壊れゆくブレイン(52)
雪代がテーブルの上で、小さな紙をいじっている。むかしに比べて目と対象のものの距離が離れていることにぼくは気付く。それをいまは言わなかった。
「なに、見てるの?」
「この前、広美の友だちに会った?」
「どの子のことかな。あ、本屋で広美といたな、ひとり」
「その子が、演劇をしていて、それを見ないかってくれた」
彼女はチケットを手渡す。自分の野蛮だった学生生活をぼくは思い出している。誰かを倒し、誰かに倒され、そして、泥だらけになっていた。きれいな照明が当てられ、華やかな衣装で着飾り、大げさな化粧をした顔立ち。ぼくは、そのようなイメージを勝手に演劇という言葉から印象を作り上げていた。
彼女はカレンダーを眺め、自分の予定を考えているようだった。
「この日と、あの日なら行ける」彼女はカレンダーのそばまで寄り、ペンで何かを書き足した。違う用事のこともついでに加えていた。「ひろし君もどう?」彼女はテーブルに戻り、チケットをひらひらと揺らせた。
「構わないよ」
数日経って、ぼくは自分のクローゼットから上等な部類の服を出し、それに袖を通した。そして、自分の人生が義理の娘の生活とその波及するものから影響されていく事実を知る。ぼくの部屋には、広美の友だちが描いた妻の絵が飾られていた。家に来る彼女の友だちが、ぼくに音楽のMDをくれた。外で何人かはぼくに恥ずかしげな会釈をした。
「考え事?」雪代は黙ってとなりで歩いているぼくに声をかけた。
「いやね、広美がいることで、ぼくの生活も知らずに違った領域に足を踏み入れることになってしまったなって」
「良い感化?」
「良いも悪いもないよ。ただ、なんとなく、楽しいから正しいんだろうね」
「流される浮き輪。若い頃のわたしより、もっと影響される?」
「それは、されないよ」
話していると、時間は短く直ぐに目的地に着いた。ある小さめのホールに同様に着飾った観衆がいた。早目に来ていた広美と何人かの友人たちもすでにいた。だが、直ぐに開演を知らせるベルが鳴り、彼女たちもおしゃべりを止め、室内に消えていった。ぼくらもいくらか後方に2つの空いた座席を見つけ、そこに深々と座った。
「寝てもいいけど、いびきだけはやめてね。恥ずかしいから」と、雪代は笑って忠告した。
「寝ないよ。今日は、遅くまで寝てたから」そう言ったが、暗くなってみると、逆に雪代の首が上下していた。しかし、固い靴で舞台の床を踏み鳴らす音がすると、驚いて目を覚ました。「寝てたよ」
「まだ、はじまったばかりでしょう? ここから、集中する」
主役である広美の友だちが現れる。彼女がいると、ぼくらはひなびた田舎町にいることを忘れた。その町のもつ許容量からはみだしてしまうような優雅さが彼女には備わっていた。
「どこか、ほかの子と違うんだね、雰囲気が」雪代も小さな声でそう言った。
ぼくは、それから多少座っている位置をずらしながらも、楽しんでいた。だが、やはり、ぼくは同時期に生活を送るならボールを投げたり蹴ったりしていたほうが性に合っていた。
薄暗かった場所を抜け、ぼくらはロビーに出る。広美は珍しく、こちらに近寄ってきた。
「いっしょにご飯を食べるので、すこし遅くなる」
「じゃあ、わたしたち、外食して帰ってもいい?」
「いいよ、楽しんで」
広美と雪代の背丈は、ほぼいっしょだった。その目の位置によるのか、彼女はもう同等の考え方を有しているようにも思えたし、また自立したこころを手に入れているようだった。ぼくは、最初に会った、10歳ぐらいの彼女の身長を思い出そうとしていた。そこには、雪代の付属物としてしか考えていなかったぼくがいた。
「じゃあ、今日はちょっとだけ着飾っているから、それに合った店でご飯でも食べましょうか?」
「いいよ。喉も渇いた」
ぼくらは、また少し歩く。全体としては、幼稚な部分が多かったが主役の広美の友だちが出ると場面が一気に変わった。その興奮の余韻のようなものが確かにぼくにはあり、ぼくと雪代の間に居場所を見つけているようだった。それゆえに、会話はいくぶんだかいつもより少なかった。
それでも、店に入ると、その興奮の余韻が出口を探すようにぼくらはしゃべった。
「あの子、もっと大きな町で真剣に勉強したほうがいいかもね」雪代は、自分の娘よりその子の未来を心配しているようだった。
「そう思うよ。雪代の若いときも、ぼくはそう思っていた。この町では、サイズが小さ過ぎる」
「でも、ここが最終的には安住の地だった」
「それは、ぼくにとっても同じ感覚の場所だよ」
「でも、スタートを切るには似つかわしくないかも。とくに若い子にとって。可能性のある若い子にとって」
ぼくらには可能性の重量が確実に減っていることを知っているのだ。しかし、あの子にも、また広美にもそれは無限にあり、それを生かすも殺すも自分自身にあるようだった。ぼくらは足を引っ張らないし最大限に何事も応援するだろう。ぼくは、こうして娘から影響されていく日々を楽しんでもいたわけだ。同じように若くて無限の未来をもっていたはずの何人かの顔を思い浮かべ、そのなかから数人は、いや、たったひとりだが、未来のない時間の中に今まさにただよっているのだろう。
