MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

「Take It Back」 Pink Floyd 和訳

2020-01-26 12:08:54 | 洋楽歌詞和訳

Pink Floyd - Take It Back (PULSE Restored & Re-Edited)

 ピンク・フロイドの「テイク・イット・バック」は1994年にリリースされた

『対(The Division Bell)』に収録されている晩年の代表曲である。以下、和訳。

「Take It Back」 Pink Floyd 日本語訳

彼女の愛はそよ風のように僕の上に優しく降り注ぐ
僕は彼女の息使いを聴いている
それは海の波のような音がする
僕は激情や欲望で燃え上がる彼女のことだけを考えていた
僕たちは暗闇の中へ降下していた
地球が燃えていたんだ

彼女ならそれを取り戻せる
彼女ならそれを取り戻せる
いつの日にか

だから僕は彼女を密偵し
彼女に嘘をつき
守れない約束をする
その時僕は深淵から徐々に大きくなる彼女の笑い声を聞き
僕は彼女に僕に対する愛を証明させる
僕はできるだけ全てを手に入れ
彼女が壊れるかどうかの限界まで彼女を押すんだ

彼女ならそれを取り戻せる
彼女ならそれを取り戻せる
いつの日にか

今僕は至る所から警告や金切り声を聞く
それらを無視することは簡単だ
僕が努力をすればいいだけだから
僕が危険を察知できるか高潮の音が聞こえるまで
この誘惑は僕の信条を嘘にまみれさせた

彼女ならそれを取り戻せる
彼女ならそれを取り戻せる
いつの日にか

彼女ならそれを取り戻せる
彼女ならそれを取り戻せる
いつの日にか

彼女ならそれを取り戻せる
彼女ならそれを取り戻せる
いつの日にか

PINK FLOYDさん『TAKE IT BACK』の歌詞 テイクイットバック
words by ギルモアサムソンレアードクルウズ
music by ギルモアエズリン
Performed by ピンクフロイド


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「One Slip」 Pink Floyd 和訳

2020-01-26 00:58:07 | 洋楽歌詞和訳

Pink Floyd - One Slip (Live, Delicate Sound Of Thunder) [2019 Remix]

 「ワン・スリップ」はかつて『鬱』という邦題になっていた1987年のアルバム

『モメンタリー・ラプス・オブ・リーズン(A Momentary Lapse of Reason)』からシングルカット

された曲で、この曲の中にタイトルが使われている。以下、和訳。

「One Slip」 Pink Floyd 日本語訳

荒廃した部屋を見渡す落ち着きのない目が
どんよりとした眼差しをさせながら
僕は堕落するために放浪していた
音楽は鳴り続け
僕たちは終わりなく旋回しながら踊っていた
ヒントも言葉もないまま
彼女は面目にかけて守らなければならない

僕はするつもりだけれど
彼女は僕の願いにため息をついた
僕の決心が試され欲望に溺れ僕たちの魂が炎に包まれた時
彼女は彼女の名前を口にした
僕は火葬用の薪まで導かれ
成り行きを考えることもなく
僕は退廃へ陥った

一度の過ちで
僕たちは穴へ落ち込んだ
全く時間が取れない感じだった
一時的に理性を失い
人生に人生が束縛される
微かな後悔を君は忘れられず
今夜ここでは眠れないだろう

あれは愛だったのか?
それとも愛しているという概念だったのか?
それとも手袋とぴったりフィットしそうな運命の手だったのか?
時が踏み外せばすぐに種は蒔かれた
年月の流れは遅く誰もが一人でいたくはなかった

一度の過ちで
僕たちは穴へ落ち込んだ
全く時間が取れない感じだった
一時的に理性を失い
人生に人生が束縛される
微かな後悔を君は忘れられず
今夜ここでは眠れないだろう

一度の過ちで
僕たちは穴へ落ち込んだ
全く時間が取れない感じだった
一時的に理性を失い
人生に人生が束縛される
微かな後悔を君は忘れられず
今夜ここでは眠れないだろう

PINK FLOYDさん『ONE SLIP』の歌詞 ワンスリップ
words by ギルモア
music by ギルモアマンザネラ
Performed by ピンクフロイド


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シニェイ・メルシェ・パールの作風について

2020-01-25 12:45:39 | 美術

 現在、六本木の国立新美術館で催されている『ブダペスト ヨーロッパとハンガリーの美術400年』ではポスターにも掲載されているシニェイ・メルシェ・パール(Szinyei Merse Pál)の『紫のドレスの婦人(Lady in Violet)』(1874年)を観ることができる。
 時代背景を勘案するならばパールは印象派の画家と見なされる。確かに補色を駆使した色鮮やかな画風は印象派の特徴ではあるのだが、例えば、下の作品のように、パールはリアリズムに徹しており、フランスの印象派よりもモダンアートに近いように見える。この画力で保守層から批判されたというのだから、へそを曲げて美術の世界からいったん姿を消した理由も理解できる。


