爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

壊れゆくブレイン(55)

2012年04月15日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(55)

 ぼくは仕事で東京に行く。最近では裕紀の叔母と時間があえば会うようになっていた。お互い、共通点をなくしながら、そのことを懸命に捨てないで置こうという意地のようなものもあったが、それは表には出ずさらっとした関係でもあった。

 月日は過ぎ去り、ぼくらはこの瞬間だけは未来を作り出さないようにしたが、実際は亀裂のあるビルのように隙間をとおって現実という雨粒は染み込んできた。

「家族とはどう?」
「ええ、うまく行ってます」
「写真とか持っているの?」
「ありますよ」
「見てもいい?」ぼくは財布から一枚の写真を取り出して、それを手渡した。「女の子、大きくなったのね?」
「でも、友だちが東京に引っ越してしまって、子どもみたいに泣いてました」
「可愛らしい」ぼくは引っ越した子の住所がどのあたりであったかを考えていた。でも、それは仕舞われたタンスの奥の衣類のように容易には見つからなかった。
「裕紀とぼくが最初に会ったのも、それぐらいの年齢です」
「会うべくして会った?」

「さあ、どうなんでしょう。結局、結婚したぐらいですから、そうとも言えますね」

 それから、彼女は自分の夫との長い結婚生活の話をした。起伏があり、紆余曲折があり、最終的には信頼があった。ぼくらはスタートで挫折し、それからエンジンが停まったレーシング・カーのようにリタイアした。とても短く、ぼくは建設途中で頓挫した橋のようなものを思い浮かべる。それは、向う側の岸まで誰も運ばないし渡らない。それには、もう少しの時間が必要だったのだ。それでも、夕焼けに映える鉄骨の群れのように断片的な思い出はそれゆえに美しいものでもあった。

「彼女もひろしさんのようなひとが見つかるといいのにね」写真の中の少女を見て、彼女は言った。そして、それをぼくの手の平に再度のせた。
「ほんとうですか?」
「ほんとうよ。ゆうちゃんは幸せそうだった」
「でも、ぼくは家族と疎外させ、板ばさみにさせた張本人でもあるんですよ」
「そんなことは重要じゃないでしょう。本人にとって。別に悩んでいたり、困ったようにも見えなかった。実際に結婚するときも、そのことを念頭において決断したわけでもないし」
「だと、いいんですけど」ぼくは自分の発した言葉の意味が分からないまま、ただそう言った。

「お仕事は順調?」
「そこそこです。こういう景気になったので、あまり無理な期待もできなくなりましたけど」
「東京にも友人がいるんでしょう?」
「何人かは。その何人かには会って、あとの何人かは足が遠退いている」
「ゆうちゃんの友だちもいた」
「智美というぼくの幼馴染みもいました。昨日、ひさびさに会いましたけど」
「そうなの」

「ぼくは裕紀を傷つけたことがあるんです。さっきの写真の妻と交際するために、裕紀と別れました。そのときにその友だちはぼくのことをずっと許さなかった」
「知ってる。ひろしさんも肩身の狭い思いをしたのね」
「自分が撒いた種ですから」
「いまは仲直りを?」
「もうずっと以前に。そんなに長い間誰かを憎んだり、恨んだりできない性分みたいですから。裕紀はそれに比べて当事者でありながら、まったくそういう感情をもっていないひとでした」
「稀有な子」
「そうですね」ぼくらはいないひとの話を続けていた。現実の世界には存在しないものだが、両者の頭のなかでは絶えず息をして、ぼくらを楽しませたり、いないことで困惑させたりもした。
「夕方の足って、なんで浮腫むのかしらね」叔母は独り言のようにつぶやいた。「そろそろ、帰らないと。これから電車なんでしょう?」ぼくは腕時計のふたつの針を確かめる。それは重ならないところにあった。ぼくと裕紀も重ならない世界にそれぞれがいた。
「そろそろ準備をしないと」
「あまり混んでいなくて、ゆっくりと車内でも足が伸ばせるといいのにね。寛いで、ビールでも飲んで」

「そうですね。でも、この時間、そういう余裕もないんですよ」彼女は自分の足のことにこだわっていた。そして、レシートをつかみレジの方まで歩いて行った。ぼくは彼女の背丈がすこしだけ縮んだような印象をもった。もし、彼女もいなくなれば、この世界はまた裕紀の思い出を減らしていくのだとぼくは考える。彼女の知り合いだったひとを掻き集めて、ぼくはデータの収集をするように裕紀の送り続けた優しさをまとめたかった。無論、そんなことは無理な願いだった。それにもちろんぼくの記憶を持続させるのにも限度があるのだろう。伝承する人間や跡取りがいないひとのようにぼくは途方にくれる。それは裕紀だけの問題でもない。この叔母のもつ自然な明るさもいつかは忘れられる運命にあった。

「じゃあ、元気で」彼女は手を振って別れの挨拶をする。この場合、また会いましょうなどという陳腐な言葉はでてこなかった。ぼくらは裕紀の存在を確かめるかのように再びあって証拠を提出し合うのだ。あのとき、彼女はこうした。こんなことで笑ったというような情報を持ち出すことによって。「広美ちゃんは、東京の友だちに会いに来るの?」

「さあ、どうなんでしょう。若い子の気持ちは入れ替わりやすいですから。長い休みでもあれば来るかもしれません」
「でも、ひろしさんはゆうちゃんのことをずっと思ってくれた」それだけで、彼女はぼくの評価を高いものにする。「東京に来るようなことがあったら会ってみたいな」そこに、裕紀の面影を探すように彼女はいう。ぼくに関連するものは裕紀にもつながるのだということのように。

「そうですね」だが、ぼくはそれを切り出すことを難しく感じている。ぼくの前の妻の親類に会う必要が広美にはあるのかと。それを彼女は承知するのか。ぼくは買っておいた特急のチケットを引っ張り出す。ぼくには帰る家があり、健康な身体があった。それを無償で手に入れているのだ。もし、裕紀とやり直すチケットのようなものがあれば、その代価はどれほどのものなのかつまらない予想を電車を待つホームでしていた。