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オークランド通信

のんびりしたお国柄が気に入りニュージーランド在住27年。仕事、子育て、生活全版にわたって語ります。

その27 マオリクイーンの葬儀 08-09-06

2007-08-15 09:54:20 | 第21-30回
その27 マオリクイーンの葬儀


8月15日、マオリクイーン、Dame Te Atairangikaahu(デイム・テ・アタイラ
ンギカアフ)が、長年の病の末、75歳で亡くなった。

Dame Te Atairangikaahu は、Waikato地方を拠点とする Tainui部族のリーダ
ーである。
Tainui のリーダーは、ニュージーランドマオリのKing又は Queenとされる。
Queen は、正式には政治的な権威はなく、象徴的な存在である。しかしなから、
イギリス政府とマオリ人の間に交わされたTreaty of Waitangi条約の解決策の
話し合いに大いに貢献した。
マオリと1800年代の入植したイギリスを中心とするヨーロッパ人との争い、“ニュージーランド市民戦争”とも呼ばれるマオリ土地戦争が各地で勃発した。
Treaty of Waitangi条約は、その解決策として定められた。

ニュージーランドマオリの” Kingitanga(King) movement”は、1858年に
始まる。
Tainui族のPotatau Te Wherowheroが、第一代の王である。
Dame Te Atairangikaahuは6代目にあたる。1966年に、クイーンの父King
Koriki没後、マオリの部族が集まり、長女であるTe Atairangikaahuをマオリ
クイーンに指名した。

今回、Dame Te Atairangikaahuの後を長男のTuheitua Paki(51歳)が継ぎ
7代目となった。
Tuheitua Paki氏 は、地元HantlyでTainui Clutural Adviser として
Te Wananga O Aotearoa(マオリの教育機関)で働いている。
キングになった為、公務に専念するためこの職から退くものとされている。
今回はTainui部族内でのみ王位継承を話し合いが持たれたため、不満を漏らす
部族の長もいた。


Dame Te Atairangikaahuは、部族間での亀裂など、マオリ族内の問題の解決に
務めるなど、マオリ統一に向けて助力し数々の功績を立て、族内からの信望も
厚かった。
今年5月には、在位40年を祝う式典を終えたばかりだった。
在位40年というのは、マオリが王を選出するようになって以来、在位期間は最
長であった。


彼女の住んでいたNaruawahia(ナルアワヒア)という町にある、Turangawaewae
Marae(トゥランガワエワエ・マラエ)というマオリの集会場があり、ご遺体
はそこに安置されていた。
Dame Te Atairangikaahu の葬儀は1週間続き、ヘレン・クラーク首相を始めと
する歴代の首相達も弔問に訪れた。
イギリスのエリザベス女王からのメッセージも届いた。
政府機関には半旗が掲げられ、Tainui族ばかりでなく、他部族も弔問に訪れた。
彼女はその人柄から多くの人々に慕われ、一般市民も最後のお別れにマラエ
を訪れた。
連日一万人以上の弔問客が訪れ、月曜の葬儀までに10万人以上が参加した。


弔問に訪れる人は黒い服を着て、年配のマオリ婦人はつたなどのグリーン
でつくった花輪を頭につけている。
グリーンの種類は各部族で異なり、シンボルマークのようになっている。

葬儀では、豚、じゃがいも、サツマイモなどのHangi(ハンギ)蒸し焼きがだれ
にでも振舞われる。
この近世の歴史的ともいえる壮大な葬儀のために、特別なダイニングチームが
作られ、地方から野菜、肉のKoha(寄付)が多く寄せられ、マラエのキッチン
はフル回転であったそうだ。
ふだんからマラエでは数千人の単位でのケータリングがされているが、今回は
桁外れの規模であった。


葬儀のクライマックスは8月21日に、マオリクリーンの棺は、Turangawaewae 
MaraeからハントリーのTaipiri Mountainの麓までWaka(カヌー)でワイカト川
を下っていった。
Taipiri MountainはTainui族の墓地である。マオリの歴代の王達もここに眠
っている。
知り合いのマオリ人とここを通ると、彼らは車を泊め、祖先に敬意を表して黙
祷する。

