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「文民統制」を理解しない民主党に政権担当の資格なし

2015-09-30 13:37:10 | 政治



「文民統制」を理解しない民主党に政権担当の資格なし 自衛隊が柔軟性とプライドをもって任務につけることを目指した安保法制
JBpress 2015/9/29 11:35 森 清勇
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20150929-00044865-biz_jbp_j-nb

 安保法制は混乱のうちに成立した。審議過程で民主党をはじめとした廃案志向の野党が多発した中に、「歯止めがないじゃないか」という発言があった。

 しかし、この発言には矛盾がある。歯止めを利かすのは自分たちが属する国会と政府による「文民統制」、すなわちシビリアン・コントロールであるということを忘れた発言であるからだ。

 特に民主党は政権を執ったことがあるにもかかわらず、シビリアン・コントロールを信頼していないか、あるいはシビリアン・コントロールについて深く考えていないことを告白したような言動で、政権担当の資格を自ら放棄したに等しかった。

■「狂気」集団と化した野党

 平成27年9月19日付「産経抄」に良い記事があった。ニーチェの言葉だそうであるが「狂気は個人にあっては稀有なことである。しかし、集団・党派・民族・時代にあっては通例である」というのである。

 言うまでもなく、9月17日の参院特別委での採決時の混乱を説明するに当って引用されたものである。採決、あるいは採決に至る過程における意見発表などにおいて、民主党がしばしば採った暴力を含むルール無視の行動を指している。

 民主主義の模範を示すべき国会がこれでは、今後、どんな暴力が出てきてもおかしくない。議論の末に多数決で決めるのは民主主義の基本中の基本ではないだろうか。

 「議論が尽くされていない」という世論調査の結果を踏まえた、さらには自分たちの廃案志向が重なっての採決反対であろうが、ここには大きな矛盾があった。

 審議を尽くさなかったというのは野党自身が仕かけたことであったからである。議員数に基づく委員会の構成では与党が断然多かった。しかし、戦後日本のあり方をがらりと変えかねない重要法案であることから、衆院では野党に9割の質問時間が充当された。

 ところが「これほど分かりにくい法案である」ということを強調したい野党は、国民になぜ法案が必要になっているか、(今後)数次の国会審議を待たずにな ぜ今なのか、すなわち国家と国民のリスクが異常に高まっており、明日では覚束ないという基本的なことにはほとんど触れようとしなかった。

 「地球の裏側まで行くことになる」、「アメリカの戦争に巻きこまれる」、「自衛隊員のリスクが増える」、「徴兵制になる」などなど、日本の安全に無関心 かつ無責任な憲法学者の「違憲法案」という声を背景に、国民がパニックを起こすようなことばかりを喧伝する方法を採った。
「日本の防衛」という大前提を忘れたかのような暴論に持って行き、またシビリアン・コントロールがしっかり機能してきた自衛隊の歴史を一顧だにしない、議会人とも思えない発言ばかりが目立った。

 参院与党は、野党への温情が国民に混迷をもたらすことを再び危惧したが、国民の理解を深めたいという強い願望から、ここでも野党に譲歩して6割の質問時間を割り当てた。

 与党の質問は中国や北朝鮮の軍事増強と当該国の内政の混乱が日本にもたらす危険性などに触れ、主として法案の必要性の議論であった。しかし、野党はここでも違憲問題と法的整合性や、行動の範囲などを限定して「歯止め」を求めることなどを迫った。

 首相や防衛大臣が「新三条件に基づき、総合的に判断する」と答弁すると、発言に満足しない野党は、「どこまで拡大するか分からない」「首相次第ではないか」などと詰め寄った。

 法案の審議をよそに国民に不安をまき散らし、「時々の政府で、判断でぐるぐる変わる」などとアピールする方法は、正しく狂気の政党としか言いようがない。

■戦前の軍の暴走はなぜ起きたか

 満州事変から中華事変への流れを見ていると、軍が投入され、政府が追認するというパターンが処々に見られた。今日言うところのシビリアン・コントロールが機能していなかったのである。

 戦前における軍の行動は、表向き「好戦的」という見方もできようが、必ずしもそうとばかりは言えない面があった。それは、当時の法体制に問題があったからである。

 戦前の政軍関係は、今日の状況とは根本的に異なっていた。明治憲法第11条に「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあるように、軍は参謀総長および軍令部長を通し て天皇に直結していた。いわゆる軍の行動に関わる軍令事項は、「統帥権の独立」と称されたように、政府のコントロール下にはなかった。

 政府の一員であった陸軍大臣と海軍大臣は予算や人事などの軍政権を握っていたが、軍の直接的な行動には関与できなかった。さらには、軍部大臣武官制を 採っており、政府の施策を軍が好まない場合は、最大の抵抗として陸・海軍大臣を出さないで、組閣させない、あるいは倒閣に持っていくことも可能であった。

 軍が政府に関わりなく独走しないために、東条英機首相は陸軍大臣ばかりか、参謀総長までも一時的に兼務したことがある。軍部独裁とも言われるようになる統帥権の独立は、明治憲法11条によって保証されていたのである。
鈴木貫太郎内閣は終戦を目指すが、軍部が反発して大臣を出されなければ政府が瓦解して、終戦交渉などは全然進められない。そこで、軍部の要望である「決戦」を表向き標榜しながらも、腹芸で終戦の交渉を進めるよりほかはなかった。

