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壊れゆくブレイン(53)

2012年04月09日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(53)

「この前は、見に来てくださってありがとうございます」と、演劇をしている瑠美という子は言った。舞台にたってきつめの化粧をしていれば大人に見えたが、そのままの姿で広美のところに遊びに来た彼女はどうみても10代の半ばの少女だった。

「良かったよ。ぼくは素人だけど、素質があることが分かったから」
「ひろしさんは、かずや君のお父さんのラグビーの先輩でもある」それを確認するように彼女は口にする。
「そう、だいぶ、むかしになった」
「いつか、そのメンバーが全員集まった写真を見せてもらったことがある」
「あそこの家に飾ってあるもんね」

 ぼくらがまだ輝きを手放す前の時期の写真が額のなかにおさまって飾ってある。誰もが若く、誰かの父になるという役目を知らなかった頃。すねや腕にある傷は勲章でもあり、自分が成し遂げたことや成果の過程の実際の証拠であり象徴だった。
「素敵な友情がありそうな写真」
「君らと同じ頃だよ。いまでも掛け替えのない人々」それぞれが結婚をして、そのうちの何人かは離婚をして、ぼくのように再婚したものもいる。子どもの私生活に手を焼いているものもいれば、生活の荒波に追われているものもいる。しかし、あの美しかった日々は消え去るものではないのだろう。簡単には。

「そういうひとにめぐり合えるといいですね」
「ひろし君は、どこかで楽観的で、肯定的だから相談しても駄目だよ」広美はからかうように言う。ぼくは裕紀を失ったときのすべてが悲観的に思え、何事も後ろ向きに考えてしまっていた状態を、この子は忘れているのか知らないのか判断に困った。しかし、その現状から雪代とこの子が救ってくれたのも確かなことだった。
「ひろし君は、いろいろな経験をして楽観的に努めているのよ、ね?」
 雪代が言葉で手助けするように言った。

「知ってる」広美もそう言った。瑠美という子は、相槌してもいいか迷った表情を浮かべた。彼女は何も知らない。将来、たくさんの人間になって振舞うという立場を求めるなら、いくつかの悲劇という情報や経験も彼女には必要であるかもしれなかった。だが、まだ10代の素直そうな子に、そのようなことは決して起こってほしくなかった。

 食事が済むと、彼女たちは部屋に消えた。試験の前でいっしょに勉強をするそうだ。だが、若いふたりの女性が無口でいられるはずもなく、話し声や笑い声がずっと続いていた。
「勉強してるのかね?」ぼくは独り言のように、また雪代に問いかけるようなどっちつかずの言葉を出した。
「勝手におさまるまで待つしかないのよ。自分への危機感でしか、ひとは学べないから」雪代が哲学的なことを口にする。確かにそうなのだろう。ぼくは喪失感というものが、どんなものであるかを身にしみて理解し、雪代もそうだった。そして、幸福を手に入れるとは、どんな心持ちなのかも知っていた。ぼくはテーブルに座り、世界の珍しい生態をもつ動物や昆虫をテレビで見て、奥で娘と友だちの勉強の合間の笑い声をきいている。ぼくは何かを性急に頭に詰め込む必要はなく、明日には忘れてしまうその昆虫のプログラムされた生き様を見ていた。

「雪代のあのころは勉強した?」ぼくは質問しながらも、島本さんと歩いている彼女のむかしの姿を思い出している。
「本気? 店を切り盛りできるぐらいの勉強はした。あとは経験」
「と笑顔」
「ひろし君は体力と、見せかけの誠実さ」
「袖の下とワイロ」
「ほんと?」
「嘘だよ。ラグビーしかできない男の子になりたくなかったから、帰って勉強もした」
「年上のお姉さんに色目も使った」

 そう言って、トレイに載せたカップを雪代は笑い声の静まらない奥の部屋へ運んで行った。
 時間も経ち、娘たちは部屋からでてきた。なぜか顔がふたりとも紅潮していた。瑠美はご馳走になったことについて適切な感謝の言葉を述べ、しわの寄ったスカートを手直しした。
「それじゃ、帰ります」
「広美とひろし君、途中まで送ってあげて」

 瑠美はいったん断りかけたが、楽しかった状態を持続させたい気持ちもあるらしく、その雪代の提案に従った。ふたりは肩を並べてぼくの前を歩き、それを見守る番犬のようにぼくは後ろをのそのそと歩いている。

「じゃあ、ここで」彼女はそう言い自転車に乗った。颯爽と走る後ろ姿が照明の範囲から逸れ、車輪が回転する音もきこえなくなった。
「勉強はかどった?」ぼくは、広美に訊く。
「そこそこ」
「じゃあ、今度のテストも」
「なかなか」
 彼女は先程で話し疲れてしまったように単語しか使わなかった。その後、あくびをした。すると、それにつられてぼくもあくびをした。彼女は余った体力を持て余すかのように急に走り出した。そして、途中で振り返る。ぼくは集合写真の一員であるころを思い出し、同じように走った。しかし、なかなか追いつくことはできず、ずっと娘の背中の動きを見守り、過ぎ去った年月のずっしりとした重みを感じ続けていた。
コメント
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