雪代がテーブルの上で、小さな紙をいじっている。むかしに比べて目と対象のものの距離が離れていることにぼくは気付く。それをいまは言わなかった。
「なに、見てるの?」
「この前、広美の友だちに会った?」
「どの子のことかな。あ、本屋で広美といたな、ひとり」
「その子が、演劇をしていて、それを見ないかってくれた」
彼女はチケットを手渡す。自分の野蛮だった学生生活をぼくは思い出している。誰かを倒し、誰かに倒され、そして、泥だらけになっていた。きれいな照明が当てられ、華やかな衣装で着飾り、大げさな化粧をした顔立ち。ぼくは、そのようなイメージを勝手に演劇という言葉から印象を作り上げていた。
彼女はカレンダーを眺め、自分の予定を考えているようだった。
「この日と、あの日なら行ける」彼女はカレンダーのそばまで寄り、ペンで何かを書き足した。違う用事のこともついでに加えていた。「ひろし君もどう?」彼女はテーブルに戻り、チケットをひらひらと揺らせた。
「構わないよ」
数日経って、ぼくは自分のクローゼットから上等な部類の服を出し、それに袖を通した。そして、自分の人生が義理の娘の生活とその波及するものから影響されていく事実を知る。ぼくの部屋には、広美の友だちが描いた妻の絵が飾られていた。家に来る彼女の友だちが、ぼくに音楽のMDをくれた。外で何人かはぼくに恥ずかしげな会釈をした。
「考え事?」雪代は黙ってとなりで歩いているぼくに声をかけた。
「いやね、広美がいることで、ぼくの生活も知らずに違った領域に足を踏み入れることになってしまったなって」
「良い感化?」
「良いも悪いもないよ。ただ、なんとなく、楽しいから正しいんだろうね」
「流される浮き輪。若い頃のわたしより、もっと影響される?」
「それは、されないよ」
話していると、時間は短く直ぐに目的地に着いた。ある小さめのホールに同様に着飾った観衆がいた。早目に来ていた広美と何人かの友人たちもすでにいた。だが、直ぐに開演を知らせるベルが鳴り、彼女たちもおしゃべりを止め、室内に消えていった。ぼくらもいくらか後方に2つの空いた座席を見つけ、そこに深々と座った。
「寝てもいいけど、いびきだけはやめてね。恥ずかしいから」と、雪代は笑って忠告した。
「寝ないよ。今日は、遅くまで寝てたから」そう言ったが、暗くなってみると、逆に雪代の首が上下していた。しかし、固い靴で舞台の床を踏み鳴らす音がすると、驚いて目を覚ました。「寝てたよ」
「まだ、はじまったばかりでしょう? ここから、集中する」
主役である広美の友だちが現れる。彼女がいると、ぼくらはひなびた田舎町にいることを忘れた。その町のもつ許容量からはみだしてしまうような優雅さが彼女には備わっていた。
「どこか、ほかの子と違うんだね、雰囲気が」雪代も小さな声でそう言った。
ぼくは、それから多少座っている位置をずらしながらも、楽しんでいた。だが、やはり、ぼくは同時期に生活を送るならボールを投げたり蹴ったりしていたほうが性に合っていた。
薄暗かった場所を抜け、ぼくらはロビーに出る。広美は珍しく、こちらに近寄ってきた。
「いっしょにご飯を食べるので、すこし遅くなる」
「じゃあ、わたしたち、外食して帰ってもいい?」
「いいよ、楽しんで」
広美と雪代の背丈は、ほぼいっしょだった。その目の位置によるのか、彼女はもう同等の考え方を有しているようにも思えたし、また自立したこころを手に入れているようだった。ぼくは、最初に会った、10歳ぐらいの彼女の身長を思い出そうとしていた。そこには、雪代の付属物としてしか考えていなかったぼくがいた。
「じゃあ、今日はちょっとだけ着飾っているから、それに合った店でご飯でも食べましょうか?」
「いいよ。喉も渇いた」
ぼくらは、また少し歩く。全体としては、幼稚な部分が多かったが主役の広美の友だちが出ると場面が一気に変わった。その興奮の余韻のようなものが確かにぼくにはあり、ぼくと雪代の間に居場所を見つけているようだった。それゆえに、会話はいくぶんだかいつもより少なかった。
それでも、店に入ると、その興奮の余韻が出口を探すようにぼくらはしゃべった。
「あの子、もっと大きな町で真剣に勉強したほうがいいかもね」雪代は、自分の娘よりその子の未来を心配しているようだった。
「そう思うよ。雪代の若いときも、ぼくはそう思っていた。この町では、サイズが小さ過ぎる」
「でも、ここが最終的には安住の地だった」
「それは、ぼくにとっても同じ感覚の場所だよ」
「でも、スタートを切るには似つかわしくないかも。とくに若い子にとって。可能性のある若い子にとって」
ぼくらには可能性の重量が確実に減っていることを知っているのだ。しかし、あの子にも、また広美にもそれは無限にあり、それを生かすも殺すも自分自身にあるようだった。ぼくらは足を引っ張らないし最大限に何事も応援するだろう。ぼくは、こうして娘から影響されていく日々を楽しんでもいたわけだ。同じように若くて無限の未来をもっていたはずの何人かの顔を思い浮かべ、そのなかから数人は、いや、たったひとりだが、未来のない時間の中に今まさにただよっているのだろう。