爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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壊れゆくブレイン(51)

2012年04月03日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(51)

 仕事から帰る道すがら、本屋で立ち読みをしていると、学校帰りの広美に会った。となりにいる友人はまた見知らぬ顔だった。それで、ぼくは思春期の女性の気持ちを考慮して、声をかけるのをためらった。しかし、ぼくがレジを済ませようとしていると、横に本がそっと置かれた。

「これも買って。勉強のだから」広美はそう言って笑った。後方で友人である女性もにこやかな顔をしていた。
「いいけど、ずるいな」
「じゃあね」その子は、店を出ると足早に去っていった。いまにも雨がふりそうな予感がしたが、その日は昼からずっとそのような予感を秘めていた。
「見ない子だね」
「新しく仲良くなった。きれいな子でしょう?」
「そうだね。同じバスケ部なのかな、背も高いし」
「違うよ。演劇をしている」
「演劇なんていうのもあるんだ、学校?」
「いまは、いろいろ」
「自分の手足をつかって、何かを表現するのには変わらないけどね」

「ひろし君は、何人かを好きになったことがあるでしょう?」
「どうしたの、突然」
「ただの質問。帰るまでの」
「あるよ、当然。知っての通り、再婚でもあるしね」
「ママや、前のひと以外にも好きなひとっていたんでしょう?」こういう質問のやり取りができるのは、逆に本当の親子ではないからかもしれない。
「いたかな、いたな。また、なんで」
「みんな、どうやって、ひとりに決めたんだろうかなって」
「誰かが、そういう心配をしてるの?」
「さっきの子が、何人かから声をかけられた」
「それで」
「そう、それで」
「でも、このひとじゃなきゃ駄目だというひとが出てくるまで待ったほうがいいよ」
「待ち続ける」

「そんなに待たないよ。若いこころは・・・」ぼくは何人かの女性を頭に浮かべる。彼女らの出現は微妙にずれ、また思いがけないことに重なっている時期も多かった。意に反して。それで、何人かから言い寄られたらしいさっきの女性を考えてみる。彼女は舞台で自分の声を持つ。しかし、それには誰かの脚本があるのだろう。それを通して自分の表現をする。そこに魅力をもつ男の子もいるはずだ。彼はその女性に自分の気持ちを伝える。次の答えは誰かのものではなく、自分の考えしか持ち出してはいけない。
「広美もデートをしたんだろう、この前?」
「したよ。子どもっぽかった」
「どんなところが?」
「全体的に」
「また、会うんだろう?」
「さあ、どうかな。ママとはまた会いたかった? どうしても」
「それが恋の感情だよ。ここにいないかなとか思って、ぼくは街中をあるいていた。その時に、もう雪代は美容院のまえのポスターの写真のなかにいて、ぼくはそれを見つけた」

「嬉しかった?」
「嬉しかったけど、独占という感情からはちょっとずれちゃうね」
「そんな気持ち、ひろし君にもあるんだ?」
「あるよ、普通に」
 家が近付いてきた。そこに雪代がいるはずだ。ぼくは彼女を独占したかったのだろうか? それが出来かねた結果として彼女にはひとりの娘がいた。ぼくはその子と、この会社帰りのひとときをこうして楽しく会話をしながら歩いている。ぼくは、もうひとりの女性である裕紀のことについても考えている。彼女をも独り占めにしたかったのだろうか? 当然、そうだ。それも、病気がそのぼくのこころを踏みにじり安易にそうさせてはくれなかった。ぼくからいとも簡単に全存在を奪ってしまった。
「じゃあ、それを伝えれば?」

「きょう?」
「そう、さっき、あの子の練習を見てから、わたしのこころが少し高揚してるんだね。なにか、誰かに、ものを伝えたいって」
「大人が急にそういうことを持ち出すと、逆に、なにか後ろめたいことがあると勘繰られるんだよ」
「そうなの。面倒くさいね」
「確かに、面倒くさい」
「ママはひろし君に伝える?」
「たまには。広美のことだって、手放しに誉めるじゃない」
「誉めるに値するから」彼女は笑った。それから、本屋からずっと持っていたぼくの荷物を奪い、中から自分のものをとり出した。「ありがとう、これで、勉強する」

「ひとりで、まゆみがいなくても。子ども、あの子、大きくなったかな?」
「今度、写真を送ってもらおう」広美はそう言って玄関のドアを開けた。すると、室内から野菜かなにかを煮込んだ匂いがする。ぼくは、娘と同じ年頃のときのことを考え、また、いまある満ち足りた幸福感のことも考えた。人生はぼくから多くのものを確かに奪い去ってしまったが、また多くのものも与えてくれていたのだ。
「おかえりなさい。あれ、一緒だったの?」
「本屋で会った。それからね、ひろし君、ママに伝えたいことがあるみたいだよ」そう言って、広美は自分の部屋に消えた。
「どうしたの? なにか、あったの?」
 彼女は不安な様子でこちらを見た。ぼくは具体的な解決策を思い浮かべられないひとのようにぼんやりと自分のネクタイを緩めはじめ、どこから説明して良いのか躊躇して、そのネクタイを手の先でもてあそんでいた。