(『ひばり(The Skylark)』 1882年)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『坂田一男 捲土重来』

2020-01-25 00:53:53 | 美術

 現在、東京ステーションギャラリーで催されている『坂田一男 捲土重来』は岡崎乾二郎監修によるものである。日本における唯一のキュビスムの画家と言ってもいいのだが、画壇から距離を置いて岡山県で活動していたために人口に膾炙していないのである。
 1921年にフランスに渡った坂田はフェルナン・レジェ(Fernand Léger)に師事しており、だから坂田のスタイルもキュビスムを継承しているのである。


(『コンパス』1949年)

 しかしレジェがポップな作風に移行していったことに対して、坂田の作風は暗くなっていくのだが、坂田はオトン・フリエス(Achille-Émile Othon Friesz)にも師事しており、つまり坂田の作風はキュビスムから日本画風のフォーヴィスムへと変化しているように見えるのである。


(『力学的構成』1956年)

 しかし坂田のほとんどの作品には制作年が記されておらず、どのように変化を遂げたのかよく分からない。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「Bring on The Dancing Horses」 Echo & the Bunnymen 和訳

2020-01-24 12:07:19 | 洋楽歌詞和訳

Echo and the Bunnymen - Bring on The Dancing Horses (Official Music Video)

 エコー・アンド・ザ・バニーメンの「ブリング・オン・ザ・ダンシング・ホーセズ」は

「キリング・ムーン(The Killing Moon)」と並ぶ名曲だと思う。以下、和訳。

「Bring on The Dancing Horses」 Echo and the Bunnymen 日本語訳

アメリカのミュージシャンのジミー・ブラウンの演奏は石にように冷たい
イタリア出身のコメディアンのチャーリー・カイロ―リには帰る家がない
血気盛んな馬たちを連れてこよう
首の無い馬たちは独立自尊で
身震いしながら
君たちが聞いたことがある全ての嘘を口にする

万物がばらばらになるまで
僕は作っては壊すことにする
全ての偽造や恐喝を嫌いながら
僕は君の脆い心を壊している

ビリーは一人で佇みながら
皮膚や骨が砂に沈み込んでいる
血気盛んな馬たちを連れてこよう
どこでも彼らは放浪するだろう
身震いしながら
君たちが聞いたことがある全ての嘘を口にする

万物がばらばらになるまで
僕は作っては壊すことにする
全ての偽造や恐喝を嫌いながら
僕は君の脆い心を壊している

脆い心と僕の小さな心は突き進む

アメリカのミュージシャンのジミー・ブラウンの演奏は石にように冷たい
イタリア出身のコメディアンのチャーリー・カイロ―リには帰る家がない
頭部のない馬たちを連れてこよう
どこでも彼らは放浪するだろう
身震いしながら
君たちが聞いたことがある全ての嘘を口にする

万物がばらばらになるまで
僕は作っては壊すことにする
全ての偽造や恐喝を嫌いながら
君は僕の脆い心を壊している

脆い心と僕たちの小さな心は突き進む

新たな救世主を連れてこよう
どこでも彼らは放浪するだろう
新たな救世主を連れてこよう
どこでも彼らは放浪するだろう

新たな救世主を連れてこよう
どこでも彼らは放浪するだろう
新たな救世主を連れてこよう
どこでも彼らは放浪するだろう


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「黒い羊」の末路について

2020-01-24 00:55:14 | 邦楽

欅坂46 『黒い羊』

 思い返してみるならば、欅坂46はデビュー曲「サイレントマジョリティー」からじわじわと真綿で自ら首を絞めていたような感じだった。「黒い羊」がリリースされた時には、この後の曲はどうするのだろうと思った。今まで口にすることを避けていた禁句をタイトルにしてしまったようなものだから、グループはともかく少なくとも平手友梨奈はもう歌うことがなくなってしまったと思う。
 平手だけが脱退という言葉でグループを離れた意味は、既に新曲をリリースする予定が立てられ、平手がセンターになるというフォーメーションも決められた中で、おそらく平手は秋元康が提供してきた楽曲にダメ出しをし続けて、グループの活動を停滞させたことで責任を取ったのだと思う。平手としては良い作品を作ることでファンに対する誠意を示したかったはずで、むしろ楽曲をプロデュースしている秋元康が「平手」というハードルを越えられるほどの力が無くなってきているのではないかと危惧する。その結果、日本のビリー・アイリッシュ(Billie Eilish)と評される「黒い羊」平手友梨奈をグループから追い出したのであるならば本末転倒ではないだろうか?
 去年のNHK紅白が平手センターによる最後の欅坂46のパフォーマンスだったと思うと、改めて「僕は嫌だ!」の悲痛さが伝わって来るのだが、平手が歌いたいような曲というのは下のような曲ではないだろうか。

