恒例の地元花火大会を見に行った。立秋を過ぎた夜風は涼しく、虫の音も聞こえ始めていた。
湖を隔てた対岸の、打ち上げ地点を正面に見る公園の観覧場所は、観客で埋まっていた。それでも、立ち観に好い場所は至るところにあり、湖上の夜空を彩る烟花の乱れ咲きに時の経つのを忘れた。
光彩と轟音が已んで、帰りの人の波が動き始めたとき、卒然とそれまで魅了されていたものと趣の異なった、昔の花火の光景が脳裡に泛かんだ。
子供の頃、街の外周の数ある神社で夏祭りが続く時期には、毎夜のように、空の隅に小さな花火が揚がっていた。当時は市街に高いビルは数えるほどしか無く、家の窓や縁側からでも低い花火を眺めることができた。
遠い花火に華やかさは無く、夜空に一瞬きらめく儚い光輪と、間延びして耳に届く轟きだけが印象に残っている。
打ち上げる花火の玉数は今とは桁違いに少なく、したがって打ち上げの間隔も呆れるほどに長かった。待ちきれず、つい夜空から目を逸らし、空しく音だけを耳にすることも多かった。
追い打ちと呼ばれる速打ちは、終盤の15分ほどに限られ、それすら現在の普通の打ち上げテンポより遅かった。
花火の製造と打ち上げの技術が格段に進歩して、スターマインや多重の速打ちが見せ場となった今日から思うと、随分悠長な打ち上げ花火だった。
間遠に揚がるから、遠い花火に情緒が宿る。間が感懐を生む。間断無い盛大な打ち上げ花火は、絢爛華麗で観る者に壮快ではあるが、情致に欠ける憾みがある。
俳句を嗜む人に訊ねたら、季語に遠花火があるとか。だが、この季語が彷彿させる情景そのものは、すでに消滅して久しい。
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