1189年7月、頼朝は自ら大軍を率いて奥羽へ侵攻した。【奥州合戦】である。28万余の軍勢を東海・東山・北陸の三道に別け、自らは東海の大手軍を率いたという。話半分としても大変な数の軍勢である。31年後の【承久の変】で、後鳥羽上皇追討に送った北条幕府軍が19万である。時代が遥かに下る戊辰戦争でも、東北列藩同盟との戦いに従軍した官軍の兵力は12万である。平家追討の時期でさえ鎌倉から動かず、入洛すらしなか . . . 本文を読む
早く両親を失いながらも、関係者からの救援や養護に助けられ、順調に成人し妻も得た頼朝の人生は、鎌倉に入り、源氏の棟梁ひいては武家の棟梁として御家人たちの期待を強く意識するに従い、影を帯びて来る。何の権力基盤ももたない流人の座から、一躍数万の兵を動かすことができる源氏総帥の立場に成り、衰退した平氏に替わって朝廷権力と政治的に対峙する身になった頼朝の精神状態が、狷介孤高に傾いたであろうことは理解できる。 . . . 本文を読む
源頼朝は肉親との縁が薄い人だったが、その前半生は人に恵まれ、命の危機を三たび救われている。運の強い人だった。平氏の専制支配を受けていた東国武士団の願いが、頼朝の身を護る力となって働いていたのだろうか?〈平治の乱〉で平清盛との戦いに敗れた父〈義朝〉は、僅かな家の子郎党と共に都を後にした。東国へ落ち延びる途中、頼朝は父の一行とはぐれ平氏に捕らえられた。京に連行され、死罪になるところだったが、清盛の義母 . . . 本文を読む
春を直前に控えたこの酷寒の季節になると、ひと昔以上前に幾度か花を見せてもらいに訪れた〈市内天竜区佐久間町浦川〉の個人のお宅を想う。それは、そのお宅の裏山(敷地内)に自生するセツブンソウの花を、中日新聞が記事にしたことに始まる。当時の〈浦川集落〉の地内には、アズマイチゲやキクザキイチゲの群生地があり、私は以前からそれらの野草を観賞しに度々訪れていて現地の地理には明るかった。記事を読んだ2月初めの数日 . . . 本文を読む
20日が投票日の静岡県知事選、当日に所用があったので、期日前投票をするため、会場の市役所本庁へ行った。本庁の建物は、敷地が旧城内三の丸跡とニの丸跡に懸かって所在する。投票所は往時の三ノ丸側に当たるのかなどと考えながら、投票を了えた。投票の後、折角だから、久しぶりに城内を散策してみようと、庁舎の裏口から出て本丸に向かった。幸運にもちょうど其処へ、市の歴史ガイドを務めるボランティアの . . . 本文を読む