この日は、混乱をさけるため国道1号線が10時から4時まで閉鎖された。
弔問の人々は行けるところまで車で行き、その後は徒歩でマラエまで向った。

ニュージーランドの先住民族はマオリ族という狩猟民族で、ニュージーランド
の全人口の15%ほどである。
マオリ族は今から1000年ほど前、クック諸島周辺から移住したのではない
かというのが一般的な説である。
マオリ人たちはハワイキ、ハワイヌイ、ハワイキロア、ハワイキパママオとい
た伝説上の故郷からやって来たとする。マオリ人たちは、死んだらハワイキに
行くと信じているので、ハワイキは事実上の土地ではないかもしれない。
現在のマオリ族の各部族はその時やってきたワカ(カヌー)までさかのぼるこ
とができるとされている。
マオリクイーンの祖先のワカはTainuiである。


私は1993年から1998年まで6年間、Tainuiの関連組織で働いたこともあり、マオリクイーンの死がとても身近なものと感じられた。
ニュージーランドへやって来て最初の職場で親切でしてもらったことが忘れた
れない。

その当時、私は、Tainui 関連の催しの花の装飾を何度かまかされた。
10年ほど前、Hamiltonで Air Force Baseで式典のステージで花を活けてい
た。その時、上品なマオリ婦人がちょっと覗きに来て、しばらく私の仕事振り
を眺めておられた。
彼女が去った後、アシスタントの青年が、あれはマオリクイーンだと教えてく
れた。
その後、私のボスとマオリクイーンが親戚であったこともあり、クイーンのご
自宅用に造花やドライフラワーのアレンジメントを何度かお作りした。


Taipiri Mountain には、忘れられない思い出がある。
あれから13年もたった。13年前の今頃、9月のはじめ、ラッパ水仙、桜が咲き
やっと春が来たんだと浮かれた気分でいた。
そこに突然の訃報。私のボスの娘が自殺したという。当時、ボスの娘は12歳。
うちの娘と同い年であった。
自宅の納屋で父親の猟銃で、自らの命をたったのだ。忙しい両親に代わって、
弟たちの面倒をよく見、勉強のよくできるボス自慢の娘だった。ボスは“日本
語で一番の成績をとったのよ”と喜んでいた。
誰もなぜ彼女が自殺したのか、理解できなかった。“なぜ、なぜ”と繰り返して
も、誰も答えが得られない。
彼女の後を追うように、わずか数千人の小さな町でコピーキャット自殺がはや
った。
その年だけでも、3人のティーンエイジャーが同じ町で自殺した。
どうしてと、親達の疑問、悲しみは深まるばかりであった。

私は、ボスの娘の葬式の花を頼まれた。
12歳の可憐な少女にふさわしく、かわいいアレンジにしてほしいと。
真っ赤なチューリップ、アネモネ、スウィートピー、とマラエにいっべんに春
が訪れたようだった。

娘は、マオリクイーンが眠るのと同じTaipiri Mountain に埋葬された。
ボスの祖先はマオリクイーンと親戚にあたり、Tainuiの高貴な血筋である。

丘の中腹に墓穴が掘られたいた。家族、親戚、友人たちが回りに集まる。
力持ちの男達が、チューリップの載ったやや小さめの娘の棺を、墓穴にゆっく
り下ろしていく。その日は打ってかわって、ワイカト川から冷たい風が吹き上
げていた。
満開の赤いチューリップが風になびいていた。
底に下ろされた棺おけは、春の花におおわれている。参列の人々が一本ずつ花
を投げ込み、娘に最後のお別れの挨拶をする。
そのそばで、私のボスは四つんばいになって、墓穴のふちにしがみつき泣いて
いた。
子供のように、大声で、あたりかまわず、時には吐くように泣いていた。
マオリの女性は、全身の悲しみをおしだすように体全体で泣く。

私は、Taipiri Mountain の脇を通るたび、あの日のことが忘れられない。
マオリクイーンの死も、10万人の弔問客に、ニュージーランド中の人々の悲し
みをさそった。
だか、部族の未来ともいえる娘の死は、悔やまれてならない。
これをマオリの現在の社会問題とひとつとは、捉えられない。
マオリと現代の社会の価値観のギャップ、このような自殺の犠牲者を説明すれ
ばいいのだろうか。

同い年のわが娘は25歳になる。思いやりのある社会人に育ってくれたこと、当
たり前の子供の成長に感謝している。


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