硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

主は、共に歩まれているはずなのに。

2022-10-08 17:32:38 | 日記
信者2世だった女性が同じ境遇で苦しんでいる人を助けたいという思いで話されているニュースを観て、やるせない気持ちになった。

彼女は自らの意志で信仰したわけではないのに、ご両親はなぜ、彼女を精神的に追い込んだのだろうか。
ご両親はなぜ、不明瞭であるにもかかわらず、主からメッセージを受け取ったと主張する人の言葉を信じて疑わないのだろうか。

彼女の両親の信仰の救い主がイエス・キリストなら、経典は「聖書」であろう。

ならば、黙示録 22・18-19にある、

私は、この書の預言のことばを聞くすべてのものにあかしする。もし、これにつけ加える者あれば、神は、この書に書いてある災害をその人に加えられる。
また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受け取る分を取り除かれる。

の、御言葉はどうなってしまうのであろうか。

ヨハネ伝には、こう記されている。

初めに、言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。

それでも、信仰するものが違うのだと思われるならば、主はなぜ十字架にかけられる事を受け入れられたのか、考えてほしいと思う。

そして、彼女にこそ、神のご加護がありますように。