あいみょん – さよならの今日に【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/sponichi/entertainment/sponichi-spngoo-20200123-0218


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『カイジ ファイナルゲーム』

2020-01-23 12:55:02 | goo映画レビュー

原題:『カイジ ファイナルゲーム』
監督:佐藤東弥
脚本:福本伸行/徳永友一
撮影:小原崇資
出演:藤原竜也/福士蒼汰/関水渚/新田真剣佑/吉田剛太郎/伊武雅刀/天海祐希
2020年/日本

貧富の差をまだエンターテインメントとして描ける余裕について

 『家族を想うとき』(ケン・ローチ監督 2019年)がリアリズムで描かれたことを思えば、エンターテインメントとして貧富の差を描いている日本にはまだ余裕があるのかもしれないが、それはおそらく本作でも描かれているように今年の東京オリンピックまでで、オリンピックが終わった後は本作で描かれているような賭博には参加しないまでも確実に景気は悪くなっていくと思う。
 主人公の伊藤開司を演じた藤原竜也の当たり役だと思うが、それはライバルが藤原と同等のハイテンションで向かってくるからこそ光る訳で、今回もライバルの黒崎義裕を演じた吉田剛太郎が良い味を出している。
 1作や2作に比べてゲームが貧相になっているという指摘もあるが、それだけ景気が悪化していると捉えるならば意外と怖い話なのである。『記憶にございません!』(三谷幸喜監督 2019年)よりもよっぽど政権に対して皮肉が効いていると思う。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『家族を想うとき』

2020-01-23 00:54:00 | goo映画レビュー

原題:『Sorry We Missed You』
監督:ケン・ローチ
脚本:ポール・ラバァティ
撮影:ロビー・ライアン
出演:クリス・ヒッチェンズ/デビー・ハニーウッド/リス・ストーン/ケイティ・プロクター
2019年/イギリス・フランス・ベルギー

世界的な「黄色いペットボトル」問題について

 主人公のリッキー・ターナーはかつて建築関係の仕事に携わっていたのだが、不況により仕事を選ぶことができなくなり、今は宅配ドライバーとして働いているのだが、それは個人事業主として宅配事業者と契約をするというフランチャイズという業務形態で、事業者からのクレームを甘んじて受けなければならなず全ては自己責任で、休みを取る場合には他のドライバーを自分で頼まなければならない。妻のアビーは介護福祉士を生業としており、相手からのクレームを自分で処理しなければならず、とかくサービス残業が増えてしまう。宅配業と介護職は今では最もきつい仕事として知られ、なおかつ2人にはまだ学生の長男のセブと長女のライザ・ジェーンがいるのだから、そのストレスは計り知れない。
 その上、ターナー一家が暮しているイギリスのニューカッスルはインフラも疲弊していて、例えば、荷物を届けにきたアパートのエレベーターが二基ともに故障したりしているのだから、体を酷使せざるを得ないのである。
 最近日本で話題になっているのが路肩に散乱している「黄色いペットボトル」問題で、この問題はリッキーが宅配ドライバーとして働く初日に同僚が「トイレに行く暇さえないから」と言って不審がるリッキーに空のペットボトルを渡しており、もはや世界的な環境問題なのである。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『薔薇の葬列』

2020-01-22 12:58:13 | goo映画レビュー

原題:『薔薇の葬列』
監督:松本俊夫
脚本:松本俊夫
撮影:鈴木達夫
出演:ピーター/土屋嘉男/小笠原修/東恵美子/城よしみ/仲村紘一/芝山幹郎/小松方正
1969年/日本