 翻って、今日の自衛隊の行動に、統帥権独立に匹敵するような法的根拠があるというのだろうか。自衛隊の存在さえ違憲だという憲法学者も多い中で、自衛隊が動ける範囲は雁字搦めにされている。

 政治による命令・指示がなければ、1人の隊員も動かせない法体制下にある。こうした状況下で、政府が、自衛隊の行動を簡単に容認するとでも言うのだろうか。

 政権を握ったことのある民主党のシビリアン・コントロール理解は余りにも不自然であり、幼稚ではなかろうか。

■累次のPKOで見た厳格な文民統制

 自衛隊の海外派遣が始まって23年が経過した。カンボジアに派遣された部隊の任務は「道路や橋梁の修復等」であり、移動途中に負傷者がいても「任務に無い」というので救助してやれなかった。

 その後、現地が大洪水に見舞われ、応急復旧のための資材運搬を州知事から要請されるが、「輸送」は任務にないとうことで断る以外になく、派遣隊員たちをして「我々は何の為に、誰のために来たのか」と悔しがらせたこともしばしばあったと仄聞した。

 他の海外派遣でも、深い穴に落ちた子供の救助に手出しができないなど、「与えられた任務」からはみ出すということで、能力を有しながらも、手出しできず、悔しさだけが積み重なっていたと聞いた。

 現地指揮官には「助けたい」「支援したい」という強力な願望があっても、手出しをすれば、昵懇であった記者などに「任務違反」で報告しますよと言われて は、二進も三進もできない。現に依頼された簡単なことをやったばかりに、命令違反として問題化したことも報告されている。

 現地にやって来た国連の関係職員が宿泊や給食を依頼してきたときも、上級司令部に問い合わせ、さらに陸上幕僚監部が政府や国連の関係部署と調整するなど、自衛隊は法令に厳格に従うことを学んできたし、実行してきた。

 自衛隊の海外活動は平和維持や人道復興支援、災害救助などであり、混乱を助長したり、紛争に仕立て拡大するためではない。しかし、付与された目的への過 程において、人命救助や輸送支援などがあっても任務の許容範囲と解する柔軟性がなければ、派遣隊員の士気にも影響を与える。

■ポジリストでは、自衛隊は能力を発揮できない

 今回の安保法案審議に於いて、ほとんど議論されることはなかったが、行動の制約をなるべく受けないように留意した答弁をしていたように感得した。従来の「○○はやってよい」という任務付与方式では自衛隊が十分に期待に応えられなかったという反省があったからに違いない。

 例えば、ホルムズ海峡の機雷除去を列挙したとすれば、それは典型的なポジリスト方式である。日本の輸送路が絶たれ、日本の存立危機事態が起きるのは、何もホルムズ海峡の機雷だけとは限らない。どこで、何が発生するかなど、あらかじめ分かったものではないからである。

 もちろんシミュレーションや演習などで、かなり現実に近い想定を立てることは、誰もが行ってきたことであろうが、現実にはそうした想定にない裏をかく、いわゆる「想定外」が故意にも偶然にも頻出することになる。

 現地指揮官が臨機応変に対応するとしても、指揮官には想定内のことしか許されていなければ任務達成はできないし、挙句、自分たちの存続さえ危殆に瀕することに成り兼ねない。

 こうした観点から、軍隊への命令付与は、日本を除くすべてが「xxはやってはいけない」というネガティブ方式で行われている。「xx」は人道に悖(もと)ることや国際条約・国際慣習法に反するようなことであり、指揮官は持てる力を存分に発揮することができる。

 これまでの「○○はやっていい」という形の任務付与方式では、問題があり過ぎたことを縷々説明した。雁字搦めの任務付与は派遣部隊の柔軟性を奪う。部隊の行動には「想定外」が付き物である。

 今次の安保法制は、例えば「自衛隊の任務」では、従来あった「直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛する」から「直接侵略及び間接侵略に対し」が削除され、直接・間接侵略以外の事象、例えばテロなどに対しても対処する柔軟性を持たせている。

 このように、「直接侵略及び間接侵略に対し」を削除しポジリストでないようにしたことから、自衛隊の任務は当然多様化するが、迅速に対処する態勢をとることができるようになる。

 この意味で、今次の安保法制はネガリスト方式への一里塚とも見ることができよう。

■おわりに

 戦後の日本には、統帥権の独立のようなものは一切ない。それにもかかわらず、自衛隊の独走を恐れるあまり、自衛隊が軍事的合理性を以って独自に決めれば いいことまで、シビリアン・コントロールの名で決め過ぎてきた。そうした典型が、携行する機関銃が1丁か2丁かなどであった。

 もっとすごいのは、国の安全を守り、国民の安心を担保しようとする自衛隊を憲法違反とさえ断じる憲法学者が多数いることである。

 戦前であれば、文句なしに若手将校たちが立ち上がり、「怪しからん連中だ」とか、「国を守る組織の名誉を踏みにじるのも甚だしい」などと称して、「総括」されかねないであろう。

 しかし、戦後の日本では心配無用である。シビリアン・コントロールが利き過ぎた民主主義国家である。「税金泥棒」などと悪態をつかれても、しっかりシビリアン・コントロールに従ってきた自衛隊である。

 このように根づいたシビリアン・コントロールがあたかも有効でないかのように、民主党は「自衛隊の暴走」を言い募った。野党議員たちが自らシビリアン・コントロールを信頼せず、蔑ろにする「狂気」の集団に化しつつあることではないだろうか。



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