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壊れゆくブレイン(59)

2012年04月26日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(59)

 そして、社長が亡くなった。彼は、ずっと働き続けたひとだった。ただ、いつものように起きてこない夫を妻が心配し部屋に入ると、意識はなくなっていたらしい。常に慌ただしい彼にとって、不釣合いな幕切れだった。

 ぼくらには、こうしたことに対する準備はなく、ただその状況の対処に追われるだけだった。

 その夜に、ぼくは息子であるラグビー部の先輩だった上田さんと妻である智美と会った。お互い、黒い服を着て、ぼくらはこうした機会にしか会わなくなる自分たちのつながりを悲しいことのように思っている。上田さんは憔悴していた。誰でもがそうだろう。彼は、奥のほうに座りうつむいていた。実際の段取りは会社の面々がしていた。彼はただ失ったものと対峙していた。

 夜も更け、ひとはまばらになる。ぼくは彼ら親子ととても親密にしていた。それで帰るということ自体忘れてしまったようにそこにいた。横にいた智美が口を開く。
「ひろしが、奥さんを失ったときの気持ちが、ほんとうは分かっていなかったのかもしれない。わたしも、彼も」
「なんだよ、今更、急に」
「どんな慰めの言葉も、そのひとを連れ戻してはくれない」上田さんが言った。「オレは大人になってから、親父とあまり時間を作ることに対して努力をしなかった。割けなかった時間を。それをいまは後悔している」
「みんな、それぞれの場所で働いているし」

「お前の方が、ある時から、オレの親父のことを知っている」
「いっしょに働いていたし、ぼくを可愛がってくれましたから。若いときから、目をかけてくれました」
「ありがとう。どう転がるか分からない会社にも賭けてくれた。お前の先を見通す能力は、この面では間違っていなかった」
「その場、その場でたくさんの間違いも繰り返しましたけど」
「許される範囲での間違いだろう? オレは、自分の親の会社にも無関心だった」
「上田さんは、もっと別の方面で能力があったから」
「いまは、すべて言い訳に思える」
「時間がかかりますよ」
「お前は、まだ裕紀ちゃんのことを思い出す?」
「もちろん、たまに一日の間、思い出さない日があって、翌日、罪悪感に駆られます」
「なんで? どうして?」智美が誠実な目をして疑問を挟む。
「ぼくや、彼女の叔母が裕紀のことを忘れてしまったら、一体、誰が彼女が生きていたことを示す証拠を握っているだろうって・・・」

「わたしも、覚えているよ」
「ありがとう。ずっと、覚えていて」ぼくは太古の壁画のようなものを脳裏に浮かべる。誰かが発見するまで、それはそこに存在する。しかし、誰かの目と手と懐中電灯でもって照らさなければ、そこにはないのだ。「きょうは、でも、社長の思い出を語り明かそう」ぼくは、大切なひとびとを失い続けるのだ。記憶ぐらいは自分のものでありつづけたい。そこに、ぼくの携帯電話が鳴る。雪代だった。

「大変だね。帰れそう? あまり、深く考え込まないでね」ぼくは前妻の死から立ち直る方法を知らなかった。ある場所で酔いつぶれ、絡んだ末、雪代に頬をなぐられた。それから、ぼくらは広美を加え、二人三脚のようにすすんできた。あのときの状況に戻るのが恐かった。だが、自分の償いとしては、あの方法しかなかったとも思っている。悲しみから簡単に立ち直れる人間なんか糞喰らえとも思っていた。

「お前、取り敢えずは帰れよ。あのときのようなお前になってもらうとまた困るから。それに、困るひとも増えたから」ぼくは悲しく相槌を打ち、そこを出た。ひっそりとした空はいつものような継続ということしか考えていないようだった。ぼくは自分の悲しみを正当化して何人かの女性とその場だけの関係をもった。失った女性の悲しみのため、その身体を代用として利用した。多分、上田さんはそのような卑怯な真似をしないのだろう。父親と妻という違いもあった。だが、ぼくは瞬く星を見ながら、自分のそのずるさが暴かれるような気持ちを内包していた。

 そこには、ゆり江の優しさがあり、上田さんの会社の後輩の笠原さんの温もりがあった。でも、ぼくはそんなことより裕紀を取り戻したかったのだ。
「大丈夫?」玄関の扉を開けると広美がいた。
「まだ、起きてたの? 大丈夫だよ」
「広美もわたしも心配していた」
「大丈夫だよ」ぼくは、それしか言わない。
「前のこともあるし・・・」
「あのときを経験して、ぼくはいろいろずるく対処することを覚えたんだ」
「そんなに器用な生き方、できないのに・・・」
「広美、寝なよ」ぼくは、話を反らすようにそう言った。

「分かってる。もう、子どもじゃないよ」彼女は自分の部屋の戸を閉めた。彼女も自分の本当の父を若くして失い、その父の親しかった母、彼女にとって祖母である女性もこの前に亡くした。そのときの悲しみもぼくの範疇外にあるようだった。つまりは、自分の周辺の悲しみに追われることだけで精一杯であり、誰しも利己的に思えてきた。

 ぼくは、シャワーを浴び、ベッドに入った。子どものように雪代にくるまれ、ぼくは泣いた。裕紀を失ったときにぼくはひとりで寝ることになった自分の境遇を思い出していた。自分の身体は、彼女が冬になって冷たくなった足に触れることもできず、小さな寝息を感じることもできないでいた。そのような状況で目だけが冴え、思い出を繰り返しページをめくるように頭のなかで何度も往き来させていたあの夜が、なぜだかとても懐かしかった。


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