策を弄した作品について

 『修羅』(1971年)を観た後に本作を観るならば違和感を感じるかもしれない。大島渚に貶されたとしても『修羅』は完全なフィクションであったが、本作は途中で出演者のインタビューが挿入されるなどしてストーリーにのめり込むことができないからである。
 それならば各々のインタビューにそれなりの意味があるのかと思いきや、何故ゲイとして生きるのかという質問に対してありきたりな答えしかなく、監督本人が行なったであろうインタビューに意味を見出すことはできず、唯一面白かったところは、丸山明宏(美輪明宏)のどこが好きなのかと尋ねられたピーターが「整形しているところ」とうっかり(?)口を滑らした部分だけである。
 ソポクレスの『オイディプス王』をモチーフにしているが、主人公がゲイの青年エディであるために、少年の頃に母親と浮気相手の男を殺して、今はゲイバーの経営者の権田と親密なのであるが、ラストシーンは混乱しているように見える。
 権田はエディが持っていた書籍『父帰る』の中に挟まれていた家族写真を見つけて、エディが自分の実の息子であることを知り、浴室で刃物で首を切って自害する。物音に気が付いたエディが浴室を覗いて自殺している権田を発見するのであるが、エディは何故権田が自殺したのかすぐには理解できなかったはずである。ところがエディはすぐに刃物で両目を潰してしまう。
 その後、エディがマンションから外に出て行く様子が描かれるのであるが、それはエディの「視点」を通してなのである。しかしエディは両目を潰しているのだから、この「視点」は存在しないはずである。その上、カメラを担いで撮影したであろうカメラマンの影が映り込んでおり興ざめなのである。
 何故このような中途半端な演出になってしまったのか勘案するならば、既にイタリアの映画監督であるピエル・パオロ・パゾリーニが『アポロンの地獄』(1967年)を公開しており、エディとサングラスをした男が一緒に立っている背後の壁にそのポスターが貼ってある。ボードレールの詩やル・クレジオの小説の引用や池田龍雄の「百仮面」の絵などを駆使しても『アポロンの地獄』に勝てそうになく「外した」ために中途半端な作品になってしまったように個人的には思う。
 ピーターが本作の出演を決めた理由として「きれいに撮ってくれるから」と答えていたが、自ら両目を潰した無惨なラストシーンを見たピーターの感想を訊いてみたいものである。それにこれは間違いないと思うが、絶対に淀川長治のいつもの「挨拶」でラストは終わらせるべきだったと思う。それでなければセンセーショナリズムという誹りを免れないだろう。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『修羅』

2020-01-22 00:48:46 | goo映画レビュー

原題:『修羅』
監督:松本俊夫
脚本:松本俊夫
撮影:鈴木達夫
出演:中村嘉葎雄/三条泰子/唐十郎/今福将雄/田村保/観世栄夫/松本克平/川口敦子
1971年/日本

「修羅場」の描き方について

 本作に関して映画監督の大島渚が1971年11月の『映画批評』で酷評したことを憶えている人はいないと思うので、改めて『映画の変革』(三一書房 1972.3.31)で松本俊夫が発表した反論「大島渚の眼は節穴か」の一部を引用しておきたい。

「松本の源五兵衛に対する見方の基本的な誤りは、源五兵衛がもともと阿呆であること、そして加害者であることを、全然見ていないところにある」「誰が基本的な加害者で、誰が基本的な被害者であるということは、当然存在するのであり、それを正確に定めることこそが、作家の第一の仕事ではないだろうか」「加害者は加害者の、被害者は被害者の論理をそのまま貫くことが、世界のあり方であり」「〈昏い怨念〉を仮託するとすれば、それは、三五郎と小万の夫婦にでなければならなかった」にもかかわらず「松本俊夫はこんな初歩的なことはまったく盲目であるのだから、これはもうお話にならない」
大島がまるで鬼の首でもとったように、『修羅』の致命的欠陥はこれだとばかり強調してみせた批判点は、右(=上)の引用に尽きている。しかしそれにしても、私は大島の了解前提の基本的な誤り、ないしピントはずれのはなはだしさに唖然としないわけにはゆかない。私はもうとうの昔から、一方の加害者(ないし悪玉)を、他方に被害者(ないし善玉)を設定して、その対立と葛藤によって劇を展開させてゆくドラマトゥルギー(物のみかた)にあきたらず、むしろ何が加害(ないし悪)で何が被害(ないし善)かの良識的判断がくずれ、眩暈と恐怖におののきながら、その先に「この世界は何を意味するのか」と問いつめずにはおれなくなる位相にこそ、より今日的な劇をみようとしているからである。(p.259)

 確かに鶴屋南北の歌舞伎狂言『盟三五大切』の原作を忠実に映像化するとするならば、大島の意見はもっともではあるが、松本俊夫の意図は「修羅」というタイトルにもあるように、ストーリーよりも修羅場そのものの極限を極めたものであり、例えば、源五兵衛が小万に自分の刀を持たせて小万の赤ん坊の頭を突き刺す場面など、凄惨過ぎて逆に笑えてくるところなどが見どころだと言えるのである。映画に対するスタンスの違いといったところだろうか。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする