最近こんな出来事があった。
県道に対して斜め30度くらいの角度で横切っている細い市道を走っていると、その交差点の信号は赤。
僕の前を走っていた車は右側に寄って、停車した。ウインカーが出ていないので、直進か右折をするだろうと思い、左折をするためにウインカーを出して、停止している車の横に停車し、信号が変わるのを待った。
信号が変わり、ジワっと発信しようとすると、横の車が突然クラクションを鳴らした。
何事かと思い横を見ると、隣の車の左折ウインカーが付いていて、一旦停止し、運転席を見ると、ドライバーは東南アジア系の人で、「なにやってるんだ」という、両手を肩の上まで上げるジェスチャーをした。
その交差点の細い市道側には、右折と、直進と左折の為のレーン分けラインがないので、彼の気持ちも分からないでもないが、日本の交通ルールでは、左折する際には「指示器を出す」「左側に車を寄せる」がルール。
もし、彼が日本人なら、説明のしようもあるが、明らかに日本人ではないし、言語も違うので、無免許なのか、取得はしたが日本の交通法規を忘れてしまって運転しているのか分からない。
僕に非があると言わんばかりのジェスチャーを向けられ、戸惑ったが、後ろからも車が来ていたので、彼が右からかぶせてこない事を確かめてから、ゆっくりと発車した。
もし、あおられてきたら、あらゆる手段を講じて説明せねばなるまいと考えを巡らせていたが、バックミラーを見ると、車間距離をどんどん開けてゆき、いつの間にかいなくなっていた。
しばらくもやもやしていたが、ジェスチャーをされた瞬間に沸き起こった感情を思い出した。それは、
「ルールが守れないなら自国に帰れ!」だった。
冷静になって、思い返してみて、「ちょっとひどい感情だったな」と思った。
そして、なぜ、この感情がわいたのか、いろいろと考えてみた。
まず、他者が基本的なルールを守らないことで、迷惑を被ってしまうと嫌な気持ちになる。
それは、どんな国籍の人だろうと関係がない。
このケースにおいて、もし僕が短気で、暴力を厭わない人だったら、即座に車から降りて、後ろの車などお構いなしに、怒鳴り散らすだろう。
そして、その対象者が、同じ言語を母国語とする人であったら、その行為に非がある事を認めさせ、謝罪させるか、喧嘩になって警察のお世話になるであろう。
もし、対象者の使用言語が異なれば、コミュニケーションが取れず、ストレスフルな状況に陥り、暴力での解決をしようとするのではないか。
さらに、相手も短気で彼の文化が、「目には目を歯には歯を」という共通認識のある国の人であったら、いきなりナイフを持ち出すかもしれない。
あくまで、妄想であるがなぜそうなってしまうのだろうか。
短気という気質は個人的な問題なので、要因から外して考えるとすれば、言語の違いや文化の違いのために、互いの間に齟齬が生まれ、その事により強いストレスや危機を感じ、遂には異質と感じる者を排除したいという気持ちが生まれるのではないだろうかと思った。
互いに理解し合うためには、互いにストレスを共有し、互いに譲歩する必要があるため、理解し合うのには長い時間を要する。
そこに、なにかしらの価値を見出すことができなければ、暴力に訴え、排除するという行為を選択するのではないだろうか。
少し話は変わるが、SNS上では、自分の正義を振りかざし一方的に非難する言葉が山のように見受けられる。
まったく自分に関係のない事柄においても、口を出し罵る人がいるが、SNSは最初から「距離」のあるものなのだから、相手の言い分を理解する時間もあるはずであるし、言葉を選ぶ時間もあるはずである。
その距離感が保たれているにもかかわらず、一定数の人が、その考えに至らないのは、文字と映像で構成されている、小さな画面に映し出される情報であっても、自ら齟齬とストレスと危機感を生じさせ、耐えられなくなり、攻撃的になるのではないかと思う。
