係を円滑にするという点で、意味のあるものである。円滑な社会関係を保つものなので、私たちは誰でもそれに慣れる。本音とか衷心や道義心といつも面と向かっていては、疲れてしまうようにできているのだろう。
勉強させていただいています。