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道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

作左山(さくざやま)

2020年07月11日 | 歴史探索
徳川家康が築城した浜松城の西北の一隅に「作左山(さくざやま)」と呼ばれた小高地があった。あったと言うのは、現在は浜松中部学園(小・中)の校地の中に、所在位置を推定するしかないからである。元々、家康が城を築く前は、三方原台地上の小さなコブ(突起)に過ぎなかったのだが、城の東北側の低地から見れば標高差約30mの山(丘)に見えたのだろう。築城後、そこには兵糧蔵・煙硝蔵が置かれ、搦め手の名残口を押さえる . . . 本文を読む
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水野忠邦と浜松藩

2020年07月10日 | 歴史探索
「天保の改革」で悪名高い水野越前守忠邦は、唐津藩主であった23歳の頃、幕閣首脳に成ることを希み、家臣・藩内の強硬な反対を押し切って浜松藩への国替えを謀った。当時は駿河・遠江・三河の領主であることが、幕閣の閣僚に昇る要件だったからである。忠邦は若く(19歳)して肥前唐津藩の当主という恵まれた地位に在ったのだが、この殿様、幕閣の重職に就くことに殊の外執心したようだ。家臣・領民の反対や重臣の諫死までも無 . . . 本文を読む
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犀ヶ崖(さいががけ)

2020年05月29日 | 歴史探索
三方ヶ原台地を南北に貫く街道を北へ、浜松城から1キロほど行くと、街道の東側がほぼ30mの幅でスッパリ切れ落ちて断崖になっている地点が在る。その断崖から深さ10数mの谷が南東方向に台地をよぎり、谷の末端は城近くの低地に消えている。それは三方ヶ原台地にできた亀裂で、谷の源頭にあたるこの絶壁を、地元の人たちは「犀ヶ崖」と呼んでいた。谷の両岸は樹木に覆われ、昼でも薄暗い。城の北東を防御する天然の空堀の役目 . . . 本文を読む
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源範頼の別邸跡

2020年05月09日 | 歴史探索
街中に出ることと、集まって人と話をすることを封じられてしまったので、人文考察の種が減っている。こんな時には、町内の史跡にでも目を向けてみるしかない。浜松市の歴史案内地図に載る源範頼(1156〜1193年)の別邸跡に、初めて行ってみた。頼朝の3歳年下の異母弟の別荘跡は、何と自宅から1キロほどの近さに在った。「灯台下暗し」、当地に住んで45年にもなろうというのに迂闊だった。範頼は、異母弟の義経と比べる . . . 本文を読む
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浜松城と三方原合戦

2020年03月03日 | 歴史探索
今日は好天で暖かい。寒気がぶり返す前に歩いておこうと、街中まで買い物に出かけた。約8キロのウォーキング。春風に乗って、草の匂いと花の香りが鼻腔をくすぐる。なんといっても、紫外線の降り注ぐ屋外は素晴らしい。新型コロナウイルスの為に、深呼吸する習慣を忘れていた。植物に接するのは、何よりも心身をリフレッシュさせる効果が高い。道脇にヒメリュウキンカの花が輝いていた。上を向いて笑っているように見える。コロナ . . . 本文を読む
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