県道に対して斜め30度くらいの角度で横切っている細い市道を走っていると、その交差点の信号は赤。
僕の前を走っていた車は右側に寄って、停車した。ウインカーが出ていないので、直進か右折をするだろうと思い、左折をするためにウインカーを出して、停止している車の横に停車し、信号が変わるのを待った。
信号が変わり、ジワっと発信しようとすると、横の車が突然クラクションを鳴らした。
何事かと思い横を見ると、隣の車の左折ウインカーが付いていて、一旦停止し、運転席を見ると、ドライバーは東南アジア系の人で、「なにやってるんだ」という、両手を肩の上まで上げるジェスチャーをした。
その交差点の細い市道側には、右折と、直進と左折の為のレーン分けラインがないので、彼の気持ちも分からないでもないが、日本の交通ルールでは、左折する際には「指示器を出す」「左側に車を寄せる」がルール。
もし、彼が日本人なら、説明のしようもあるが、明らかに日本人ではないし、言語も違うので、無免許なのか、取得はしたが日本の交通法規を忘れてしまって運転しているのか分からない。
僕に非があると言わんばかりのジェスチャーを向けられ、戸惑ったが、後ろからも車が来ていたので、彼が右からかぶせてこない事を確かめてから、ゆっくりと発車した。
もし、あおられてきたら、あらゆる手段を講じて説明せねばなるまいと考えを巡らせていたが、バックミラーを見ると、車間距離をどんどん開けてゆき、いつの間にかいなくなっていた。
しばらくもやもやしていたが、ジェスチャーをされた瞬間に沸き起こった感情を思い出した。それは、
「ルールが守れないなら自国に帰れ!」だった。
冷静になって、思い返してみて、「ちょっとひどい感情だったな」と思った。
そして、なぜ、この感情がわいたのか、いろいろと考えてみた。
まず、他者が基本的なルールを守らないことで、迷惑を被ってしまうと嫌な気持ちになる。
それは、どんな国籍の人だろうと関係がない。
このケースにおいて、もし僕が短気で、暴力を厭わない人だったら、即座に車から降りて、後ろの車などお構いなしに、怒鳴り散らすだろう。
そして、その対象者が、同じ言語を母国語とする人であったら、その行為に非がある事を認めさせ、謝罪させるか、喧嘩になって警察のお世話になるであろう。
もし、対象者の使用言語が異なれば、コミュニケーションが取れず、ストレスフルな状況に陥り、暴力での解決をしようとするのではないか。
さらに、相手も短気で彼の文化が、「目には目を歯には歯を」という共通認識のある国の人であったら、いきなりナイフを持ち出すかもしれない。
あくまで、妄想であるがなぜそうなってしまうのだろうか。
短気という気質は個人的な問題なので、要因から外して考えるとすれば、言語の違いや文化の違いのために、互いの間に齟齬が生まれ、その事により強いストレスや危機を感じ、遂には異質と感じる者を排除したいという気持ちが生まれるのではないだろうかと思った。
互いに理解し合うためには、互いにストレスを共有し、互いに譲歩する必要があるため、理解し合うのには長い時間を要する。
そこに、なにかしらの価値を見出すことができなければ、暴力に訴え、排除するという行為を選択するのではないだろうか。
少し話は変わるが、SNS上では、自分の正義を振りかざし一方的に非難する言葉が山のように見受けられる。
まったく自分に関係のない事柄においても、口を出し罵る人がいるが、SNSは最初から「距離」のあるものなのだから、相手の言い分を理解する時間もあるはずであるし、言葉を選ぶ時間もあるはずである。
その距離感が保たれているにもかかわらず、一定数の人が、その考えに至らないのは、文字と映像で構成されている、小さな画面に映し出される情報であっても、自ら齟齬とストレスと危機感を生じさせ、耐えられなくなり、攻撃的になるのではないかと思う。
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